第十四夜
「……なんか食いに行くか」
と、ボソリと言うと、伯爵は車道に向けてスッと右手を挙げた。
狙い澄ましたように、「空車」のサインを掲げて走って来たタクシーが、わたしたちの前にゆっくりと停車した。
伯爵と古原弁護士が後ろに、わたしが助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。
「どちらまで」
白髪頭の、ひとの良さそうな運転手さんの問いに、
「新宿二丁目。◯◯までお願いします」
と、伯爵が答えた。
右ウィンカーを出しながら、タクシーはゆっくりとジュピターミュージックの入ったビルを離れた。
*****
「準備中」の札が下がっているのに、伯爵は、それにはまったく構わなかった。
ちいさな「TOYO」という看板が掛けられた木製のドアをぐいと押し開ける。扉の内側に付けられたレトロなベルが、がらんごろんと、乾いた音で二度鳴った。
レストラン……ではない。喫茶店か、あるいはバーかという雰囲気のお店だった。
程よく絞られた照明、磨き込まれたテーブルとカウンター、掃除が行き届いた、鈍い黒色に光る床、ずらり壁際に並んだお酒の瓶、ほのかに感じるハーブの香り。
はじめて来たのに、なんだか、不思議な懐かしさを感じるような。そんな、落ち着いた雰囲気のお店だった。
「あら、氷瑞ちゃん。どうぞお好きな席に」
とカウンターの中から声を掛けて来たのは、細身で長髪の男のひとだった。
身長は伯爵と同じくらいだろうけど、まぁ、とにかく、華奢。
白地のシャツと、細いパンタロンに包まれたその肩も、腰回りも、脚も、指先も。全てが細くて綺麗で、お手入れが行き届いてる感じ。……完全に女子力負けしてる。わたし、女なのに。
わたしが戸惑っていると、
「好きに座りな」
と言い残して、伯爵はお手洗いの方へ行ってしまった。わたしはちょっと悩んで、それから、右からふたつめのハイスツールになんとなく腰掛けた。
その様子を見て「あら……」と、その綺麗な男のひとは目を細めて呟いた。それから、よく磨き込まれたグラスに注がれた、お水をくれた。
それをひと口だけ飲んで、わたしは、店内を見渡した。綺麗な男のひとは、ふたたび、カウンター内でなにやらの作業に取り掛かった。
ふと見ると、正面の壁に、一枚のレコードジャケットが掲げてあるのに気がついた。
ずいぶんと古いものらしかった。すごくかわいらしい女の子が、首を傾げるようにして、やわらかい笑みを浮かべていた。そして、そのジャケットの前の棚には、白いちいさな花が、一輪挿しでいけてあった。
そこに、伯爵がハンカチで手を拭きながら戻ってきた。
と、座っているわたしを見て、伯爵はいきなりその細長い足を止めて、立ち止まった。
「な、なんですか……?」
わたしが訊くと、
「いや。なんでもない」
と答えて、それから、わたしの右隣。いちばん右端のハイスツールに腰掛けた。
「なんか嫌いなものはあるか?」
伯爵が、わたしにそう訊いた。
「嫌いな……。納豆とか」
わたしが答えると、伯爵はちいさく笑って頷くと、
「ママ、こいつになんか作ってあげて。納豆以外で」
と、綺麗な男のひとにそう言った。
ママと呼ばれた彼は、
「任せて」
と笑顔でそう答えると、伯爵の前に小瓶のビールと灰皿を差し出し、料理の準備に取り掛かった。
やがて、静かな店内に、包丁が刻む心地よい調理のリズムが鳴り響いた。
*****
ママさんが作ってくれた、めちゃくちゃおしゃれで美味しいパスタをわたしがあらかた食べ終えた頃、
「しかし……あのタヌキおやじ、ちっとも変わってなかったな」
と、伯爵は、ビールが半分ほど入った小瓶を片手に、ぽつりとそう呟いた。その視線の先には、先ほど淵本社長が寄越した名刺が置かれている。
「あの……」
わたしは、おそるおそる口を開いた。
「伯爵、ジュピターの社長と知り合いだったんですか」
伯爵は、右手の人差し指で名刺を軽く突ついてから、
「まぁ……。ちょっとな」
と、わたしを見ずに、そう答えた。




