1.芝浜雑魚場
日が高くなった頃、江戸芝浜の魚市に活気が溢れ始める。
「安いよっ! 上がりたてのハゼだ!」
「良いボラが入ってんぞ!」
「そんじょそこらのコハダたぁ訳がちがわぁ!」
仲買人や魚屋の威勢の良い声が飛び交う。
――芝浜の市は、主に小魚を扱い、雑魚場と呼び親しまれた。
市場は早朝から始まるイメージがあるが、芝浜の雑魚場が開かれるのは遅く、これをいわゆる棒手振りと呼ばれる売り歩きの魚屋が買い付け、長屋などを売り歩く。
一方、荷揚げされた魚は将軍家に上納される、8つの御菜浦の1つでもあった。
――売り声の中、一人の侍が白い息を吐き、下駄を鳴らしながら歩く。
中年から熟年に差しかからんとする背の低い侍だった。安っぽい羽織りと腰の大小が地面を摺りそうに足が短い。逆に、腕は長く手は大きい。手は大きいが、指は細くて長い。
いや、それらを気にする者はいない。
他人の視線は彼の顔立に向かうからである。
侍の目は不自然な程にギョロリと大きく、鼻の穴も負けず劣らず、そしてその口も大きい。そして何より、時折魚屋と話す時に見え隠れする舌。五寸にも達しようという長さだった。舌先三寸が常人ならば、この男の舌は倍近い。
「おっ、鍋代の旦那! 今日は何をお探しで!」
魚を広げた漁師が、侍に声をかける。
侍は立ち止まると、そのギョロ目を細める。
「そうじゃの」
甲高い声に、穏やかな口調だった。
「旨い魚はないかの?」
「またまた、意地の悪い。そう言われちゃ、出さねえわけにゃ行きませんや」
漁師は後ろの箱から、アナゴを取って見せる。
「――アナゴは夏ではないかの?」
「そこがトーシロの浅はかってんで。こいつはただのアナゴじゃあありませんぜ。年を越して脂が倍も乗ったシロモノでさぁ」
「なるほど、脂がのぉ」
侍は首を捻る。
「じゃが、今日はあんまりこってりした物を喰いたい気分ではないんじゃ。あっさりしたものはないかの?」
「あっさり、と来なすったな。冬にあっさりたぁ……困ったね」
「拙者も食い道楽じゃ。ちょっとぐらいなら、祝儀も出すがの」
懐に手をつっこみ、微かに金の音を立てる。
「いや、値段って訳じゃあねえんで。事と次第によっちゃ、おいらは大事なお得意さんを一人なくしっちまうかも知れねえ。と、まあそういう訳で」
無言で侍はにっこり笑う。
「……大丈夫かい? 知ってるかい? ちゃんと」
「拙者、喰う事にかけては、骨身を惜しまんよ」
「かなわねえな、旦那には」
溜息一つ。
漁師は別の箱から魚を取り出した。
「フグじゃな」
「へえ、シロサバってぇフグでさぁ」
「貰おう」
「いいですかぃ? 身以外は絶対喰わねえで下さいよ」
「他は毒かの?」
「いや、このシロサバ、たまに頭から尻尾の先まで全部毒の事があるみてぇなんで……」
「ふむ、では、喰う前に野良犬にでもやってみるかの」
「それが良いですぜ、是非そうしなせえ!」
漁師は金を受け取り、フグを渡す。
「旦那、食い道楽もほどほどになせえよ? 死ぬほど旨いものだって、命がけで喰う価値はねえんだ」
「ははは、そうでもないじゃろ」
大きな口で豪快に笑い、侍は市場を去った。