第九話 その一言が言えずに
「どうした!!」
勢いよく開いた扉の音で、現実へと引き戻された。
騒ぎを聞きつけた先生が、教室に入ると同時に見たその光景は、その場にいたはずの私達も目を見開くものだった。
泣いたままの子、教室から逃げ出した子、吐いてしまった子、恐怖のあまり動けない子、……血を流すその子に声をかけ続ける子。
私の足元に倒れたままのその子は、胸部から血を流したまま、動かなくなっていた。顔にかかり、床についた黒髪が血で濡れてしまったその姿に、私は息を呑むことしかできなかった。
喉の奥まできた何かを、必死に胃に戻した。
「……ごめんなさい……」
血のついた鋏を握ったまま、私が言うべきだった言葉を呟いたのは海菜だった。
数分前だった。いつも通り海菜は標的になっていた。
「それでねー、昨日のテレビがー」
わいわいと騒ぐクラスメートたちが海菜の席に紙を置いて行く。今の時間、担当教師が突然の休みと連絡が入り、自習という形になった。担任がそれを配って職員室に戻っていったあと見たら、幼稚園児が作るような工作キットだった。
みんなめんどくさい、やりたくない、と、先生がいないことを良いことに海菜の席に持って行ったのだ。
海菜はそれを顔色一つ変えずにもくもくと作業を続けた。今日もただ耐えていたらしい。
しかしふざけあっていたクラスメートが海菜の席にぶつかり、持っていた鋏が床に音をたてて落ちた。
「お、和崎ー、ちゃんと工作してんだろーな?」
人ごとのように押しつけたものを眺めながら、首を傾げるように簡単に海菜を蹴り飛ばす。
いつものような光景に、また私はあるはずの助けの手を後ろに隠しながら笑ったままそれを眺めた。
「ねえ晴実ちゃん、今日はどうするのー?」
濁った笑みを浮かべながら私の前の席の子は語りかけてきた。「もうやめよう」なんて言葉は脳裏にも浮かばずに、代わりにテキトーに浮かんだものを口に出す。海菜にされるいじめの半数は私が決めていた。
「ほら立てよ」
力ずくに腕を引かれ、海菜はよろよろと立ち上がる。俯いたままの顔を見ようとして、私は首を傾げた。
右手になにか持っているとその時気付いた。
足に鎖がついたようなゆっくりとした動きで、海菜は私の方に歩んできた。いつもと様子が違うとクラス中が動きを止めていたのと対照的に、海菜はどんどん私に迫ってきた。
目の前まで来たところで、海菜はゆっくり高く腕を振り上げた。まるで糸で動かされた人形のような姿に、鋭利なそれはよりいっそう不気味さを醸し出していた。
それが振り下ろされるより先に、真っ赤なそれが流れるより先に、海菜が何かを呟いたのが聞こえた。しかし私の心臓の音にかき消され、海菜の涙が落ちるのだけが見えた。
――海菜の涙見たのは、久し振りだと思った。
「――て」
「だめ!!」
それは私の前に立ちふさがった子へと突き刺さった。