第三十三夜 成り行き
左半身にぴったり張り付いていた肌と重みと体温が、不意に離れた。そのはずみで、おれはうっすら目を覚ました。
薄明かりの下で、人影が動いた。
ライターが着く音がした。それから、煙草を吸い付ける鼻息。ちいさな吐息。紫煙。
おれも、のっそりと上半身をベッドに起こす。
「ごめんね。起こしちゃった?」
と、煙草を吸っていた人影の主は小声で言った。
おれは、
「いや」
と、ちいさく返して、ぼりぼりと頭を掻いた。
ゆっくりとベッドから降りた。そのまま、薄暗闇の中を、便所に向かう。
見慣れないトイレマット。
見慣れないスリッパ。
見慣れない、ちいさな観葉植物。
……ここは、どこだったかな。
おれは便座に腰掛けると、まだ回らない頭でゆっくりと考えた。
*****
二軒目にふたりが訪れたのは、おれがたまに行くジャズバーだった。
カウンターだけのちいさな店で、やたらとジャズに詳しい初老のマスターが、ひとり黙々とやっているところだ。
そこでレコードを聴きながら、ワイルドターキーのニ、三杯は飲んだだろうか。
「さすが。氷瑞様は、素敵なお店をご存じで」
店内にゆったりと流れる「ウイップラッシュ」を聴きながら日野マネージャーはそう呟いた。
「その"様"ってのと敬語、よかったらやめてもらえませんか」
おれは、笑ってそう言った。
「おれたち、そんなに年の差ないでしょう?」
「あら」
日野マネージャーは、おれの顔を覗き込みながら笑った。
「女性に年齢を訊くタイプ?」
「そんな事はないですけど」
おれも、笑ってそう返す。
「そうね。なら、ここからは氷瑞君で。……確か、わたしの方が上ね。二十六になるから」
日野マネージャーが、グラスを口に運ぶ。
「一応、公称は"三百二十三歳"なんですけどね」
おれがそう言うと、日野マネージャーはけらけらと笑った。
「で、どう? 年上の女と飲む事は多いの?」
おれは、
「さぁ。どうですかね」
と、はぐらかした。
「なら、年上の女と寝た事は?」
日野マネージャーが、からかうような視線を向ける。
「……さぁ。どうですかね」
おれは、もう一度はぐらかす。
「じゃあ……富希子とは? あの子と寝たいとは思わないの?」
その質問に、おれはちいさく笑って答える。
「おれは、ロリコンじゃないですから」
「あら。十七歳は、立派な女じゃない?」
おれは、となりのスツールにちょこんと腰掛けて、瞳をきらきらさせながら微笑む薗田富希子の顔を、頭の中に描いた。それから、ちいさく首を横に振った。
「かわいいですよ。だけど、ちょっとそういう対象ではないかな」
そう言って、日野マネージャーの顔を見つめた。彼女は、ちいさく笑って、グラスを傾けた。
*****
その後、さらにニ、三軒の店をハシゴして、それから、大通りでタクシーを拾って。
そうか。
結局そのまま、日野マネージャーの住んでいるマンションに泊まったのだ。
ところどころに、記憶の断片がある。
他愛もない会話。
肩を抱くようにして歩いた夜の街。
タクシーの中で重ねた唇の温度。
肌の感触。柔らかな乳房。甘く潤った性器。
おれは、用を足し終えてトイレから出た。
薄明かりの中、全裸の日野女史がベッドの端に腰掛けていた。おれも、裸のままだった。
「なにか、飲み物ある?」
おれが訊くと、
「冷蔵庫に」
と、日野マネージャーは部屋の端を指し示した。扉を開けると、何本かの缶ビールが並べてあった。バドワイザーだ。
「わたしもちょうだい」
日野マネージャーの言葉に頷き、おれは、二本の缶ビールを取り出し、ドアを閉めた。
ふたりで、裸のままビールを飲む。
ふた口ほど飲んだところで、日野マネージャーはビールの缶をサイドボードの上に置いた。
それから、ゆっくりとおれの首に両腕を回してきた。
「いま、何時くらいだっけ」
おれがそう訊くと、
「まだ三時」
と日野マネージャーは答えた。
それから、おれの唇に、自分の唇を重ねてきた。
おれたちは、ゆっくりと、互いの舌を味わった。
「……夜はまだこれからでしょ?」
唇を離して、日野マネージャーが囁いた。
おれは、彼女の身体をゆっくりとベッドに横たえらせた。




