第三十四夜 急転
それからもおれは、ふたりとの関係を保ち続けた。
薗田富希子と一時間のデートを終えた後、別の場所で日野真琴と落ち合い、酒を飲んで、それから、ふたりで寝る。
日野真琴とは、お互い、私生活に干渉するような事はまったくなかった。
過去も訊かない、未来も語らない。ただ、肉の欲望を満たすだけの、都合のいい間柄。
おれたちふたりは、そういう関係だった。
その都合の良さに、おれは、どっぷりと浸かっていた。
そうなってから三ヶ月ほどが過ぎたある日、事が起こった。
*****
おれは自分のマネージャーと連れ立って、タクシーに揺られていた。
八月になったばかりの、朝からやたらギラギラと日差しが強い日だった。
「着きましたよ」
と、気怠そうに運転手が言った。四谷にある、おおきなビルの前だった。
入り口には「ムーンミュージック」と大書きされていた。
受け付けを済ますと、奥の方から小柄な人影が現れた。黒縁の眼鏡に、黒いパンツスーツ。日野真琴だ。
覇気のない、憔悴した表情だった。
「お待ちしてました」
日野真琴が、頭を下げた。
「いえ、とんでもないです」
うちのマネージャーが、ぺこぺこと頭を下げる。
おれたちは、日野真琴に促されて、エレベーターに乗り込んだ。
*****
応接室に待っていたのは、三十絡みの恰幅のいい男だった。明らかに、苛立った表情をしている。目の前のクリスタル調の灰皿に、幾つもの吸い殻が潰されていた。
おれを見やると、男はのそりとソファから立ち上がった。
挨拶を始めたマネージャーを完全に無視して、おれから数歩手前に立った。
「きみが、氷瑞君か」
そう言いながら、懐から名刺入れを取り出し、さらに、そこから一枚の名刺を取り出した。
「ムーンミュージックの、淵本だ」
右手で、ぶっきらぼうに名刺を差し出した。
おれは、それを両手で受けようとした。
その瞬間、いきなり、呼吸が出来なくなった。
空気を吸おうとしても、肺や胃や肝臓が、そのための行動を拒否しているような苦しみ。いままでに体験した事のない、苦痛だった。
床に両膝を着いた途端に、おれは嘔吐した。
朝に飲んで来たコーヒーが酸っぱい臭いの胃液と混ざって、床にぶちまけられた。
淵本に、左拳で腹を打たれたのだ。
「氷瑞君!」
日野真琴が、慌てて駆け寄って来た。
差し出された白いハンカチで、おれは口元の反吐を拭った。
「氷瑞君……ね」
淵本は、おれの髪の毛を掴んで、無理矢理に立ち上がらせた。何本かの髪の毛が、ぶちぶちと音を立てながら抜けたのがわかった。
「おまえ。自分がしでかした事の重大さが、ちゃんとわかってるんだろうな。あ?」
応接テーブルに、押し付けるように倒された。
そこに置いてあった、数枚の紙に、ぐりぐりと顔を押しつけられた。
日野真琴とうちのマネージャーが淵本に縋りつき、それから、おれは引き剥がされた。
おれは、うめきながらもなんとか起き上がった。
「読んでみろ」
淵本が、しわくちゃになった紙切れを、おれに向けて突き出した。
右手で、その紙を取った。
週刊誌の、ゲラ刷りのコピーらしかった。
そこには、
【薗田富希子、禁断の二股愛! 逢瀬の相手は、なんと自マネージャーの恋人! 独占スクープ撮!】
と、でかでかと冒頭コピーが踊っていた。
いつの間に撮られたものなのか、不鮮明ながらも、おれと薗田富希子が店の入り口で談笑しているところ。それと、おれが日野真琴と並んで歩いているところの写真までもが載っていた。
「おまえみたいな色物バンドの三下ギター弾きが、よりによって、うちの看板に手ェ付けやがって」
淵本は、憎々しげにそう呟いた。
おれは、頭の中が真っ白になっていた。
いま起こっているこれが、現実の出来事だとは、思えなかった。
その時だった。
「淵本部長!」
グレーのスーツを着た男が、血相を変えて応接室に飛び込んで来た。ノックさえもしなかった。
「富希子フッコが……」
グレースーツの男は、真っ青な顔で、おおきく肩で息をしながらそう言った。
「どうした」
淵本が、男を睨みつけながら、そう訊いた。
「富希子が……自宅で、手首を切りました……」
グレーのスーツの男は、青い顔のまま、そう言った。




