6.鍋奉行
皿は、調理場から運び出されて行った。
(終わった……早う、逃げなあかん)
慌てていない素振りで、竜次は包丁をしまう。
「竜次殿」
鍋代が調理場に戻って来た。
「なんやろか」
「上様が直々にお言葉を下さるそうじゃ。一緒に来なされ」
「そないな、もったいひん、女房の調子が悪そうやったんで、ワイはもうここいらで……」
「さあ、お待ちかねじゃ」
鍋代は竜次の手を引く。
「あの……ワイの話聞いてはります?」
「町人が上様の命を断ったら、首が身体から離れるだけじゃすまんが、いいかの?」
振り向かずに鍋代は言った。
「い、いえ、行きます。行かせて貰います!」
竜次と鍋代は、地下の一室の扉を開けた。
「おお、待ちかねた」
既に室内には、紋のない裃を着けた侍に脇を守られて、将軍が座っていた。
将軍の前には、フグの皿、野菜の皿、そして七輪にかけられた土鍋が置かれている。既に火は起こり、煮立たぬ程度に温められた土鍋の蓋の穴から、湯気が立ち上っていた。
「上様。てっぽう屋竜次が参りました」
鍋代は平伏する。竜次も、釣られて這いつくばる。
「ん。遠路ご苦労。礼を言う」
将軍は鍋の方が気になる様子で、少々早口になっていた。
「竜次殿」
鍋代が竜次の袖を引く。
「はひ!」
「返事をされよ」
「あ、え、えと、おおきに、ホンマおおきに。ゆっくり食べたってや」
「ふふふ。愉快な男だな」
「左様でございますのう」
笑いながら、鍋代は土鍋の蓋を取る。
「……おっきな鍋やな」
竜次が呟く。
食卓を皆が囲む習慣が始まったのは、明治以降、ちゃぶ台や洋風のテーブルが使われるようになってからである。それ以前、囲炉裏端を使う事もあったが、専ら個々に膳が用意される形であり、いわゆる鍋料理も個別の鍋しかなかった。
無論、各地には原型となる鍋料理があったかも知れない。しかし、情報の行き届かないこの時代のこの場所において、大土鍋をつつくというスタイルは、他ならぬ鍋代の創意工夫の賜物であった。
竜次も、よもやこのような食べ方をされるとは思いも寄らない。
「皆で食べられる工夫での」
鍋代は、自分の発明を誇るでもなく、手際よく野菜やフグを入れる。
「皆?」
鍋代は視線を部屋の隅に向ける。
侍が二人、膳の前に座っていた。
「兄弟か何かで?」
「毒味役じゃ」
煮すぎず、しかしきちんと火の通ったフグを取り、毒味役に渡す。
毒味役は、それを食べる。
一連の動作は、とても手際よく自然だった。一瞬見とれかけた竜次は、我に返ってフグの大皿を見る。
大皿は将軍の目から見て、柄の絵が正面になるように置かれており、毒味役が食べたのは、正反対の側に盛り付けられた身だった。
「――変わり、ございませぬな」
四半刻後、医師が毒味役の診察を終え、下がった。
「お待たせしましたの」
じっと鍋と、天井と、その周囲に視線を向けていた鍋代が、口を開く。
同じ鍋に、同じ箸と、同じ取り皿、そして同じ大皿に載ったフグ。
鍋代は鍋にフグを入れる。
大皿の手前側の身ではなかった。
毒味役の位置にまで控えた竜次は、鍋代の手をじっと見つめる。
(もう、少しや)
鍋代のギョロ目は鍋から離れる事はなく、絶妙の煮具合で引き上げられる身は、純白を残しつつ出汁の味わいを過不足なく纏う。
熱いものに慣れていない将軍は、それを少し長めに吹き冷まし、口に運ぶ。
「む……」
一瞬、静けさが訪れる。
ぷつぷつと鍋の出し汁が音を立て、時折七輪の炭がはぜる。
その静けさを崩すように、二度、三度、将軍の咀嚼する音。
「うまい」
また、静けさが訪れた。
今度の静けさの方が、長かった。
静けさを破ったのは、鍋代だった。
「次が煮えてまいりました」
鍋代の真剣な表情に、ほんの一瞬、これまで一度も見せなかったような、嬉しげな笑みが浮かんでいた。
竜次は彼らを見つめる。
満足げな将軍、嬉しそうな鍋代。
(半刻もしたら)
無邪気とも言える顔で、将軍はフグの身を頬張る。厳格に守っている作法を少し崩して、どんどん貪り喰う。幸せそうに。
(駄目や)
竜次はフグの身の残る大皿を凝視していた。
(ワイの料理、あないに嬉しそうに喰う人を)
毒を皿に塗った、そう言えば良い。立ち上がり、大皿をひっくり返す。それだけで良い。
(ただ、逃げ出すだけでも、感づく)
だが、竜次の足も、口も動かない。
(そないな事したら、将軍様にも、あの連中にも、殺される)
妻と子が、ズダズダに切り裂かれる光景と、フグを捌く時の光景が重なって、脳裏に浮かぶ。
(人殺しの料理なんて)
――鍋代の菜箸が、皿の正面の身を取る。
「……ぁ」
竜次は微かに声を出しかける。
だが、誰も気付く者はいなかった。
身は、煮られ、引き上げられ、将軍に。
鬢に混ぜられた毒は、かの武士から渡されたフグ毒を凝縮もの。煮れば多少毒は溶け落ちるが、鍋代の引き上げの早さなら、充分に致死量が残る。
「本当に、うまい」
将軍は、フグの身を頬張った。
(喰わせてもうた)
フグに当たった武士の死体が、竜次の脳裏に浮かぶ。
次のひと切れ。
その次のひと切れ。
竜次が毒を塗った辺りのフグの身も、なくなっていく。
そして、大皿の上から身は完全になくなり、見事な模様が現れた。
(せや、逃げな……)
「うむ、旨かった。礼を言うぞ、てっぽう屋」
「おおきに」
将軍は腹をさすり、いそいそと部屋から出て行った。
「さあ、片付けますかの」
「ええと、ワイは急ぐんで……」
「引き留めて悪かったの。褒美は毎年送らせるよって」
「はい」
竜次が部屋から出て行こうとした時。
「おっと」
大皿を持ち上げた鍋代が、ほんのすこし体勢を崩した。
と、大皿に僅かに溜まっていた水が、こぼれ落ちた。
「……水?」
竜次は目を見開く。
「ああ、やはり出てしまったの」
鍋代は苦笑いをする。
「出来るだけ、味が抜けぬよう洗ったのじゃがの」
「洗ったって、なんや!?」
思わず竜次は怒鳴っていた。
「上様に出す前に、拙者が食材と食器に鍋は、全部一度洗う事にしておるんじゃ。味を落とすような真似をしてすまんがの。これでも洗い方一つ、考えてはおる。刺身によっては、この方がうまい事もあるんじゃ」
「は、あ」
「まあそんな顔をせんでくれんかの。鍋奉行っちゅうんは、落ち度一つあれば腹も切らせて貰えん立場でな、やりすぎるぐらいにしないと安心できんでの」
「さ……さいでっか、はは」
(毒は、洗い流されとったんか。せやから、味が抜けんように厚みまで指図を)
「はは、あはははは……」
(最初から、無理やってんな)
全身脱力して、竜次は崩れ落ちるように笑った。
廁の床の一部が開き、隠し通路が現れた。
「へえ……あのお侍の言うてはった通りや」
竜次は通路に入る。
と。
「しくじったか」
影にいたのは、暗殺を依頼した武士だった。
「……無理ですわ」
竜次は溜息をつく。
「所詮、町人風情が出し抜ける相手ではなかったか」
「なあ、一つ……訊いてええか?」
竜次の腹には、武士の小太刀が深々と突き刺さっていた。
「なんだ」
「あのお侍、本当に、ワイの料理したフグで……死んだんか?」
血が溜まっていく。
「いや。貴様を引き込むために、予め毒を持ち込んでいた」
「さよか。味はどやった。喰うたやろ」
「旨かった」
「そか。旨かった、か」
竜次は膝をついて、そのまま突っ伏した。
武士は影に姿を消し、二度と再び現れる事はなかった。