第三十二夜 危険な夜
おれと薗田富希子の「お忍びデート」は、ふたりのスケジュールがうまく空いたタイミングで、ちょこちょこと執り行われた。
とはいえ、もうお互いが忙しい身だ。
テレビの収録や、ラジオの出演。レコードの録音にライブやコンサート……ふたりとも、やらなければいけない事がぎっしりとスケジュール帳に書き込まれている。これらをこなすだけでも、手一杯。そのうえ、薗田富希子はまだ高校生でもある。
一応、芸能関係者が数多く在籍している事で有名な某私立高校に通っているので、仕事が理由での休みであれば、まぁ、単位だ出席だのは、まだ融通はきくらしい。
そんなこんなでなんとか共通の時間が作れた時は、いつも、日野マネージャーが運転するクラウンに乗って薗田富希子はやってきた。
決まって、カウンター席右から二番目のスツールに腰掛けて、おれを右端の席に着かせた。
現場の話。
スタジオの話。
学校の話。
いろんな話を、楽しそうに喋ってくれた。
そして、おれが仕入れてきた話に、腹を抱えて笑っていた。
自分が作詞した、新曲のテープを聴かせてくれた事もあった。「良かった」と素直に言うと、白い歯を見せてはにかんだ。
ママが作るパスタがお気に入りになって、いつもそれをオーダーした。
「すこしダイエットしなさい」と事務所に命じられてからは、ちょっと悲しそうな顔をしながら、その大好物のパスタは、おれと半分こされるようになった。
一時間が経ち、日野マネージャーが表に現れると、いつも、ほんとうに寂しそうに俯いた。それでも、最後にはその顔に満面の笑みを浮かべて、
「おやすみなさい」
と、薄暗くなり始めた街の中へと帰っていった。
本当の自分の顔を、アイドル「薗田富希子」の仮面で覆い隠して。
*****
その日は、雨が降っていた。
おれは幾度目かのデートを終えたあとも、そのまま店に居座って、ちびちびと酒を飲んでいた。
手元には、ビールの小瓶とミックスナッツ。それと、薗田富希子が仕事で行ったスイスの土産に「おそろいですよ」と買って来た、薄い青色のサングラス。
明日明後日は休みを入れていた。
おれの他には、ボックス席にひと組お客がいるだけの、まぁ、なかなかに暇そうな、そんな気怠い日だった。
入口ドアのベルが、がらんごろんとゆっくり鳴って、それから、お客がひとり入ってきた。
そのお客は、おれのみっつ離れたスツールに腰掛け、それから、おれに向かって「あら」と言った。
おれも、そのお客の顔を見た。
それは、日野真琴マネージャーだった。
*****
おれと日野マネージャーは、軽くグラスを合わせて乾杯をした。
おれは、ジャックダニエルのロック。日野女子は、ドライマティーニを。
「富希子を連れて来るたび、とにかくあの子が"素敵なお店だ"って言うものだから」
日野マネージャーは、ゆっくりとグラスを傾けた。
「一度、お邪魔してみたいと思ってたんです」
日野マネージャーはちいさく喉を鳴らすと「おいしい」と笑った。
「あの子がもうちょっと大人になれば」
おれは、ちいさくグラスを揺らして氷を鳴らしてみせた。
「もっと良さがわかるでしょうけどね」
「あら」
日野マネージャーは、ニヤリと微笑んだ。
「まだ子供ですか? 富希子は」
その問いかけに、おれは、肩をすくめて見せた。
顔を見合わせて、ちいさく笑って。それから、ふたりともグラスを傾けた。
「富希子は、氷瑞様のことを、本当に好きになっているみたいです」
こちらを見ずに、手元のグラスをもてあそびながら、日野マネージャーは呟いた。
おれは、テーブルの上の煙草のパッケージを手に取り、そこからセブンスターを一本抜き取った。
口に咥えると、日野マネージャーが手を伸ばすようにして火を着けてくれた。
「わかってますよ」
おれは、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出して、そう答えた。
「……さすがの余裕ですね」
日野マネージャーが笑った。
「国民的アイドルから好意を寄せられても、平然としてらっしゃる」
おれは、そう言いながら日野女史が差し出した灰皿を手元に引き寄せた。
「好意……ね」
灰をすこし、灰皿に落とす。
「よくある台詞だけど、はしかみたいなもんですよ。"恋に恋する"ってやつ。……本当に、おれという人間が好きなわけじゃない」
指先の煙草があげる一条の細い煙を見つめながら、おれは言った。
「はしか……そうかも知れない」
日野マネージャーは、ちいさく呟いた。
「氷瑞様は、どうなんですか」
いきなり、おれに向けてそう訊いた。
「どう?」
「富希子の事を、どう思ってらっしゃるのかな、と」
おれは、苦笑いをしてぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
「……まぁ、ありきたりですが。"妹"みたいな感じってやつですか」
おれのその答えを聞くと、日野マネージャーはゆっくりと目を細めて、笑って見せた。
「氷瑞様、御きょうだいは?」
「おれは、ひとりっ子ですよ」
「なら、妹みたいなんて言うのは、ウソだと思いますわ。いた事もないのに、そんな感覚がわかるわけありませんもの」
なるほど。
それは、言われてみればそうかも知れない。
「つまり、富希子を女としては見られない……と」
日野マネージャーは、笑いながらグラスを傾け、ドライマティーニを飲み干した。
「参ったな」
おれは笑いながらそう言うと、女史に続いて、自分のグラスを空にした。
ふたりで、お代わりをオーダーした。
「いえ、わたしとしては助かりますわ。そっちの方がね」
ママがテーブルに差し出した二杯目のドライマティーニを手に取って、日野マネージャーはそう笑った。
おれも、届いたジャックダニエルを、口に含んだ。
しばらく、ふたりとも無言で飲んだ。
「氷瑞様」
日野マネージャーが、グラスに視線を落としたまま、呟いた。
「なんです」
おれは答えた。
「……なら、わたしならどうですか?」
そう言うと、日野マネージャーはおれの目を見て、ちいさく妖しく微笑んだ。




