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老人ニゲルの回顧

ニゲル視点のお話。初夏のある日のこと。


 ぱちりと目が開く。

 ベッドからゆっくりと体を起こし、両手を上げて伸びをする。にわとりの声は聞こえてこない。少し早く起きてしまったな、と思う。一度はっきり起きてしまうと体は対応するもので、眠気はもうどこにもなかった。

 ふと、こちらに来たばかりの頃は朝早く起きるのに苦労したことを思い出す。住んでいた雪山に比べると、人の暮らす土地の気候はいつでも暖かく心地良くて、ベッドから出るまで時間を要したのだ。


 窓の外はまだ暗かった。とりあえずベッドから降りると、いつものようにサッとシーツを整える。そして、同じくいつもの使用人の服に着替えていると、呼吸音がひとつ足りないことに気が付いた。獣人であるから、嗅覚や聴覚などの感覚の感受する幅が人よりも広いのだ。


 一番大きい音、いびき声はロッティ。

 相変わらず。けれど、これは直しようがない。

 葉の擦れ合うような呼吸音はポーとモー。

 意外に寝言が多いのはポー。

 最後は――つまり、エルさんがいないのだ。


 彼女は起きる時間が早い。朝食前に必ず訓練をしているからだ。けれど、今日はいつもの時間よりも早い。たまたま彼女も早く起きたのだろうか、とそっと部屋を出て、音を立てないように階段を降りてゆく。


 塔の扉を開くと、露に濡れた草と濃密な薔薇の香り、そして、かすかに甘いライラックの香りがした。

 まずは顔を洗おうと、井戸の方へ。

 刹那、呼吸を忘れた。何故、と口から出た言葉は震えていた。

 井戸の向こう側に彼女の姿があったのだ。



 ――暗い表情で首の辺りにダガーを当てている姿が。



「は、早まらないでくださーい!」


 出来得る限りの速さで彼女に突撃する。わっと小さな声を上げて彼女は倒れこんだ。








「……すみませんでした」

「いえ、お気になさらないでください。角度によってはそう見えますよね」

 笑顔で言う彼女に再び頭を下げる。


 彼女は伸びた髪を切ろうとしていただけだったのだ。

 暗い表情に見えたのは眠かったからで、彼女の足元には処分する予定の羊皮紙が敷いてあった。それによくよく思い出してみれば、彼女は少し身を屈めていた。

 怪我をしなくて本当に良かった……ふっと体の力が抜ける。


 せめてもの償いにと、彼女の髪を切ることを申し出る。

 正直言って自分は器用ではないが、アストゥート様の髪を切っていたこともあるので、それには自信があった。彼女は瞬間きょとんという顔をしたが、すぐに頷いてくれた。私は使用人塔に戻り、椅子を取ってくると、彼女に座ってもらった。そして、その後ろの辺りにもう一脚置く。くしゃくしゃの羊皮紙を髪が落ちるであろう場所へ動かし、私は椅子の上に上がった。

 ダガーを受け取り、彼女の後ろへとまわると、ふとあることが気になった。


「伸ばされないんですか?」

 彼女はこちらの方へ振り返り、


「なんとなく、なんですけど、長いと落ち着かないんです」

「そうなんですか。少し勿体ないですね。纏めたり結わえたりは?」

「そう、ですね。そうしても良いですよね……考えたこともありませんでした」

 結うことを考えたことがなかったという彼女に、少しばかり目を見開く。


「おや、そうでしたか。どうされますか?」

「…………いえ、やっぱりお願いします。このお屋敷に来た時と同じくらいの長さにして下さい」

「――わかりました」

 体を前にぐっと倒して彼女の薄灰色の髪に触れる。



 彼女が屋敷にやって来て約二か月。

 顎の下くらいの長さだった髪は、肩につきそうなくらい伸びていた。椅子と一緒に持ってきていた櫛で彼女の髪を梳かし、ダガーを細かく動かす。初めてやった時には横にばっさり切ってしまって、アストゥート様の髪がとても短くなってしまった。それからこうやって少しずつ切ることを覚えた。


 静かに手を動かしながら、ふと彼女の背中を見る。

 兵士と言うには頼りない細さだ。けれど、貴婦人にはない筋肉が見える。

 彼女の優しい性格のことも考えると、兵士には向いていないだろうなと思う。魔物がいなければ、この子のような子供が戦う必要などないだろうに。アストゥート様の〈盾〉になって欲しかったことは確かだ。だが、彼女が戦いに出る度に――自分では駄目だと分かっているのに――代わりになりたいと考えてしまう。


 子供がいたらこんな感じなのだろうか、と思う。獣人としてあまりに弱い自分は選ばれなかったから、本当のところはわからない。それとも、彼女が彼女だからだろうか。


「ニゲルさんはどうされているんですか?」

 へ、と間抜けな声が出る。前を向いたまま彼女が言ったのだと気付いた。そして、獣人は毛をどのように整えているのか、と聞かれていることにも。


「獣人は春と秋に毛の生え代わりがあるんですよ。だから特に切る必要がないんです。ただ、長毛の方は『外』に出る時には気をつけているようですね」

「外……村の外、ですか?」

「ああ、すみません。『外』とは獣人の居住区域の外のことで、居住区域のことは『内』と言うんですよ」

「そうなんですね。すみません、勉強不足で」

 私は両眉を上げて、首を横へ振る。


「いえ、そんな。獣人が受け入れられ始めたのは最近のことですし、まだ王領以外ではほとんど見かけないでしょうから」

 少しずつ知ってもらえれば良いですから、と笑いかけると、彼女は振り返り微笑み返した。彼女はまだ何か言いたそうではあったが、何も言わずに前を向いた。聞いてくれても何も問題はないのに、と思うが、彼女なりに何か考えがあるのだろうと、再び手を動かした。




 獣人と人間の交流自体は数百年前からあった。

 けれど、お互いに蔑み合い、いがみ合っていたという。歩み寄ろうとしたのがおおよそ百年前。数十年前からはお互いの領地で生活を共にするようになった。

 改めて昔の人物たちに感謝の念が湧く。

 そうした人たちの努力のおかげで、自分は皆に会えたのだと。


 十年前、狩りの最中に魔物に襲われた時のことを思い出す。

 獣人は集団で狩りを行なう。力も弱く体も小さい私は満足に狩りができず、いつもおこぼれに預かっていた。皆に見下され、憐れまれていた。

 そんな弱い自分がいっとう嫌いだった。


 元々足手纏いだった私は、囮として魔物の群れへと放り投げられた。

 必死に逃げた。皆が逃げた方向とは反対に。最後くらい役に立ちたいと思ったのか、必死だったのかは忘れてしまったけれど。


 遂に殺されると思ったその時、目の前に立っていたのは一人の人間だった。そして、人間は大人というには小柄であることに気付いた。少年は中級の魔物に臆することなく向かって行き、怪我ひとつ負うことなく私の前に戻ってきたのに驚かされた。


 それがアストゥート様だった。

 彼は服が汚れるのも厭わず、傷だらけの私を屋敷へと運んでくださり、その上私の傷が癒えると彼は屋敷で使用人として働くことを提案してくれたのだ。幼いながらにこちらの事情を察してくれたのだろう。

 思わず頷いた。自分の居場所は、『内』にはなかったのだから。


 更にジェロジア様やパウラ様、オネスト様も受け入れてくれた。慣れない仕事に始めは苦労したが、狩りよりはずっと楽しかったし向いていた。

 エルさんに気付かれないようにそっと目元を拭う。




「出来ました……!」

 そういって持ってきていた手鏡を彼女に向ける。

 彼女は立ち上がると、鏡を覗き込み、切り揃えた髪の先へ手のひらで触れる。


「ありがとうございました。自分で切るよりもずっと綺麗です……!」

 そう嬉しそうに笑ったのだった。

 眩しい笑顔に思わず目を細め、にっこりと笑い返す。


「いいえ、これくらいお安い御用です。エルさん、せっかく早起きしたのですから訓練の前に紅茶は如何ですか? ちょうど良い葉が手に入ったんですよ」

 ぱっと彼女の瞳が輝く。


「はい、是非お願いします……!」

「ふふ、じゃあ戻りましょうか」

 そうして二人で笑い合い、塔へ向かって歩き始めた。


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