エーギル・クロックフォード2
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エーファがカナンの家に訪れる日。仕事で遅くなったのでもう彼女は帰ったかもしれないと思いつつも、エーギルは早足でカナンの家に向かう。
セレンティアの遺骨の件で話があると言われていたから、カナンの家にいるなら話ができてちょうどいいと考えていたのだ。
鳥がいつもピーチクパーチクうるさい門をくぐってしばらく歩くと、急に庭が静まり返った。この辺りだけ様子がおかしい。何があったのだろうか。
「変態!」
「ほら、早く鯉に餌をやらないとかわいそうだ」
「そんなにくっつかなくていいでしょ」
「あの後ろの鯉は押しのけられてあまり餌を食べていない。かわいそうだからあの辺りに投げてやったらどうだ」
「離れてってば。あ、カメもいる!」
アザール家では池で立派な錦鯉を飼っている。カナンの父親の趣味だ。
色鮮やかな鯉のいる池の側にエーファは立っていた。手には鯉の餌を持ち背中にリヒトシュタインが張り付けている。正確に言えば、リヒトシュタインが背中からエーファを抱きしめていて彼女はギャアギャア怒っているようだ。大変騒がしい。
エーギルは二人の姿を認めた段階で静かに立ち止まった。
エーファはギャアギャア言いながらも餌争奪戦に負けた鯉に向かって餌を投げている。
「大体、今日はついてこないって言ってたでしょ」
「帰りが遅いから迎えに来ただけだ」
「まだ明るいし数時間しか滞在してないから! ミレリヤだって気を遣うでしょ」
「彼女は俺に会えて嬉しそうだったが? エーファのことをよろしくと言ってくれたのは彼女だけだな」
「使用人達が腰抜かしてたじゃない」
「仕方がない。俺は竜人の匂いがしないように認識阻害までかけてきたのに鳥人は軟弱だ。俺の姿を見ただけで腰を抜かすとは」
腰を抜かすだろう。この場にだけ鳥がいないのも納得だ。
鳥人は鼻がそこまでよくない上に天空城のあたりまで飛び回るので竜人には慣れている方だ。しかし、本来竜人が来るはずのないところに竜人がいて目視してしまえば腰を抜かす。
天空城に向かうと気負っているならいいが、全く何の心構えもしていない時に一瞬でこちらを捻り潰せる最強の種族と出会ってしまうのだ。本能で頭の中が恐怖に塗りたくられて当然だ。
「俺は邪魔なようだから彼女のところに戻ってエーファの過去の話でもしておこう」
「ミレリヤとはドラクロアに連れてこられる時に初めてお互い認識したくらいよ。過去は大して知らないはず」
「では、ドラクロアの道中のエーファの様子の話でも聞こう」
「そんなの私に聞けばいいでしょ。不貞腐れてただけだし」
鯉に餌をやり終わったらしい。エーファがリヒトシュタインの腕をペシペシと叩いて乾いた音が響く。
なんて怖いもの知らず、とエーギルは少しばかり震える。最強の竜人にあのふてぶてしい気安い態度。
いや、その前にあれは本当に最強の竜人リヒトシュタインだろうか。エーファに叩かれても嬉しそうに笑って引っ付いている。その姿は番である母を前にしたエーギルの父親のようで……誰にも懐かない珍獣がエーファに懐いているようにも見える。
本当に誰だ、あれは。
竜人リヒトシュタインといえば、鳥たちの噂によると最も強く、気高く、何にも興味がない飄々とした竜人ではなかったのか。人違いか。いや、黒髪のこれほど強い気配の竜人はあの人しかいないはず。
次の瞬間、エーギルは凍り付いた。
リヒトシュタインが後ろから抱きしめたままエーファの顎に指をかける。上を向かすとそのまま顔を近付けた。長く黒い髪に阻まれて見えないが、あの距離は――。
リヒトシュタインが満足そうに離れるとエーファはまた彼のことを叩く。
「外でこんなことしないで、変態」
「城ならいいのか。俺の子ネコは恥ずかしがり屋でなんと可愛い」
「誰もそうは言ってないでしょ」
「俺のことを放置するからだ」
「今日の予定は事前に言ってあったってば。もう何なの一体」
「エーファが浮気するかもしれないからな」
「しないって」
「鯉に浮気してなかったか。俺の方が美しいのに。そういえば俺はエーファに餌付けをされていない」
「鯉に浮気はしないでしょ……もうないけど餌食べたかったの?」
すごい言われ様だが……。
からかうようにリヒトシュタインは口角を上げて、エーファは顔を赤らめて彼のことを叩く。全くそれを意に介していないようにリヒトシュタインは彼女を今度は正面から抱きしめた。
「いつも城の中ばかりだったから新鮮だ」
「この変態竜人」
「誉め言葉か」
「断じて違う」
「顔が赤い」
「誰のせいよ」
「たまには城の外に出るのもいいな。逢引きのようで」
「全然人目を忍んでいないから。むしろ鳥を追い出した感じじゃない」
「確かに。コソコソしてるのは俺たちじゃない」
チラリと金色の目がエーギルを射抜く。距離がかなりあるのに気付かれていたようだ。だが、エーギルの足はその場からどうしても動かない。
エーファの睨んだ顔か難しい表情くらいしかエーギルは見たことがない。セレンティアとお茶会をしていた時は違うだろうが。彼女はあんなに感情豊かなのか。いつも怒っているのかと思っていた。
「ちょ、こんなところで。やめて」
「体が冷えている」
「んっ、冷えてないから。そもそも冷えてるなら餌やりも終わったんだからミレリヤのところに戻ろ。双子もそろそろ寝たんじゃない?」
「首筋が冷えている」
「いいから! 部屋に戻るから!」
首筋に顔を埋められてくすぐったいのだろう。エーファはジタバタと暴れているがリヒトシュタインはびくともしない。
「エーファは子供が欲しいか?」
リヒトシュタインの問いにエーファの体が跳ねる。エーギルもつられてビクリと震えてしまった。
「誘拐してくる話じゃないわよね?」
「違う。エーファは自分の子どもが欲しいのかという質問だ」
「こんなところで聞かなくていいでしょ」
「どうなんだ? あの泣き喚く双子には辟易していたようだったが」
「そんな話、今しなくていいでしょ。ミレリヤに失礼だから」
片方が泣くと双子のもう片方もつられて泣き出し、この前見た時は乳母もミレリヤも大変そうだったなとエーギルは思い出す。
鳥人は赤子の時から鳥の姿になれるので、鳥の姿でピィピィ鳴きながら転げ回るなどあの双子はしていた。カナンの子供だから絶対に腹黒でやんちゃだ。子供のうちに考えられうるすべての悪戯をやり尽くすだろう。そして潤んだ上目遣いで許しを請う。今はまだ可愛い方だ。
エーファはリヒトシュタインの胸元をグイグイ押しているが、彼は退く気がないようだ。
「そもそも竜人は子供ができづらいんでしょ。望んで子供が持てるとは限らないし、ミレリヤのいるところで子供欲しくないって言うのは失礼よ」
この話の流れでいけばエーファは子供が欲しくないのだろうと推測できる。なんともいえない気分になってエーギルは視線を落とした。
「大体そんな先のことを今考えたところで」
「俺は今のところ欲しくない」
しっかりした声にエーギルは視線を上げる。
「子供がいたらエーファを取られるからな。俺は完全にエーファに向いておきたいから子供は欲しくない」
エーファはさすがに暴れるのをやめていた。
エーギルの頭はやや冷静になってくる。俺は一体何を見せられて、いや見ているのだろう。
「子供にさえ取られたくないという独占欲の強い俺は嫌いか」
「私、まだ親になる自信ない。両親のことまだ思い出したくないし」
「俺もそうだ。それで? 独占欲の強い俺は嫌いか?」
エーファの頬を摘まみながらリヒトシュタインが聞くと、エーファは唇を尖らせていたがしばらくして首を横に振った。
「エーファは完全に俺を見てくれるのか、錦鯉ではなく」
「錦鯉関係ないでしょ。というか一人にしないって話じゃなかった?」
「最近よく一人にされている。ほら、俺の半分になった心臓が孤独で悲しくて壊れそうだ」
「四六時中張り付いてろってことなの!?」
「あまり大声を出すと誰か来るぞ」
「ぜんっぜん誰か来てくれて構わないから! あと心臓はそんなんじゃ壊れない」
「俺は構う。邪魔をされたくない」
「さっきは自分だけ部屋に戻るって」
エーファの反論はくぐもった声になった。それはそうだ。リヒトシュタインがこちらに見せつけるように口付けをしているのだから。
聞きたくもないリップ音がエーギルの耳にまで届く。それでもエーギルはその場から動けなかった。
長い口付けが終わってエーファが脱力してリヒトシュタインに縋りつく。難なく彼女を抱え上げ、彼は胸を叩かれながら部屋の中へと戻っていく。「最低」だの「変態」だのの言葉が聞こえるが、リヒトシュタインは可愛くて仕方がないとばかりに口角を上げていた。ああいう趣味なのだろうか。
その後のことはよく覚えていない。
リヒトシュタインに怯えているカナンに会い、彼の最初の番であるミレリヤにも会い、エーファともセレンティアの遺骨のことで会話をしたはずだ。後ろで面白がるように細められた金色の目を最もよく覚えている。
家に帰ると使用人に顔色が悪いと酷く心配された。
おそらく今日のことはエーファが血を吐いた際にエーギルが取り乱したことへの仕返しだ。
「ギデオン」
伯爵家の仕事を終え自室のベッドに寝転んで久しく呼んでいなかった、死んだ幼馴染の名前を呼ぶ。
「俺はずっと後悔してる。他国まで番を探しに行って彼女に出会ってしまったことを。お前を止めていれば良かったな」
今日の光景など番同士なら往来でよく見られる類のものだ。
だが、エーギルの胸は痛かった。エーファはギデオンたちの前ではずっと気を張っていたのだ。魔法を褒めた時は素が出ていたが、ほとんどずっと警戒されていた。
でもリヒトシュタインの前では、平気で罵って叩いて口を尖らせて顔を赤らめるのか。最低や変態といった言葉は喧嘩をしているようで単なるじゃれ合いだった。エーファは嫌がっていたが本気ではなく、リヒトシュタインとの距離はとても近い。そしてエーファから漂う何度も番ったであろうリヒトシュタインの匂い。
そういえば。
メフィストがリヒトシュタインの元に行った時。ギデオンが脱出したエーファを追っていた頃の話だ。エーファが逃げ出したと知ったあの竜人は笑ってメフィストに言ったらしい。「あいつはちゃんと狼煙を上げたのか」と。意味が分からないが、二人だけが分かる言葉のようで不快だった。
握りしめていた手を開く。血は出ていないものの爪の跡がしっかりついていた。
胸ポケットに入れていたエーファからの手紙を取り出す。
いつから……いや最初から間違っていたんだろうか。エーギルの愛はずっと間違っていたのだろう。番の香りに振り回されて愛でさえなかったのかもしれない。途中で軌道修正することもなく、ここまで来てしまった。
セレンティアの自殺を止めていたら、彼女の足を折っていなかったら何か違っただろうか。運命の遺伝があるのならば、まだ乗り越えていないことは分かっている。あのドロドロとした黒い感情がもう出ないように新しく妻など迎えたくないのだから。
手紙の文字をゆっくり指で辿り、香りをそっと嗅ぐ。
エーファの運命の人は、ギデオンでもスタンリーでもない。ましてやエーギルでもない。
魔法ではなく、彼女が綺麗だと無責任に早く伝えておけば良かった。番に縛られず自由に。彼女に愛していると無駄でも伝えれば良かった。
エーファのことを愛さなければ、自分がこれほど中途半端なクソ野郎だと知らずに済んだ。恨んでいるわけじゃない。初めて自分を知ったんだ。
俺は狼煙を上げようとさえしなかった。
もしも来世があるのなら、彼女と愛を語りたい。漏れそうになる慟哭の声を腕で塞いだ。