落葉一葉
遅い台風が南の海上を東に抜け北からの吹き降ろしの風がビルの谷間を通り過ぎた。
十月末日、異常気象で熱かった日々が嘘のように肌寒い朝だった。
葉澤楓はビジネススーツに袖をとおし、襟元にスカーフを撒いてガランとした空き部屋となるアパートを出た。市電を乗り継ぎ地下鉄駅からビル街の地上に出た。
大学卒業後六年間通った通勤路である。葉澤楓二十八歳商社に勤める女子社員はこの日を最後に退社する。ビルの谷間を通り過ぎる風に襟元を押さえて、楓は多くの通勤者に混じって足早に勤めていた会社ビルに向かった。会社ビルの玄関に至った楓は一時間後退職の挨拶を終えてビルを出た。一度ビルを見上げた楓は未練を断ち切る様に来た道を歩き出した。
ものの十数歩歩いた頃、それは風に乗って転がり楓のハイヒールの足先で止まった。時期的には早いのか遅いのか少し赤茶けた落ち葉だった。
ー・・カエデの葉・・何処から・・そう私に別れを告げに来たの・・じゃあ私と一緒にこの都会を出ようかー
何処かの公園から迷って飛んで来たのか、そのカエデの落ち葉を膝を折って拾い上げた楓はハンドバックの中から取り出した緑色の手帳に挟んだ。
「何を拾ったのかと思ったら落ち葉だった。カエデの落ち葉・・秋ですね」
後ろから掛けられた声に楓は立ち上がり振り向いた。背広姿の三十歳前後の男が笑顔で立っていた。「・・・」楓は男を無視して地下鉄駅に向かって歩き出した。
「今日はもう帰宅ですか・・何年も見ている貴女にしては珍しい・・」男は楓の後から着いて来た。「何年も見ていた・・貴方はストーカー・・」「違いますよ。毎朝同じ電車で通勤し、同じ道で会社に向かう。帰りは時々同じ電車に乗合す・・貴女とはただそんな関係ですよ」
「そう・・ではそれも今日でお仕舞いね・・さようなら・・」「えっ・・」
後ろの男の足音が止まった。男の声が聞こえなくなった。楓はビルの谷間を抜け私鉄の地下鉄駅に降りて行った。
葉澤楓が商社に入社した時五人の同期生がいた。男姓二人女姓三人、その内男姓二人は地方の支社
に配属されその内海外支社へと転勤し合う事がなかった。女性三人の内一人は二年も経たない内に大学生時代に交際していた男に嫁いで会社を去った。後の二人、楓と佐川碧は同じ課でショッピングや旅行に親交を深め親友となった。二人が話す時何時も一人の男性が話題になった。
その男性とは会社の同じ課の係長、島田幸雄三十二歳地方の造り酒屋の御曹司で容姿端麗、背の高いイケメンの男だった。
「楓、係長に気があるならモーション掛けて見なさいよ。貴女は良く言えば控えめで悪く言えば何事にも自分の意志を表に現さない事よ」
そう言った佐川碧は都会育ちで何事においても明るく活発な美人だった。碧には二人の兄がおり二人共妻帯していた。そんな気楽な環境で暮らしいる碧は、楓にとって羨ましい存在だった。その碧が半年前、突然係長の島田幸雄と結婚し退社して行った。後になって島田と碧は三年越しの付き合いだった事が判った。裏切られた思いに楓は打ちひしがれた。それにも増して今までの碧との会話が全て島田に筒抜けだったと思うと顔から火が出る思いだった。
―許せないーと思っても日々顔を合わせずにはいられない島田係長から逃れる事は出来なかった。碧が結婚して三か月が経った頃化粧室で顔を合わせた後輩が楓の耳元で囁いた。
「先輩は島田係長が好きだったのですか・・」楓はその後輩の顔を見た。後輩はうつ向いていた。
「誰がそんな事を・・」「結婚前に碧先輩がそれらしい事を・・」
「碧がそんな事を・・馬鹿だねあの人は、私が何も知らないとでも思っていたのね。あの子が島田係長の事を余りにも話すから、わざと話に乗ってやったのに・・」
「そうですよね。男嫌いの楓先輩がそんな事を・・あっごめんなさい。私はつい本当の事を・・」
「アッハッハ。いいのよ。本当の事だから。でもその話何処まで広がっているの」
「あっそれは判りません。私以外どれ程の人に話していたか・・」
「そう・・困った人よね。私はいい迷惑なんだけど・・きっと独身女性憧れの人を自分の物にした優越感がそんな言葉になったのかな」
「きっとそうですよ。でも楓先輩をだしに使うなんて・・いやな人ですね」
後輩の女性社員が化粧室から出ていった。楓の心は煮えたぎっていた。
ー係長に気があるならモーションを掛けてみなさいよーにやけた顔の碧の顔が目に浮かんだ。
この日が碧との断交を決意した日になった。
空しい日々が過ぎてゆく。灼熱の夏が過ぎた頃実家の父から電話が入った。
「母さんが病気で倒れ入院した。帰って来い」沈んだ声だった。
「母さんの病気って・・」「脳梗塞だよ。体に障害が出る恐れがあると医者は言っている。出来れば仕事を止めて帰ってほしい・・」「分かったわお父さん。私帰る」
会社を辞めたい。そう思っても親にどう伝えれば良いのかと悩んでいた矢先の出来事だった。楓は直ぐに退職届を書いた。心は既に故郷に飛んでいた。
キャリーバッグを引きアパートに別れを告げて楓は帰郷の途に着いた。
在来線本線からローカル線に乗り換え列車は故郷に近づいて行く。故郷に帰れば二度とこの列車に乗る事はないのではと、今更ながら都会の生活への惜別の念が込上げた。谷間を走る列車が長いトンネルを抜けると故郷の無人駅はすぐそこにある。正月以来の帰郷だった。
二両編成の列車が無人の田舎駅に停車した。小さな古い駅舎の前に白い軽四輪トラックが止まっていた。「帰ったか・・」迎えに来た父親は楓の引く赤いキャリーバッグを軽四輪トラックの荷台に積んだ。「お母さんの容態は・・」助手席に座った楓は直ぐに尋ねた「ああ今は落ち着いている。明日病院に行って見よう」車を走らせながら父親は前を見つめたままで言った。
翌日から家事と母親が入院している病院への往復と忙しい日々が続いた。父親は農協理事を務めており毎日出勤している。一月後母親が退院してきた。家に帰ると母は大きく息を吐いた。
左足に麻痺が残り杖を突いて歩いた。「お母さん明日からリハビリで歩こうね」楓に言われて「病院の生活より厳しくなりそうね」と笑った。十年ぶりに親子三人の生活に戻った。十二月の声を聴き実家の生活に慣れてくると楓の心境に変化が出て来た。ーこのまま年老いて行くのか。
まだ二十代何かをしなくてはーそんな楓の心を見透かした様に仕事から帰って来た父親が言った。「役場の助役が役場の受付臨時職員を探しているが楓にどうかと言って来た。来年正月明けからという事らしいが・・」「えっ助役って、私の同級生の田島美里のお父さん」「そうだ。お前が仕事を辞めて帰っていると娘から聞いたらしい」「里美は今どうしているのかな」「娘は隣町に嫁いで子供は二人いるらしい。近いので頻繁に帰っているらしい」
田舎では人の動きには敏感だ。楓の帰郷は日ならずして地区民の知る処となっていた。
ー田舎の同級生っていいもんだなー楓は会社の佐川碧の事を思い出し、裏切られた悔しい記憶を直ぐに打ち消し脳裏から消した。
正月元旦午前零時。テレビ放映の除夜の鐘を聞いて楓は氏神様の神社に初詣に向かった。神社に向かう老若男女の列が鳥居の下まで伸びていた。境内には焚火が焚かれ参拝を済ませた人々が取り巻いて暖を取っていた。楓は首に巻いたマフラーで顔を半分隠しお参りを澄ますと境内横の社務所に向かった。そこでは例年どうり宮総代達が御守り札や絵馬を売っている筈だった。社務所の前まで来ると開け放たれた社務所の中から呼ぶ声が聞こえた。
「葉澤・・カエデ・・」社務所の中を覗くと同級生の松木信也の笑顔があった。
「のぶちゃん、なぜ貴方がここに居るの・・」楓が尋ねた。「氏子総代の親父が忙しいので代理だよ。帰って来ている事は知ってたよ。お母さんの具合はどうだ・・」
「ああ完治とはいかないけれど、元気になったよ。家内安全の御札を一つちょうだい」
「ハイハイ」側にいる氏子総代の年寄りからお札を受け取ると信也は楓に手渡しお代を受け取りながら言った。「明日家の店に同級生が集まるけど来ないか。十時頃来いよ」
松木信也の家はこの地区唯一の仕出し屋食堂で店の屋号は松屋だった。楓は出席を伝え踵を返し後ろの女性とぶつかりそうになった。その女性は二人の幼子の手を引いていた。
「あっごめんなさい・・」誤って目の前のその女性の顔を見た。
「あっ・・」顔を見合わせた二人は同時に声を上げた。「里美・・」「カエデ・・」微笑んで楓は
見上げる二人の子供を見た。「もうこんな子供が・・」二人の頭を撫ぜながらその後ろに立つガッシリとした背の高い男を見た。「主人よ・・」里美が照れた様に言った。「横川です。宜しく・・」
男が頭を下げた。「あっこちらこそ同級生の葉澤楓です。宜しくお願いします」楓も頭を下げた。
「のぶちゃんから聞いたわね。明日松屋でゆっくり会おうね」楓は里美に再会を約束して別れた。 翌日、富倉小学校の同級生三十五人の内川辺地区の同級生十人が松屋に集まって再会を喜びあった。
正月明けの一月十五日。楓は役場の受付臨時職員になった。込み合う通勤電車に乗る事もなく、自宅から僅か十五分の車通勤だった。楓にとって仕事は単調で簡単だった。
二月。数日前のドカ雪で野山や田畑、家々の屋根は白銀に染まったままだ。楓は受付カウンターの内側で椅子に座り来客の来ない玄関先の雪景色をボンヤリと見ていた。突然胸ポケットのスマホが振動した。楓は後ろの部屋を振り向き職員が仕事に没頭している様子を確かめてスマホを取り出した。ラインに着信マークが付いている。ラインを開いて見た。発信者は知らない男の名前だった。ー誰この人・・私の携帯番号何故知っているのよ・・ー見ると動画が送られていた。 ビルの谷間が映し出され、その道を一人の女性が歩いて行く。ーこの女性私じゃん。何よこれ・・ー女性が立ち止まり足元を見た。膝を折って何かを拾い上げた。落ち葉だった。
楓は忘れていた物を思い出し、ハンドバックから手帳を取り出し間からカエデの落ち葉を取り出して見た。動画は拾った落ち葉を手帳に挟みハンドバックにしまう処で終わっていた。
ーあの男だわ・・ー楓はあの時後ろから声を掛けて来たダークグレーの背広姿の男を思い出した。動画の後に文面があった。
もうお気ずきでしょう。あの時声を掛けた男です。私は貴女が勤めていたビル近くの毎朝新聞社に勤めていましたが、貴女に声を掛けた頃転職を考えていました。あの時貴女が言った今日が最後との言葉が私の転職の思いを決定付けてくれました。
私は貴女が気になり、貴女が勤めていた会社に行き貴女の事を聞いてみました。会社の受付では個人情報は教える事は出来ないと断られました。それでも休み時間に会社を出て来た女子社員に尋ねた処その人は私を信じてくれて、貴女の携帯番号と出身地まで教えてくれました。
私は驚きました。貴女は私と同じ地方出身だったのです。退社後私は貴女の住まいを調べて富倉町の人だと探し宛ました。私の実家は倉野市で富倉町から車で一時間程の処です。
帰郷後私は教職に就くことになりました。春にはいずれかの小学校に赴任する事になります。
私が貴女の姿を通勤の道で意識した数年前、以来あの日まで僕は貴女の後を追いかけていた様です。それは憧れであり片思いだったと今になって確信しています。すいません。
申し遅れましたが私の名前は藤沢勝也三十歳、今だ彼女無の独身です。もし貴女が付き合っている人がいて、結婚されていたならお許し願います。
あの一葉の枯葉が初めて貴女に声を掛ける切っ掛けを作ってくれなければ今の私はいませんでした。もし宜しければライン友達になってください。御返事をお待ちしています。
楓はそのラインの文面を何度も読み返した。
「カエデ・・」受付カウンター前から声がした。「はっ」と目を上げると何時の間に来たのか父が笑って立っていた。「コラ真面目に仕事をしなさい」「あっごめんなさい。気づかなくて・・」
「駄目じゃないか。助役を呼んでくれ」「ハイご用件は・・」「コラ父親が頼んでいるのだ。農協前の道が凍って危ないから凍結防止の苦りを分けて貰おうと思って来た」「ハイハイお取次ぎいたしますよ」楓はぺろりと舌を出し助役の席に歩いていった。
帰宅した楓は思い悩んでいた。スマホとハンドバックの中の緑色の手帳からカエデの落ち葉を取り出し見つめ続けた。自分には恋など無縁と思い続けて今日まで来た。それがどうだ。自分に興味を持って見てくれた人がいた。楓の心に温かい何かが沸き上がっていた。
三日後楓は思い切ってスマホを握った。
都会のビルの谷間。風に乗って幸せを運んで来たカエデのは一葉、今は楓の大事な宝物になった。この物語の完結は貴方にお任せします。