10-連れ戻すまでの話①
「おはよー」
「おはよう」
明るい皆の声のせいか、視界が一瞬歪んだ気がした。
挨拶を返す表面上の私と、その一瞬を永遠に考える私。
視界に広がる景色も、実際には見えない心の中も、この目に映るもの以外も全て記憶している。
まだ見えない未来も遠い昔の出来事も、何だって私の予想からは外れない。
ほんの些細な違和感を無視してはいけない。小さなズレが大きな亀裂を生むから。
歪んだ視界より前には異常なし。後にも異常なし。
「なあ茜、はてなを呼んできてくれるか? また寝不足みたいだったら起こさなくていい」
言葉を出さずに頷き、扉をノックしてから返事を待たずに部屋へと入る。
ベッドにはいないと気配で知り、いつもいる机に倒れこむような姿勢で仕事を続けるはてなの肩を叩く。
「……ああ、茜さんですか。何でしょうか」
「ご飯の時間よ」
「今行きます。お待ちください」
以前と比べて髪の手入れをするようになったのね。
長さも揃えるようになったみたいだし、記憶しておきましょう。
リビングに戻ろうと振り返る間に悟られることなく姿を目に焼き付け、はてなの部屋の玄関を出て空いている席へと座る。
すぐにやってきたはてなが席に座ると全体を見渡したママさんが言った。
「全員揃ってるかしら? いただきます」
それを合図に、食材に感謝する皆の声が揃い、各々が好きな物から食べ始める。
食べている間も思考を巡らせて、一つずつ違和感を正体を暴こうと紐を解く。
歪んだ視界に映り込んだものは何だったかしら?
それまで見ていたものはないわね。強いて言うならば壁の方向。
そこに隠し部屋は存在しないわ。何もないただの壁。そこに何かがあった?
いいえ、記憶に何もない。でもそれ以外には何もない。
何もないのだから何もないそこに何かがあるはず。
壁の向こうではないとしたら、壁の手前? 何かが置いてあった? 何かがかけてあった?
考えられるものを全て頭に浮かべて一秒でも早く解決しなければ。
装飾、写真、絵画、痕跡、一時的な物、拾い物や埃から何でも。
そこに何があったか。一秒にも満たない時間で記憶を漁るのは毎度骨が折れるわね。
「明日時間空いてる? 新しいゲーム買ったからやろー」
「何のゲーム? 僕もやりたーい」
「パズル系みたいな」
どれだけ思考を巡らせていても、この瞬間に起こる出来事も記憶し忘れちゃいけないわ。
メーナの予定に狂いはないわ。その他も異常なし。
……そう、異常はないわ。
……何に?
未来予知は間違いないわ。でもそれ以外。私は何か予定を立てていた?
違う。私は関係ないわ。皆の予定を私は予想していた?
何のために? そう、そこがおかしいのね。
頭に響いた裂けるような音に気づかず、記憶を整理していく。
「……龍兎」
全てが繋がったわ。視界に映り込んだそれを思い出したわ。
隣に座っていた龍兎の手を掴んで自分の空間へと連れだす。
抵抗することもなく疑問を抱くこともなくただついてきた龍兎へそれを聞く。
「龍兎、明日は何があったかしら」
「明日? 俺は何もないよ? 可恋とメーナがゲームをするくらいじゃない?」
「明後日は」
「うーん、主から頼まれた書類がそろそろしないとかなー」
私だけが忘れていたわけじゃないようね。
皆の記憶を読んでもなかったということは、この世界全体から消えたのでしょう。
「あなたの所有するここ以外の空間に、黒い髪をした分身は何人いるかしら」
「えーと、ずっと前から変わってないね。増やしてもないし六千三百二十九人」
一致するわ。私より少ないあなたの分身の数はそれで合っている。隠しているわけではない。
「シナリオを描いている分身は何人?」
「一人。……一人?」
「ええ、一人よ。私とあなたで一人ずつ。今どこにいる?」
「……いない」
「分かったわ」
ええ、そうよ。シナリオを描いている分身がいたのよ。
私たちはいつからそれを忘れていた?
いえ、いつから“なかったことにされた”?
「変わってしまったそれ」も同時に、「なぜ今私がそれに気づいたか」も知りたいわね。
龍兎に五分で全ての分身を見直すように指示をして、私はリビングにいる苺へと連絡する。
簡潔に今テーブルに出されている箸の数とリビングから見える部屋の扉の数を全員で把握するように。
主には過去の書類に担当した者の名に私たち以外のものがあるかどうか。
あの分身たちが自ら消えるとは思えないわ。私が消したとしたら今この瞬間にその分身たちから何の反応もないのはおかしい。
私が自分の記憶を消すのは理由があってのこと。余程の理由がないとあり得ない。
考えられるものとしては、私が分身を思い出すことを何かのトリガーにしている場合よ。でも何も反応がないってことは私は自分で記憶を消していない。
つまり他者の力で消されているけれど、それは私の支配下にない。
全盛期の主の力が影響していたとしても、“私と龍兎にはそれを無効化できる理由”がある。
あらゆる推測の中で最も有力なもの。人数が合わないことね。
苺からの返答が届き、龍兎に任せた情報整理も終え、一度リビングに戻る。
「茜、さっきも伝えたが箸の数が合わない。そしてアキレーヌが壁の向こうから匂いがすると言ってる。……何があったんだ?」
やはり皆、心当たりがあるのね。
今分かってることだけでも伝えておいた方が良さそうだわ。
私は簡潔にわかっていることだけを伝えたわ。
「記憶が消えてることは分かった。あれはそいつの匂いなのか?」
「恐らくそうでしょう。アキレーヌ、どんな匂いなのかしら?」
目線を向けると不安そうにしながらも答えたわ。
「うーんとね、たぶん女の人だよ。恋不お姉ちゃんたちと同じくらい……? 特徴的な匂いじゃないけど、なんか、何か……不安定な匂い……」
私たちの記憶には姿すらないけれど、推測できる人物像はそんな感じね。
名前すら消えてしまった人は、きっと私の家族。
家族が欠けることは許さないわ。絶対に。
絶対に許さないから、必ず見つけてみせるの。
「ねえご主人、私あんまり重大さ分からないんだけど、家族なの? その消えてる一人? 二人? は私の大切な奴?」
「少なくとも、私の大切な家族よ」
そう答えるとどこかメーナは驚いた表情をしたわ。
不思議に思って首を傾げてみると、メーナは目を逸らしながら呟いた。
「えっ……ご主人って家族大切なの……?」
心外ね。確かに大切にしているようには見えないでしょうけど、私はちゃんと私なりの愛で愛しているのよ。
だから消えたあの子も愛してる。姿も名前も覚えていなくたって感情は消えてないわ。
……どうして、私の前から消えてしまったのかしら。
消えたあの子が自らの意思で私から離れたのだとしたら、それは何が原因なのかしら。
私が何か間違ったことをしていたのなら謝るわ。嫌な事があったなら解決してあげるわ。
戻ってきて。また私の前で、笑っていて。




