第十一話 正体
「あー痛い」
欠伸をするように白いベッドから起き上がれば、顔にのっていた白い布が床に落ちた。
ひらひらと舞うそれを踏みつけてベッドから降りると、周りを囲っていたカーテンが勢いよく開いた。
「おはよう」
そこには、あの教室内で裕樹と呼ばれていた男の子がいた。
「おはよ、裕樹君」
嫌味を込めるようにその名前を呼ぶと、ため息をついて裕樹君は姿を変えていった。紙が炎で焼け溶けていくようにゆっくりと、茶色気味の黒髪は真っ赤な髪に変わっていった。
「これなら満足? 名無しちゃん」
腕を組んだその姿は、見飽きた美人の神崎茜だった。
私はそうだね、と笑って両手を広げた。灰色の光がそこに集まれば、一枚の紙を作りだした。それに書かれているのは『解除』の文字。私の字で書かれたそれを手にとって軽く念じれば、自分の姿は元の姿へと変わっていく。
早送りで描かれたように、腰まであった黒髪は胸下まで縮んで、白いリボンで一つ縛りに。恐らく診察がしやすいであろう、落ち着いた色の服は、不吉な黒色のTシャツと灰色のパーカーに。
大人しい名無し女の姿は、渡崎弦月へと戻っていた。
「私はともかく、裕樹君が消えて大丈夫なの?」
私こと、名無し女は世界中の人達からの記憶から消えている。茜ちゃんがそうした。
「分身が残る、だから裕樹は存在が消えない」
そう言って茜ちゃんは、ほら、と言いたげに視線を背後に向けた。
「ばあっ」
手を振って茜ちゃんの背後から現れたのは、茜ちゃんにうり二つの存在だった。いや、本人ではある、私達がそれらを分身と呼ぶだけで。
さて、北川晴実の現在の“個人情報”はこうだ。
『北川 晴実
“死亡推定時刻****年” 4月29日**曜日(推定享年47歳)
17歳 女性 4月3日生まれ A型 162cm 46kg
家族構成 父(詳細記載) 母(詳細記載) 自 ペット有(詳細記載)
青来県心希市心希町***-**** 青来女子少年院入所中――』
あの子の寿命は延びた。名無しの私が身代わりになることで防がれた。
人の人生を管理し、“上”から依頼された物事を変える。今回のように死亡確定時刻を大幅に変更したり、ある時は逆に死亡推定時刻を無視して、強制死亡時刻として人生を終わらせることもある。命に関する事以外も、様々な事件事故、ほんの些細な行動一つを防いだり起こしたり。
地上で起こる事全てを管理する、それが中仕事と呼ぶ、私たちの仕事。
――天界に住む神様がしている仕事の一つだ。
茜ちゃんは神様だ。人間とはかけ離れた力を持った、地上から見て異常な存在。神力と呼ばれる、神様が持つ力であらゆる事を実現させる。ファンタジー小説でよく見る炎魔法だって、瞬間移動だって、別人へと姿を変えることだって、傷を回復させることだって何だってできるらしい。
そんな神様と一緒に暮らしている私は、ただの人間だった。足だって遅いし頭も悪い、ただの中学生だった。
数年前、私はただの物書きで、それなりに大人しく生きていた。それが気付けば神様と一緒に住んでいる。そんな夢みたいな物語みたいな事が、今ではもう当たり前となってしまった。
「弦月、帰ろう」
その言葉が聞こえて顔をあげると、そこにはもう茜ちゃんはいなかった。
「は、早いな……」
「本体、お腹空いたってさ、弦月も帰れば? 私は裕樹としてここに残るけど」
本体とは“オリジナル”の茜ちゃんのことを指す。“オリジナル”から作られた分身はなぜか皆本体と呼び出すのだ。私が分身を作ってもそれは変わらない。
「そうだね、帰るわ。バイバイ」
「はーいさよーならー」
本体と違ってお気楽そうな茜ちゃんの分身は、ひらひらと手を振って、消しゴムで消されていく絵のような私を見送った。