国境
「文の通りならば、そろそろなのだが…」
日も傾き始めた頃、猫侍の一行は道から大きく外れ、獣道を掻き分け山中に入っていた。
ここいらは人の手も及ばないのか、鬱蒼と生い茂る草木が行く手を阻んでいる。
「…おいおい、こんな所を進むなんて、冗談じゃないっての…」
寅吉は、ぼやかずにはいられなかった。
先陣を押し付けられたが為に、草を踏み鳴らし、枝葉を払い除けて道を開けねばならないからだ。
「だいたい、あの紙には何て書いてあったんだよ?」
「…この度の怪異との関係があると思しき場所について、だ。最近、ここから先に小さな村落が出来たが、活気は無く、面妖な生き物の気配が充満しているとの事だ」
それを聞いた途端、寅吉が目を剥いた。
「人間の住処なら、道があるだろ!山の中を通る必要ねぇじゃん!」
「それでは、今日中には着かぬ。私の知る限り、ここいらは山ばかり。しかも最近出来た村となると、整備された道があるか疑わしい」
朝倉はそう言って、周囲に視線を潜らせた。
「…それに、この場所は少し物騒だ。ご老公の御身を考えれば、事を迅速に運ばなければならん。ならば、道を探す手間の代わりに、無理やり直進した方が早い」
「そんなもん知るか」と、寅吉は半ばヤケクソ気味に草を払いのけた。後ろの二人は悠々と歩いている。一番の下っ端とはいえ、理不尽さを感じる。
つと、そこで寅吉は妙な音を聞いた。自身の耳に残る僅かな空気の震えに、最大限の注意を払いながら、咄嗟に身を屈め、後方に注意を促した。
「…おい、人の声がする」
寅吉の神妙な態度を察し、朝倉と猫侍も足を止めた。
「子ども…?」
具体的には童女の啜り泣きであった。
恐る恐る声の方に近づいて行くと、そこには幽霊でも、無論、化け物でもない。年端も行かぬ童女が蹲って泣いているのが見えた。
「な、なんだよ…。本物かよ」
「びびるな、軟弱者め」
呑気に幽霊で怖がっている部下を尻目に、朝倉は童を注意深く観察した。
とっくに向こうはこちらの存在に気付き、立たない腰を必死に動かして物陰に隠れている。
「ね、猫が…猫が、喋ってる…」
(…特に不審な点はないか)
泥塗れの麻の着物を纏う以外は、身に着けている物は見当たらない。
何かから必死に逃れて来たのか。遠目からでも分かる身体の震えは、日没前の冷え込みの所為ではあるまい。
「おいおい、落ち着けって…。俺らは悪さしねえって。ほら、見た目はただの猫だろ?」
心に余裕のできた寅吉が、相手を安心させようと努めて明るく話しかけるが…。
「ひい」と、なぜか更なる恐怖を与えてしまった。彼女の視線の先は、寅吉や朝倉を通り過ぎて、どっしりと佇む主君の姿があった。
「…ま、まあ、大殿は普通の猫じゃねえけど…」
「…ば、化け猫!!」
童の腰は完全に抜けてしまったらしい。涙目で震えながらも、地に根が生えたかの様に動けなくなってしまった。
一方、化け猫呼ばわりされた猫侍は、表情は変わらずとも、手であごをさすりながら、思案していた。
そして、何か思いついたのか、猫侍はのっし、のっしと、童女に近づいていき…
取り出したるは、一つの毬。
その毬を空中に放り投げては掴み、放り投げては掴み…気づけば毬は2つに増えていた。
その毬はさらに2つから3つ、3つから4つへと、投げて掴むを繰り返す度に増えていき、結局、最後には6つの毬が宙を舞う事態となった。
御手玉の代わりに毬を投げたのだろうが、中々の芸達者ぶりである。童も泣くのを忘れて見入っていた。
「のう、人間の子よ…」
猫侍の芸が一段落したところで、朝倉は彼女に努めて優しく声を掛けた。
「確かに、私たちは他の猫とは違うが、悪い猫ではないぞ。それにこちらのお方は、私たちの中でも、一番偉いお方だ。私たちは、この地で何か怪しい事が起きていないか、心配で見に来たのだ。決して化け猫ではない。…よいな?」
まだ良く理解できていない顔ではあったが、童は先ほどの様に取り乱す風もなく、黙って頷いた。
今や彼女の視線は、猫侍の持つ色鮮やかな毬に向けられている。
(さすがはご老公、人の子ですら心を掌握する術、感服致しましたっ…)
と、いう朝倉の羨望の眼差しと…
(…どっから毬出した?)
と、いう寅吉の呆れ顔の落差は、さて置き…
「…では、改めて聞こうか。人間の子よ、名はなんという?」
「…ウメ」
気持ちが落ち着いた童女、ウメは、名乗る程度には警戒心を解いてくれたのだろう。上目遣いで猫侍たちを窺うものの、怖がっている様子はない。
「ウメか…。お前は元々、この辺りの人間ではないな?」
「…うん」
「では今は、どこに住んでいるか、分かるか?」
その問いに対し、ウメはしっかりと、一つの方向を指し示した。
「あっち。…そんなに遠くない」
「ふむ、分かった。…では、肝心な事を聞くが…」
朝倉は出来るだけウメを刺激しまいと、努めて穏やかな口調で尋ねた。
「何があった?裸足のまま村を離れ、子一人でここに居る。と、いうのは合点がいかぬ」
「……」
何も言わぬ、のではない。
口は開くが、言葉が出てこないのだ。「あ」とか「う」とか、喉奥に引っ掛かるような、吃音めいた声が衝いて出るのみである。
表現できる言葉を持ち合わせていないのか、恐怖が喉を潰してしまっているのか。
もう一度、朝倉はさらに、ゆっくりと、言い聞かせるように話しかけた。
「何があった?…いや、何から逃げてきた?申してみよ。助けてやれるかもしれん」
「……お」
ウメはやっとの思いで言葉を紡いだ。
「お、とう、ちゃんが…お父ちゃんが…、お、お化けに…お化けに、つ、連れてかれ…て…」
「…分かった」
最後の方は嗚咽で掻き消されたが、それだけ聞けば、十分だ。
朝倉は猫侍に向き直り、畏まる。
「ご老公。ここは私と寅吉で村を見て参ります。ご老公は、ウメと共にここに居て下さい」
猫侍は頷いた。どことなく、眉を顰めているようにも見える。
「行くぞ寅吉」
「…わかったよ」
どうせ、拒否権などないのだろう。寅吉は半ば諦めたようにため息をついた。
気は進まないが、上の命令には逆らえぬ。
それに目の前で泣くウメの手前、逃げ口上をつくなど出来る筈もない。
しかし、気持ちが落ち着かないのは、寅吉だけではなかった。
猫侍らと別れて間もなく、先頭を駆けていた朝倉が、キョロキョロと世話しなく辺りを見渡しているのだ。
明らな警戒態勢に、寅吉は不審に思い、尋ねた。
「…どうしたの?」
「…分からんか?」
そう言いつつ、なおも朝倉は五感を研ぎ澄ましている。
ただならぬ雰囲気に、寅吉は既に化け物の気配が近くに居るのかと、背筋が寒くなった。
十二分に周囲を確認して、やっと納得したのだろう。警戒を解いた朝倉は寅吉に向き直り、神妙な面持ちで答えた。
「…この地域は丁度、国境だ」
その言葉で、ようやく寅吉も理解する。
思ったより、この件はややこしいかもしれない、と。
「念のため尋ねるが、国境に関する取り決めについては、知っているな?」
朝倉の問いかけに、寅吉はゆっくりと頷き、かつて常世の住人になったばかりの頃、古参連中に散々聞かされた文言を、そのまま暗唱して見せた。
「…国と国との境目、国境には不用意に近づいてはならぬ。越えてはならぬ。そこは猫の国とは別の世界。有象無象の夷人の国。拐かされ、喰われたくなければ、近付くな…」
「お前の教育係は、優秀だな」と、朝倉は満足そうに笑う。
「事実、そのような子供の躾け用の御伽話になる位、隣とは昔からの仇敵同士だ。お互いが顔を遇わせたら、素通りは出来ぬ」
寅吉には、何だかピンと来ない話だった。
今は常世も、現世も、戦とは縁のない、平和な時期だ。
三十か四十の猫ならまだしも、歳が十そこそこの寅吉にとっては、暴力沙汰といえば巷で起きる、猫同士の喧嘩くらい。
誰も戦時の武勇伝の一つも語らないのである。
だからであろう。仇敵と言われても、寅吉にはそれが誰かすら判然としないのだ。
ただ目の前の上司の雰囲気が只ならぬので、話を合わせるために首を捻って、さも考えているかのような態度を見せた。
「なんだって、こんな場所に村とか作ったかなあ…」
そんな寅吉の真意を知ってか知らずか、朝倉は「ふむ」と頷く。
「…文に指定された場所が既に怪しかったから、嫌な予感はしていたのだが…。ウメが指した方向に進めば、自ずと国境に出る」
「…どうする?」
「今から物見を集めても間に合わぬ。…まあ、こちら側にいれば、取り敢えずは安心だろう」
「いいか」と、朝倉は厳しい口調で寅吉に念を押した。
「この辺りの境目は、小さな川だ。川が見えたら、絶対に渡るな。それまでにウメの村が見当たらない場合、諦めろ」
「ダメだったって、あの子に言うのか?」
寅吉の気の進まない態度に、朝倉は黙って首を横に振った。
「お前は若いし、ここを出た事がない。…だから、何も知らずにそのような事が言えるのだ」
「…知ってるよ」
不貞腐れる寅吉に対し、朝倉は「いいや、知らぬ」と突っ撥ねる。
「とにかく、もしもの時は迷わず引き返す。…あと、鳴き声に気を付けろ」
「…鳴き声?」
それすらも知らんのか。
朝倉は呆れながらも、何か上手く説明できないかと、考えを巡らせる。
「そうだな…。風だ。風の音に注意しろ。風が吹いてもいないのに、木が靡いたり、風の音がしたら、国境とは反対の方向に走れ」
朝倉は声を落とした。
「それが奴らの…、豻の泣き声だ」