豻
『うひぃぃぃ!気持ち悪ぃぃぃ!!』
後ろに迫る無数の蛆の大群は、津波の様に木々をなぎ倒し、寅吉らを飲み込まんと押し寄せて来る。
普通よりも遥かに大きい個体だ。
牙を剥きだしにして新鮮な肉を求める様子から、蛆とは別の、凶悪な肉食獣にも見える。
いずれにせよ、あれに齧られれば徒では済まない。
『おい、代官!アンタ、足付いてんだろ!?自分で逃げてくれねぇか!?こう、重くっちゃ追いつかれちまう!!』
寅吉は、自分の背にしがみ付いて離れない長尾に叫んだ。
この緊急事態に、煩わしい荷物など放り投げて全速力でサヨナラしたい。
そんな正直な気持ちを、出来るだけ丁寧に相手へ伝えたつもりだったが、当の長尾は情けない顔で、力なく首を振るだけだった。
「す、すまぬが…腰が抜けてしまって…立つことすら満足に出来んのだ…」
『はああ!?…ったく、これだから文官はよぉ…。人間の真似事なんてするからだ…』
ぶつくさと悪態をつくが、仕方がない。さすがに、見捨てる事は出来ず、寅吉は半ばヤケクソになって駆けた。
そこへ寅吉の前を走る朝倉が、耳を疑うような事を口にする。
「…しかし、このまま逃げ続ければ、いずれはご老公が御座す所に行き着いてしまう。ここで食い止めるぞ」
『!?…アンタ、この数を相手にすんのかい!?言っとくけど、俺は一対一が専門で、今回は役に立たねえぞ!』
「案ずるな、手は打ってある。お前は囮として、そのまま逃げ回れ」
何と薄情な命令だろうか。
寅吉は目を剥いたが、朝倉は相変わらず飄々としていた。
どうやら、本当に策があるらしい。
『…早くしてくれよ!!荷物が思ったより重くって、たまんねえや』
「泣き言を申すな。…ご老公に奴らを近づけさせるなよ」
そう言うと、朝倉は身を翻して闇に溶けた。
(寅吉の言う通り、残された時間は僅か…。急がなければ…!)
朝倉は疾風の如く、ある場所に向かって駆ける。
抜けた先には、集落の様子を窺っている時に配置した、あの油紙があった。
朝倉が紙を踏むと、程なくして淡い光が漏れ出し、ぽっと青白い炎が灯る。
余りにも真っ青なので、この世のものとは思えない、不思議な存在感を醸し出している。
それを良しとして、朝倉は次々と紙のある場所を目指した。
目にも止まらぬ速さで村を一周した後には、その軌跡をたどる様に青い炎がチロチロと揺れている。
これで全部。準備は整った。
朝倉は囮役の寅吉の元へ戻ると、次の命令を下した。
「奴らを村の真ん中に誘い出せ」
『…分かった!』
寅吉は最後のひと踏ん張りと奮起し、村の中心に向かった。
「飛んで火に入る夏の虫…」
餌を目の前にぶら下げられて、それを食さんと猛追するだけの蛆を眺め、朝倉はそう独り言ちる。
間もなく小屋が見え、今回の件の発端とも言える荏の畑に到達した時、朝倉が叫んだ。
「よし、避けろ!!」
『…え、なに?』
命令の意味を図りかねて寅吉は首を捻る、その僅かな間、朝倉は印を結んだ。
「智拳印!」
油紙に灯された青い炎は、油を注がれたかの様に大きく燃え盛り、各々が円を描きながら朝倉の元に集まり始めた。
その道筋には青白い光が残り、暗闇を青く、美しく染め上げて行く。
炎が中心で一つになる頃には何とも言葉に出来ない、幻想的な光景が寅吉、長尾、蛆をも包み込む。
そして、大地を揺るがす程の、大爆発を起こした。
山々に木霊する爆発音が静かになった頃には、炎が描いた円の中は焼け焦げた臭いと煙、燃えカスが残るのみであった。
当然、集落の面影すら無い。
あの大量の蛆は、そのほとんどが跡形もなく燃え尽きた。
「…良し」
「良し、じゃねえよ!仲間もろとも殺す気か!?」
猫の姿に戻った寅吉は、土中から這い出て来るや、気絶した長尾を放り投げて朝倉に詰め寄る。
朝倉は無傷の寅吉を眺め、やや意外という表情を作った。
「…上手く避けたな」
「ふざっけんな!それに無事じゃねえ、見ろ!!尻尾の先が焦げたわっ!」
「まあ、そうでなくては…。これで死ぬようなら、ご老公の近衛は務まらんぞ」
どこまでも、ご老公、ご老公と…お前はご老公の母ちゃんか。
さらに文句を言おうと、口を開いた時、ピンッと耳を欹てた朝倉が、それを制した。
「…静かに…」
東の雲が、薄ぼんやりと光を帯び始め、日の出の到来を予告する中、どこからともなく、風の吹く音がする。
ひゅるる、ひゅるる…
山の木々が風に靡き、それぞれの枝葉を揺らす中、寅吉は妙なことに気付いた。
(風は吹いてない…?)
既に寅吉の視界に入る草木も、小刻みに身体を揺らしている。だが、全く大気の流れを感じないのだ。
風もないのに、どうして木が揺れているのか。
不可思議な自然現象に首を捻っていると、朝倉が憎々し気に呟いた。
「…やはり、これだけ騒げば、奴らも黙ってはいないか」
言うや否や、朝倉は全神経を尖らせ、臨戦態勢に入る。
ひゅるる、ひゅるるるる…
徐々に音が近づいてきた。木々の揺れ具合からして、本来なら身を少し屈める程度の風を感じても良い筈だ。
寅吉は、遅まきながら朝倉の忠告を思い出す。
「…ひょっとして、アンタが言ってた風の音って、これのことか?」
「…豻だ。思いの他、音が近いな。どうやら、このまま退散とはいかんらしい」
朝倉の視点が、一つに絞られる。
「我々は既に、見張られていた、というわけか…」
突如、鉄同士を擦り合わせたような轟音が、辺りに響き渡り、寅吉はその不快さに思わず耳を閉じた。
しかし、視覚まで封じる訳にはいかなかった。
朝倉たちの直上の、白みかけた空を再び闇に戻すかの様な真っ黒な靄が、渦を巻いていたのである。
靄は呆気にとられている寅吉らを嘲笑うかのように、しばらく蜷局を巻いていたが、程なくして地面に降りた後、靄は一か所に集まり、塊になった。
「ああ…、懐かしい顔だ…」
場違いな程に落ち着いた男の声が聞こえた。
靄からの奥から、まるで霧が晴れていく様に、手足が出て、胴が見え、最後に顔が露になる。
声の主の身体から剥がれた靄は、朝焼けの冷たい空気の中に散っていった。
「久方ぶりの再開だというのに、場所がこんな辺鄙なとこじゃあ、湧くべき情もあったもんじゃないね…朝倉殿」
姿を現した男は、まるでずっとその場で寛いでいたかのように、力を抜いて立っていた。
一見は着流しを纏った、細身の優男である。
無論、頭は猫侍の様な人外ではなく、毛むくじゃらでもない。ちゃんと「人」に見えた。
その姿を見た途端、朝倉の敵意は最大限に達した。
「…どこの命知らずが私たちの前に現れたかと思いきや、爾胡、まさか貴様と相見えるとは。…逆に運が良いと、捉えるべきかな?」
さり気無く距離をとりながらも、朝倉は男の一挙一動を見逃さないよう注視する。
男は「そうだね」と、相槌を打ち、笑った。
「もう、あれから二十年は経ったんだな…。捕り物をしにここまで来たのに、捕まえたのが旧い友とは…。複雑な気分だ。見たところ、部下一人しか連れてないね。ひょっとして、こんな所まで左遷されたのかな?」
皮肉交じりに古い知人との再会を懐かしむ…わけではない。
その証拠に、男の神経質そうな面長の顔には、これまた病的に黒猫を凝視した瞳が備わっている。
朝倉に至っては、眼力で人でも殺せそうな位、敵愾心を遠慮なく相手へぶつける始末である。
状況が全く理解できない寅吉は、たまらず横やりを入れた。
「な、なあ…。教えてくれよ。あの人、アンタの知り合い?」
それを聞いた朝倉の顔は、一瞬、きょとんとした後、すぐに呆れ果てた表情に変わった。
…相当、まぬけな質問だったらしい。
「奴らは夷人だ。この国の外で生き長らえる獣…『豻』だ。先の大戦で幾度も刃を交えた、狡猾で、残忍な連中よ…。奴らは負けたが、未だ凶暴な牙は折れていない。あの姿に惑わされてはならぬ」
「おお、まさかアタシらを知らない世代がいるとは…。時代を感じるね」
本当に面白いのか、単に馬鹿にしてるのか、コロコロ笑いながら男は仰々しく両手を広げ、軽く会釈した。
「紹介の通り、アタシは豻の爾胡と申します。…ただ、訂正させてもらうけれど、狡猾で残忍かは、そちらの主観が幾分か入っている。敵同士だったから、ある程度の贔屓目は仕方ないけどね…」
「それと、もう一つ」と、爾胡は人差し指をピンと、立てた。
「負けたのは、アタシらじゃあない。アタシらを雇った、そちらの大将の片割れが負けたのさ…」
「ふん、…では、ヒトを見る目が無かったとでも言い訳するのか?…まあ、今はそんな事、どうでも良い」
朝倉は牙を剥いて、唸り声をあげた。
「今回の一件、まさか貴様の差し金ではあるまいな?越の混乱に乗じて蜜を吸おうとした、過去の悪だくみを顧みず、再び我らの地を侵そうと浅知恵を働かせたか?」
仇敵の恫喝に対し、爾胡は失笑に付しただけだった。
「何を馬鹿な…。アタシらは悪者を捕まえに来ただけだよ」
「ほれ、そこの」と、爾胡の指さす先には、未だ夢の中を漂う長尾が横たわっている。
「前々からこの辺りで不審な動きありと、報告があったんで、今夜が山と踏んで張ってたんだよ…。そこに誰かさんが、どっかん、ばったんと暴れ出したもんだから…慌てて飛び出してきたってわけさ…」
とても慌てているようには見えない態度だったが、向こうの言い分には隙が無い。
それに、それが真実だとすると、朝倉達の方が向こうの捕り物を邪魔した事になる。朝倉は少し言葉を詰まらせた。
「…では、貴様は、今回の一部始終を知っているのか…?」
「…全部、ではないけどね…。荏を含めて、油の管理はアタシらの方が、きちんと管理している自信があるから…。こうやって、そちらの尻ぬぐいも、肩代わりしなきゃあならない」
「で、でもよ、取り引き相手はそっち側だぞ!?」
寅吉は先ほどの顛末を思い出し、負けじと声をあげる。
「長尾に金をくれてやった相手は、川を挟んだ向こう側にいた奴らだ!アンタの国の誰かが企んだんじゃないか!?」
「…それは、水掛け論だよ、坊や」
爾胡は子供を諭すかのような、優しい口調で寅吉に語り掛けた。
「どんなに高潔で、秩序に満ちた国だろうと、蛆虫の様な連中は少なからずいるものさ…。上がすべきは、蛆虫が生まれないようにする事じゃあない。…如何に見つけ、根絶やしにするか、だ」
「じ、じゃあ、対岸にいた5人組は…あの蛆は、お前らとは無関係だって言うのか!?」
「ああ、あれね…」
そう言って爾胡は視線を落とす。
視線の先には、爆発で全焼を免れた蛆が、息も絶え絶えに蠢いているのが見えた。
爾胡はそれに近づき、何を思ったか、拳大程の蛆を手で鷲掴みにした。まじまじと蛆を眺め、スンスンと鼻をひくつかせる。
そして、徐に蛆に嚙り付いた。
「うん…、不味い」
咀嚼しながら、さして興味も無さそうに、抑揚のない声で爾胡は呟く。
しかし、彼の貪欲な食欲が収まる気配は無かった。
そのまま、蛆にガブガブと食らいつく。
あっという間に食い尽くし、残りカスまで丁寧に舐めとっている。
「…こんな不味いもの…、アタシらは飼わないよ」
そう、嘯く顔からは、人の面の裏側に潜ませた野獣の本能が垣間見えた。
あまりの衝撃的な光景を前に、寅吉は追及する気が失せて、黙り込むしかなかった。
押し黙った二匹を満足気に眺め、爾胡は「さて」と身を翻した。
「…捕り物も空振りに終わった事だし…、馴染みの顔にも会えたし、そろそろ失礼しようかな。一応、ここはそっち側だしね…」
「…逃げる気か?まだ、聞きたいことは山ほどある」
折角の手掛かりだ。必要なら力に訴えようと、朝倉は自身の鋭利な爪をチラつかせた。
しかし、件の優男は通用しないとばかりに、溜息をついて、頭を振る。
「…そうやって、時間をかせぐつもりだろうけど、無駄さ。ここはそっちの地面でしょう?越境の罪を擦り付けられて、援軍を呼ばれちゃあ、堪んないよ。帰らせてもらう。…まあ、暴力に訴えるならそれでも良いよ。…この数でアタシらが負けるとも思えないけれど」
不意に殺気立つ視線を感じて、二匹が辺りを見渡すと、一定の距離をおきながら、朝倉たちを取り囲むように立つ、十程の人の姿が見えた。
「アタシ一人で捕り物に来たと思った?…そこまで、慢心しちゃあいないよ」
完全に手玉に取られている。朝倉は自分の失態に、歯噛みする思いだった。
しかし、多勢に無勢。既に豻どもの黒い尾が、今にも朝倉らを襲わんと揺れていた。
爾胡の合図で、簡単に死ねる。
「いやあ、帰り際に良い土産話が出来た。今回の朝倉殿の協力ぶりを、上にも報告しておこうかな。感謝の便りでも来るかもね…」
半ば観念した朝倉の顔を、さも面白そうに眺めていた爾胡は、今度こそ、さようならと、手をひらひらと振った。
その背中に向って朝倉が叫ぶ。せめて、これだけでも情報が欲しい。
「おい、最後に教えろ!あの村に、人間の親子連れが居ただろう。親の方はどうなった!?」
「…子どもの方は逃げたみたいだけれど、親の方は、知らないな…。憑依が上手くいかないってんで、どこかに連れて行かれたまでは、見届けたけど…。大方、さっきの蛆の餌にでもされたかな。…可哀そうだけどね」
爾胡の返答は、素っ気ないものだった。明言はしないが、もういい加減に終りにしようと、表情に若干の苛立ちが見える。
ここまでか。
朝倉が失意で肩を落としかけた、その時であった。
「と、父ちゃんを、…父ちゃんを返せ!!」
周囲の人外どもの黒い感情を吹き飛ばすかのような、真っ直ぐで、必死に叫ぶ子供の声が響き渡った。
「ウメ!?」「と、殿!?」
いつからそこに居たのだろう。朝倉や寅吉は勿論、殺気立っていた豻たちも、二人の存在に気付かなかった。
「…あんたは…」
爾胡は、今までの余裕から一転、予想だにしなかった人物の登場に、ぽかんと口を開けた。
しかし、いくら考えても堂々巡りである。
なんで、アンタがここに?そんな間抜けな顔であった。
猫侍の登場は、場の雰囲気を一変させた。
帰ろうとしていた爾胡は、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、猫侍から目を逸らせない。
周囲の豻たちも、明らかに動揺し、狼狽している。
猫侍の方と言えば、相も変わらず、悠々とした佇まいで、じっと爾胡を見ていた。
その傍に居たウメが、もう一度、叫ぶ。
「父ちゃんを、返せ!」
「お、お嬢ちゃん…何を…」
何を言っているのか、さっぱりだ。
そう、さっきの様に、言葉でやり込めようとウメに話しかけた爾胡だが、思うように言葉が出てこない。
すぐ後ろの、猫侍がどうしても視界にちらつく。
何も言わず、巨木のように立っているだけの巨大猫に気圧されている。
気づけば、額には汗が流れていた。
「…ああ…、ああ、思い出した。思い出した」
やっと出てきた言葉は、お道化た物言いで誤魔化した、事実上の敗北宣言であった。
「奴らが親を殺そうとしていたのを見た。…それで、子連れだし不憫と思って、助けてあげたんだった」
そういって、爾胡が手をあげて合図すると、程なくして一人の男が猫侍たちの前に運ばれてきた。
気絶しているが、息はある。身体も無傷なままだ。
ウメが泣いて縋る様子を見れば、この男が父親で間違いなかった。
「父ちゃん!!」
「…貴様、私を謀ったな!?」
怒れる黒猫を、つと、横目で見るも、爾胡は詰まらなさそうに、フンと鼻を鳴らすだけであった。
「…荷物は確かに返したよね?…それじゃあ」
爾胡は自身の黒い尾をくねらせ、蜷局を巻く。
次第に彼の周りに真っ黒な靄のようなものが、立ち込め始めた。
去り際、爾胡は猫侍を見た。
じぃっ、と。
敵対心とは別の、複雑な感情を瞳に込めて、爾胡は口を開いた。
「そちらの彼岸は、今日も美しく花を咲かせているか?」
猫侍は頷きを以て答えた。
それを見届けた爾胡は、無言のまま、答えを咀嚼するように2、3度頷くと、登場の時とは逆に、身体を黒い靄へと変えた。
靄は煙の様に縦筋を作り、天へ昇っていく。
ひゅるるる、ひゅるるる…
鳴き声を置き土産に、爾胡を筆頭にした全ての豻たちは、白んだ空から国境の向こう側の山々へと帰っていった。
一部完。