3.てっぽう屋
「えいほ! えいほ! えいほ!」
江戸へ向かう早追駕篭が、夜更けの東海道を走り抜ける。
担ぎ手は四人。
箱形の宝泉寺駕篭で中は伺えないが、その速さでは乗り心地も最悪に違いなかった。
走るうちに、新しい担ぎ手が闇の中から浮かび上がるように現れ、代わっていく。
早追駕篭、早駕籠の早さは、忠臣蔵において四日で一七〇里との記述がある。一七〇里は約六六〇キロであるが、この駕篭はそれよりも二割は速い。
常識を遥かに越えたスピードで、小田原の宿場に近付いた頃、日が昇り始めていた。
街道に、旅人たちの姿が見え始めた時には、担ぎ手はいつの間にか二人になり、速さもほどほどの駕篭に戻っていた。
『とと、止めてんか、ちょい』
駕篭の中から、中年がらみの男の声がする。
「如何された」
担ぎ手はぼそりと尋ねる。
『小便ですわ。小便』
「手早く済まされよ」
駕篭は止まる。
と、中から大柄な町人風の男が出て来た。
そして、茂みに入る。
駕篭かきの二人は、彼に目をそれとなく向けている。明らかに、監視の意図があった。
「ふー、何だか胸がムカムカするわ。船酔いと似とるなぁ」
――男が独り言を呟いていると。
『竜次』
どこからともなく、微かな声がした。
「は……」
『返事は良い。手筈通りやれ』
男は小さく頷く。
『一切動くな。感づかれる』
びくりと男は身体を震わせる。
『首尾良く事為せば、一生喰うに困らぬ。死人を出した事の咎め立てもせぬ。最後の大仕事、抜かるな』
彼は首を縦に振りそうになって、慌てて止め、今度は横に振りそうになって止めた。
(せや、女房子供に苦労はさせられん)
男は薮から出て、駕篭に戻った。
「あー、スッキリしたわ」
「音はしなかったようだが」
「あ、いや、ちょびっとしか出ぇへんかったから――って、そないな事言わさんで下さい」
調理場で一人、鍋代が本を広げる。
「トラフグ――か」
ギョロリとした目が、頁を舐めるように見つめる。
「仏が百二十四人。そのうち料理屋で起きたのが、十四人」
眉間にシワを寄せながら、目尻が下がっていた。
「しかし旨いからのぉ……何としても、上様に是非食べて頂きたいのぉ」
別の本を開く。
「――料理屋で死んだ例では、五件が客の希望で卵、皮、目を入れたてっぽう汁、二件が皮の湯引き、腸の塩辛、身の刺身」
本を閉じる。
「聞き取りも合わせて、腸に毒があるのは確かじゃろな……」
『――てっぽう屋竜次が到着いたしました』
どこからともなく声がした。
「待ちかねた。通せ」
『はっ』
声が消える。
鍋代は、心張り棒を外す。
ガラガラと不自然にやかましい音が立ち、戸が開いた。
戸の向こうには、侍に連れられた町人が一人。
「名は?」
ほとんど間髪入れずに、鍋代は尋ねる。
「へ、へぇ。てっぽう屋竜次いいます」
少々面食らいながら、竜次は応える。
てっぽう、てっぽう鍋とは関西のフグの隠語で、当たれば死ぬという洒落である。
「店を始めて何年じゃ?」
「二十四年やけど」
「二十五年ではなかったかの?」
「え? 二十五年?」
竜次は指を折って数える。繊細だが鍛えられた指をしていた。
「いや、二十四年ですわ」
「――ふむ。斉藤殿?」
鍋代は、侍に視線を向ける。
「偽りは見えませぬな」
侍の答えを聞くと、鍋代は表情を弛めた。
「ええじゃろ。間違いなさそうじゃ」
「はあ?」
「てっぽう屋竜次殿、長旅で疲れておるところすまんのじゃが、フグを傷ませるわけにもいかん。早速取り掛かっていただけないかの?」
「へぇ」
竜次はキツネにでもつままれたような顔をして、まな板に向かう。
「あの、お侍様?」
「鍋代と申す」
「……鍋代様。将軍様にお出しするやなんて、ほんまでっか?」
「応える事はできぬ。勘弁な」
少しおどけた顔で、鍋代は笑った。が、そのギョロ目のせいか、何やら化け物に睨まれているようであった。