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鍋奉行  作者: ごんぱち
6/7

6.鍋奉行

 皿は、調理場から運び出されて行った。

(終わった……早う、逃げなあかん)

 慌てていない素振りで、竜次は包丁をしまう。

「竜次殿」

 鍋代が調理場に戻って来た。

「なんやろか」

「上様が直々にお言葉を下さるそうじゃ。一緒に来なされ」

「そないな、もったいひん、女房の調子が悪そうやったんで、ワイはもうここいらで……」

「さあ、お待ちかねじゃ」

 鍋代は竜次の手を引く。

「あの……ワイの話聞いてはります?」

「町人が上様の命を断ったら、首が身体から離れるだけじゃすまんが、いいかの?」

 振り向かずに鍋代は言った。

「い、いえ、行きます。行かせて貰います!」


 竜次と鍋代は、地下の一室の扉を開けた。

「おお、待ちかねた」

 既に室内には、紋のない裃を着けた侍に脇を守られて、将軍が座っていた。

 将軍の前には、フグの皿、野菜の皿、そして七輪にかけられた土鍋が置かれている。既に火は起こり、煮立たぬ程度に温められた土鍋の蓋の穴から、湯気が立ち上っていた。

「上様。てっぽう屋竜次が参りました」

 鍋代は平伏する。竜次も、釣られて這いつくばる。

「ん。遠路ご苦労。礼を言う」

 将軍は鍋の方が気になる様子で、少々早口になっていた。

「竜次殿」

 鍋代が竜次の袖を引く。

「はひ!」

「返事をされよ」

「あ、え、えと、おおきに、ホンマおおきに。ゆっくり食べたってや」

「ふふふ。愉快な男だな」

「左様でございますのう」

 笑いながら、鍋代は土鍋の蓋を取る。

「……おっきな鍋やな」

 竜次が呟く。

 食卓を皆が囲む習慣が始まったのは、明治以降、ちゃぶ台や洋風のテーブルが使われるようになってからである。それ以前、囲炉裏端を使う事もあったが、専ら個々に膳が用意される形であり、いわゆる鍋料理も個別の鍋しかなかった。

 無論、各地には原型となる鍋料理があったかも知れない。しかし、情報の行き届かないこの時代のこの場所において、大土鍋をつつくというスタイルは、他ならぬ鍋代の創意工夫の賜物であった。

 竜次も、よもやこのような食べ方をされるとは思いも寄らない。

「皆で食べられる工夫での」

 鍋代は、自分の発明を誇るでもなく、手際よく野菜やフグを入れる。

「皆?」

 鍋代は視線を部屋の隅に向ける。

 侍が二人、膳の前に座っていた。

「兄弟か何かで?」

「毒味役じゃ」

 煮すぎず、しかしきちんと火の通ったフグを取り、毒味役に渡す。

 毒味役は、それを食べる。

 一連の動作は、とても手際よく自然だった。一瞬見とれかけた竜次は、我に返ってフグの大皿を見る。

 大皿は将軍の目から見て、柄の絵が正面になるように置かれており、毒味役が食べたのは、正反対の側に盛り付けられた身だった。


「――変わり、ございませぬな」

 四半刻後、医師が毒味役の診察を終え、下がった。

「お待たせしましたの」

 じっと鍋と、天井と、その周囲に視線を向けていた鍋代が、口を開く。

 同じ鍋に、同じ箸と、同じ取り皿、そして同じ大皿に載ったフグ。

 鍋代は鍋にフグを入れる。

 大皿の手前側の身ではなかった。

 毒味役の位置にまで控えた竜次は、鍋代の手をじっと見つめる。

(もう、少しや)

 鍋代のギョロ目は鍋から離れる事はなく、絶妙の煮具合で引き上げられる身は、純白を残しつつ出汁の味わいを過不足なく纏う。

 熱いものに慣れていない将軍は、それを少し長めに吹き冷まし、口に運ぶ。

「む……」

 一瞬、静けさが訪れる。

 ぷつぷつと鍋の出し汁が音を立て、時折七輪の炭がはぜる。

 その静けさを崩すように、二度、三度、将軍の咀嚼する音。

「うまい」

 また、静けさが訪れた。

 今度の静けさの方が、長かった。

 静けさを破ったのは、鍋代だった。

「次が煮えてまいりました」

 鍋代の真剣な表情に、ほんの一瞬、これまで一度も見せなかったような、嬉しげな笑みが浮かんでいた。

 竜次は彼らを見つめる。

 満足げな将軍、嬉しそうな鍋代。

(半刻もしたら)

 無邪気とも言える顔で、将軍はフグの身を頬張る。厳格に守っている作法を少し崩して、どんどん貪り喰う。幸せそうに。

(駄目や)

 竜次はフグの身の残る大皿を凝視していた。

(ワイの料理、あないに嬉しそうに喰う人を)

 毒を皿に塗った、そう言えば良い。立ち上がり、大皿をひっくり返す。それだけで良い。

(ただ、逃げ出すだけでも、感づく)

 だが、竜次の足も、口も動かない。

(そないな事したら、将軍様にも、あの連中にも、殺される)

 妻と子が、ズダズダに切り裂かれる光景と、フグを捌く時の光景が重なって、脳裏に浮かぶ。

(人殺しの料理なんて)

 ――鍋代の菜箸が、皿の正面の身を取る。

「……ぁ」

 竜次は微かに声を出しかける。

 だが、誰も気付く者はいなかった。

 身は、煮られ、引き上げられ、将軍に。

 鬢に混ぜられた毒は、かの武士から渡されたフグ毒を凝縮もの。煮れば多少毒は溶け落ちるが、鍋代の引き上げの早さなら、充分に致死量が残る。

「本当に、うまい」

 将軍は、フグの身を頬張った。

(喰わせてもうた)

 フグに当たった武士の死体が、竜次の脳裏に浮かぶ。

 次のひと切れ。

 その次のひと切れ。

 竜次が毒を塗った辺りのフグの身も、なくなっていく。

 そして、大皿の上から身は完全になくなり、見事な模様が現れた。

(せや、逃げな……)

「うむ、旨かった。礼を言うぞ、てっぽう屋」

「おおきに」

 将軍は腹をさすり、いそいそと部屋から出て行った。

「さあ、片付けますかの」

「ええと、ワイは急ぐんで……」

「引き留めて悪かったの。褒美は毎年送らせるよって」

「はい」

 竜次が部屋から出て行こうとした時。

「おっと」

 大皿を持ち上げた鍋代が、ほんのすこし体勢を崩した。

 と、大皿に僅かに溜まっていた水が、こぼれ落ちた。

「……水?」

 竜次は目を見開く。

「ああ、やはり出てしまったの」

 鍋代は苦笑いをする。

「出来るだけ、味が抜けぬよう洗ったのじゃがの」

「洗ったって、なんや!?」

 思わず竜次は怒鳴っていた。

「上様に出す前に、拙者が食材と食器に鍋は、全部一度洗う事にしておるんじゃ。味を落とすような真似をしてすまんがの。これでも洗い方一つ、考えてはおる。刺身によっては、この方がうまい事もあるんじゃ」

「は、あ」

「まあそんな顔をせんでくれんかの。鍋奉行っちゅうんは、落ち度一つあれば腹も切らせて貰えん立場でな、やりすぎるぐらいにしないと安心できんでの」

「さ……さいでっか、はは」

(毒は、洗い流されとったんか。せやから、味が抜けんように厚みまで指図を)

「はは、あはははは……」

(最初から、無理やってんな)

 全身脱力して、竜次は崩れ落ちるように笑った。


 廁の床の一部が開き、隠し通路が現れた。

「へえ……あのお侍の言うてはった通りや」

 竜次は通路に入る。

 と。

「しくじったか」

 影にいたのは、暗殺を依頼した武士だった。

「……無理ですわ」

 竜次は溜息をつく。

「所詮、町人風情が出し抜ける相手ではなかったか」

「なあ、一つ……訊いてええか?」

 竜次の腹には、武士の小太刀が深々と突き刺さっていた。

「なんだ」

「あのお侍、本当に、ワイの料理したフグで……死んだんか?」

 血が溜まっていく。

「いや。貴様を引き込むために、予め毒を持ち込んでいた」

「さよか。味はどやった。喰うたやろ」

「旨かった」

「そか。旨かった、か」

 竜次は膝をついて、そのまま突っ伏した。

 武士は影に姿を消し、二度と再び現れる事はなかった。


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