第三十七夜 十字架
おれはいつもと同じように、「TOYO」のカウンター右端のスツールに腰を下ろして、小瓶のビールを飲んでいる。
入口ドアの外側には「準備中」の札が下がっている。まだ、店には誰も入ってこない。
ママは、黙々と開店作業を続けている。
いちばん奥のスピーカーからは、ずっと、静かに、古いアイドルソングが流れている。薗田富希子の歌だ。。
おれはその優しい歌声を、ぼんやりと、壁のレコードジャケットを見ながら聴いている。
薗田富希子が、やわらかく、こちらに向かって微笑んでいる。
「……あの子、似てるわね。富希子ちゃんに」
ママが、作業の手を止める事なく、そう呟いた。
「……似てないよ」
おれは、頭の後ろをボリボリと掻いて、そう答える。
「そう? 氷瑞ちゃんも、そう感じてるんじゃないの?」
ママは、静かな口調で言葉を続けた。
「はじめてここに来たとき、一瞬、富希子ちゃんが帰って来たのかと思った……」
「…………」
「選んだ席も同じだし、うちのパスタだって、すぐに気に入ってくれたしね」
「たまたまだよ」
おれはちいさくそう言い返すと、手元のビールを、ひとくち飲んだ。
「だいたい、ここのパスタを嫌いだって言うやつを、おれはいままで見たことがない」
おれがそう言うと、ママは「たしかに」と笑って見せた。
「それに、富希子はあんなに反抗的じゃなかった」
おれは、煙草を一本、ソフトケースから取り出す。先端に、ゆっくりと静かに、火を着けた。
「あいつはやたらと頑固だし、すぐにヘソも曲げるし。あと、雇い主のおれにも、平気で意見も反論もしてくるし」
「あら」
その言葉を聞いて、ママはニヤリと笑みを浮かべた。
「富希子ちゃんだって、めちゃくちゃ芯は強くて頑固なところもあったわよ。ああ見えてもね」
「そうだったかな」
「そうだったわよ」
そこまで話すと、ふたりとも、しばらくの間をなんとなく無言になった。
店内に、ママが立てる作業音と、薗田富希子の歌声だけが、やさしく緩やかに漂った。
「もう、ずいぶん経っちゃったわね」
"誰にともなく"という雰囲気で、ママが、そう呟いた。
「そろそろ、自分を許してあげたら?」
作業が一段落したのだろうか。蛇口から流れ出る水で両手を丁寧に洗い流しながら、ママは言葉を続けた。
「ずーっと、その十字架を背負って生きていくつもり? 吸血鬼のくせに」
ハンドタオルでしっかりと両手を拭き上げながら、そう訊いた。
その時。
「すみません、遅くなりましたぁ……」
という声が、入り口ドアのベルの音に混ざってちいさく聞こえた。
中里花純だった。
花純は、露骨に疲れた表情をして、おれの隣りのスツールに腰掛けた。
「おかえりなさい」
ママがそう笑いかけて、花純の前に、グラスにたっぷりと注がれたオレンジジュースを出した。
花純は瞳に輝きを取り戻すと「いただきます」とひとこと言って、それから、差し出されたそれを、喉を鳴らしてぐびぐび飲んだ。
「今日はちゃんと駐められたのか? 車」
おれがそう訊ねると、
「駐めましたよ。っていうか、駐車場の場所、変えてくださいよ。なんであんなに、入り組んだとこ借りるんですか」
と、花純は、捲し立てるようにおれに苦情を申し上げた。
「安いからだよ」
おれが、軽くあしらうようにそう答えると、
「そのうちいつかぶつけて、修理代の方が高くついちゃいそうですよ……」
と、花純は口の中でぶつぶつ文句を垂れた。
「ほらね?」
おれがそう目配せをすると、ママは、ハンカチで口を押さえて笑い出した。
「なんですか。伯爵、なんかわたしの悪口でも言ってたんですか」
花純はそう言うと、ほっぺたをぷくりと丸く膨らませた。




