4.てっちり
まな板の上に、大坂の市から運ばれた、竜次の選んだトラフグが用意される。
たすき掛けをした竜次が、出刃包丁を持つ。
これも、大坂から持って来たいつも仕事で使っている包丁だった。
「竜次殿」
唐突に、鍋代が声をかけた。
「はひっ!」
竜次はびくりと震える。
「悪いが、包丁を少し預けて頂こか」
「いや、けど、使い慣れた包丁やないと、刃先が狂うよって」
「承知しておる。ちょっと借りるだけじゃ」
「は……はあ」
竜次は出刃包丁を渡す。
「身を切る包丁もあるじゃろ? それも頼みます」
「いっ! け、け、けど」
「それから、突然じゃが、服もこちらで用意したものと替えて貰おう」
「服も、着慣れたものでないと」
「大丈夫。ちゃんと、竜次殿の服じゃ」
篭に下帯まで含めて、着物が一揃い入っている。
「内緒で竜次殿の家から運ばせて貰った。すまんの、これは決まり事での」
それ以上何か言い返す事は出来ず、竜次は服を着替える。
着替えを見届けた鍋代は、今まで竜次が着ていた服を部屋の外の侍に預け、竜次の包丁を念入りに洗う。
「良い包丁じゃの」
「はぁ、まあ、商売道具やから」
「じゃが、手入れが少し悪いのぅ」
「そ、そないな事あらへんです」
「いやいや、突然江戸で料理をして欲しいなんて頼んだんじゃ、動揺するのも仕方ない。面倒かけるのう」
鍋代は言いながら、包丁を軽く研ぎ、柳葉包丁をザルに、出刃包丁をフグのまな板の上に置いた。
出刃包丁は綺麗に洗われた。例え毒を塗ってあったとしても、最早一滴も残っていないに違いなかった。
「おおきに」
竜次は包丁を握って、小さく溜息をついた。
――数日前。
連れの武士が首を横に振る。
「そ、そんな、アホな……」
竜次はがっくりと畳に膝を付く。
布団に横たわっていた武士の顔から血の気が完全になくなり、下が弛んだせいか糞尿の臭いが僅かに洩れて来る。
竜次はその場から動けない。
頭の中が冷たく、表の店の喧噪が、ずっと遠くに聞こえていた。
(アホな。仕込みは完璧やった。それに、五匹のフグをバラバラに混ぜてある。見立て違いが一匹があったところで、死ぬわけ)
だが、目の前の死体は、何よりも雄弁に竜次の失敗を語る。
(もう、おしまいや。てっぽう屋が仏出したら、客なんて……いや、それよりも磔や)
「えろう……すんませんでした」
竜次は連れの武士に向かって、畳に額をこすりつける。
「首切らせろ言うなら好きなだけ切って下さい。てっぽう屋が仏出すようじゃ、どうせ生きていく事なんて出来へん。けど、奉行所には、ワイだけが悪かった言うてくれはりませんか。女房子供や使用人まで罪人扱いされるんは、あんまり可哀想や」
武士は黙って刀を抜いた。
竜次は目を閉じて、首をすくめる。
だが、いくら待っても、刃は竜次の身体に降りて来なかった。
「お侍、はん?」
竜次は片目を開ける。
いつの間にか、武士は刀を収めていた。
「――よかろう」
武士は呟く。
「貴様を斬って捨てたところで、仏は生き返らん」
穏やかな口調だが、ぞっとするほど冷たい目をしていた。
「お主、江戸に招かれておったな」
「ど、どうしてそれを?」
「一仕事、して貰おう。成功すれば、一生困らぬだけの金と、加賀にでも家をやろう。失敗しても、女房子供には手を出さぬ」
「仕事……とは?」