第百三十四話 父と娘
創られた黒い扉。重たい扉を開ける勇気はあった。でも足が震えてた。
自分の気持ちを押し殺して開けた。話がしたかった。
真っ暗な場所だと思ったけど、ただ部屋の電気がついてなかっただけだった。
「ここは……」
見覚えがあった。何度か入ったことはあるから、知ってる。主の部屋だ。
家具の数が少なくて、それより書類の数が多い部屋。必要最低限のものしか置いてない部屋。ただ掃除だけはきちんとされていて埃は見当たらない。
今床に広がるのは赤い血だけ。主の血とママの血。
暗い部屋の中、ママの服が見えた。訓練のおかげで暗闇でも見える俺の目は、髪色の違うそいつにもちゃんと気づいた。
ベッドの上で横たわるママの手を握る主は、疲れ切ったような白色の髪をしていなかった。絶望に染まったかのような深い黒だ。
「あ……る……主」
震える声で呼んだところで反応はなかった。
何度も何度も小さな声で呼んだところでこっちを向いてくれなかった。
会う勇気はあったのに、話す勇気はまだ足りてなかった。
ママの手を握って祈るような主は、顔が見えない前髪のままだけど、落ちる涙だけは隠せていなかった。
じわっと浸食するかのような不快感。微々たるその空気の流れが教えてくれた。気づかなかった主のその腕。シャツの隙間から垂れるような黒い色。
全身を鎖で縛られたように浸食する黒い色。肘まで到達する前に俺ははっとして駆けだした。
龍兎から聞いていた可能性。主の死因は寿命。俺はふと思ったんだ。主の寿命は確かに俺たちよりは短いと思う。でもすぐ死ぬようなものじゃない。
ならそれを、自ら捨てられるとしたらどうだろう?
寿命を捨てて自ら死ねるとしたら。
思わず駆け出した俺は、主の祈る手を叩くように弾き、ママと主を引き離した。
「っ苺、……ちゃん……」
「な、なあ何してるんだ? どうして髪が黒いんだ?」
主の腕の黒色は浸食を止めた。よく見ると足は全て黒くなっていた。
「……何もしてないよ。ごめんね、もうご飯の時間だった? 私はいらないから先に食べてて?」
「そうじゃないっ……。な、あ……本当なのか」
「何が?」
吐息の混じった主の声は、今にも死にそうだった。
勇気を出せ。俺は良い子なんだから、頑張れる。
「……主は、俺の父親なのか……?」
嘘だというのは簡単だ。でも確かに不自然な点はいくつもあった。
顔を覚えてない親なんて、思い出の一つもない親なんて、いるわけないと、そう思った。
「……そっか」
主はどこか納得したように呟いた。
そして諦めたように話し出した。
「そうだよ。私は君の父親。血が繋がった本当の父親。……記憶を消したのも私だよ」
ああそうか、そんな感想だった。
俺の父親だった。でも、どうしてそれを隠してたの? どうして俺の前でただいまと笑ってくれなかったの?
「ごめんね。君からしたら色々話したいだろうし、今まで育児しなかった私を叱りたい気持ちもあるだろうけど、あとでいいかな。苺ママと、君のお母さんと話がしたいだけなんだ」
「死んでいるママと、どうやって話すっていうんだ?」
「……きっと、できるようになるから」
近くに来て気づいた。ママは息をしていない。でも苦しそうな表情はしてなくて、安らかに眠っているような顔だった。
死んだママと、黒い髪の主。俺が聞きたいことは山ほどあるんだから。
「父親って隠してた理由は何? ママが死んでいる理由は何?」
話してほしい。俺はずっと父へのプレゼントを溜めていたんだ。やっと会えたのに、どうして死んでしまうんだ。
「……君には、関係ないでしょ」
「っ!?」
咄嗟に避けられたのも訓練のおかげだろう。
腕で庇ってしまったせいで少しだけ血が流れだした。
主は持っている刀を浮かせて、ゆっくりと俺に向けてママの手をまた握った。
「君のお母さんはご飯を食べるから、作って待ってて」
「……主の、分はいらないのか」
「いらない。だから帰って」
あっという間に主の左腕は黒く染まった。だらんと下げたその腕は、もう動かないのだろう。
「俺の父親なんだろ? 話したいことがいっぱいあるんだ。だから、死なないでくれ……。せっかく知れたのに、ゆっくり話もできないまま、お別れなんて……」
「関係ない。私は君に何を言われようとどうでもいい。早く帰って」
「何でだよ、何で、何で俺の父親って隠してたんだ!? 話したいことも、ないのか、俺はいっぱいあるのに、どうして……」
隠してたのに、ずっと俺の傍にいた理由は、なんだ。
本当に、死んでしまうのか俺の父親は。
俺の気持ちが届くことはなく、主は突き離した。
良い子でいた俺を否定するようにひどく冷たく、怒ったような声で――
「私は、君を愛していない!!」
そう言ったんだ。




