第二十四夜
その次の日。
明日からしとしとと小雨が降り続ける、なにやらパッとしない天気の日だった。
おれは昼飯を済ませると、また、信濃町のスタジオに足を運んだ。
実のところ、昨日のうちにおれの仕事は終わってしまっていた。やたらと調子良く、我ながら納得も満足もいくギターが弾けたのだ。モンセクに加入して以来、初めてと言っていいほどの、手応えを感じたプレイだった。
ただ、昨日の別れ際に「また明日」と薗田富希子に言われたのが気に掛かって、ついつい、電車に飛び乗ってしまった。
……もう、話す機会もないかもしれないし、まぁ、別れの挨拶くらいはしておくかと、おれは、柄にもなくそう考えていた。
いつもの喫煙所に、おれは向かった。
角を曲がると、先客がいるのがチラリと見えた。
それは、薗田富希子ではなかった。
黒いパンツスーツに、黒縁眼鏡の、若い女。昨日一昨日と、薗田富希子を迎えに来ていた、あの女だ。
おれは、女に軽く会釈をすると、灰皿の前、長椅子に腰を下ろした。
「ひみずさん……で、いらっしゃいますか」
いきなり、女が声を掛けて来た。
おれは尻ポケットから煙草を取り出す手を止めて、
「はい」
と、答えた。
女は立ち上がると、おれに向けて頭を下げて、一枚の名刺を差し出した。そこには、
ムーンミュージック
タレントマネジメント部 日野真琴
と、記してあった。
おれはそれを受け取ると、
「すいません。おれ、名刺をもってなくて」
と、少し申し訳なくなって、頭を掻いた。
女……日野女史は「いいえ」と、ちいさく言った。
「で、なんの御用ですか」
おれは、煙草を咥えて、そう訊ねた。
そこに日野女史が、ライターを持つ手を伸ばして来た。
おれは少し恐縮しながらも、口元の煙草へ、日野女史に火を着けてもらった。
「単刀直入に言います。もう、薗田富希子とはお会いしないようにお願いします」
日野女史は、強い口調でそう言った。
おれは、その口ぶりに思わず面食らった。
……まぁしかし、女史の言い分はよくわかる。
大規模なオーディションを開催して発掘し、これまでもこれからも、多額の金と膨大な時間、多くの人員を割いて育てていくのであろう金の卵。それに、デビュー前から、どこの馬の骨ともわからん悪い虫が付くのは、大手芸能事務所としては、まぁ、非常に困った事だろう。
「わかりました」
おれは、あっさりとその言葉を了承した。
「え?」
日野女史は、スカを食らって、拍子抜けした顔を見せた。
「おっしゃる事はわかりますよ」
おれはそう言うと、深々と煙草を吸い付けた。
なんだか気の抜けた表情になった日野女史が、少し離れた位置に腰掛け、胸元から、自分の煙草を取り出した。女史がそれを口に咥えた時、おれは、横からライターの火を差し出した。
日野女史は一旦煙草を口から離し、
「すみません」
と、言ってから、おれの火を煙草で受けた。
しばらく、ふたりで無言のまま、煙草をふかした。
「富希子から聞いた時は」
いきなり、日野女史が口を開いた。
おれは、ゆっくりと彼女の方を向いた。
「さっそく、悪い虫が寄って来た……と、思いました」
その言葉に、おれは思わず吹き出した。
「ひでぇ言われようですね」
おれが言うと、
「今まで、さんざんな目に遭って来ましたから。……でも、氷瑞様がいいひとでよかったです」
と、女史は笑った。
「聞き分けが、ですか?」
と、おれが軽く混ぜっ返すと、女史は、
「意地悪」
と、苦笑いをして呟いた。
やがて彼女は、灰皿で煙草を揉み消し、立ち上がった。
「ご無礼をお許しください、氷瑞様。……では、失礼いたします」
そう言って、頭を下げた。
おれも軽く立ち上がり、頭を下げた。そして、
「あの子に、"頑張って"と、お伝えください」
と、言った。
日野女史は、
「承知しました」
と言うと、満面の笑みを見せた。
それから、もう一度深々とおれに頭を下げた。
そして、踵を返し、彼女は、向こうの通路へ消えていった。
おれの背中の窓の外は、相変わらず、くすんだ灰色に染まっていた。




