その日々は制汗剤の匂いがした
高嶋唯と言う一人の少女がいる。
彼女にとって夏は至上の幸いでもあり……全ての終わりが近付く季節だった。
少女がまるでハンプティダンプティのように、壊れて、砕けるまでもう間も無く。
♪ ♪ ♪
高嶋唯と杉原清人は同じ中学に入学し――両名共に虐めを受けていた。
杉原清人は唯とセックスしたと言う事実無根の噂話のせいで常時妬み、やっかみ、嫉妬に晒され直接的な暴行を度々受けていた。
唯がなまじ美しく育ったが故の事態だった。
そして高嶋唯もまた似た理由から虐めに遭っていた。
「本ッ当にキモい女!!」
バケツの水を被りながら、高嶋唯は俯く。
「ずっと清人君にベタベタ媚びて? そのせいで清人君が虐められてるのってどうよ? おかしくない!?」
中学になってから清人は変わった。
髪の毛のハネは変わらないものの身だしなみに気を使い始めた事で、一気に格好良く成長したのだ。
その上清人は誰に対しても優しく、女子からすれば少女漫画の中から飛び出して来たかの様な、そんな好男子のように見えてもいた。
そして、それを過剰に独占しようとする唯は女生徒の反感を買う結果となった。
それに加えて何処から漏れたのか委員長についた嘘に尾鰭がついて誰とも寝る女のレッテルを貼られ、勘違いした男子に迫られる事もままあった。それをすげなく扱えば……男女共に嫌われる性悪少女の完成と言う訳だ。
「私は……」
「はっ、小学校では一番上でも今は一番下。そこんとこちゃんと理解してなくない?」
小学校で一番上だった。でも今は一番下。
中学校は小学校よりも余程年功序列がはっきりとしてくる。
良からぬ噂はストレスの捌け口を求めるガラの悪い女子の先輩にも伝わり、虐めを受ける羽目になったのだ。
小学校の時の一件で唯が蒔いた種がこんな実をつけるだなんて思いもしなかった。
「……先輩の有難いお言葉は終了。どう? 胸に響いたっしょ?」
高嶋唯は下唇を噛み締めながら耐え続ける。
そんな唯を嘲笑うかのように蝉は泣き始めた。
♪ ♪ ♪
「……唯、それ」
「ただの極めて局地的な通り雨よ、気にすることは無いわ」
清人は唯の身を案じていた。
だが、唯もまた清人の変化を感じ取っていた。
「清人……その傷……」
「ああ、ちょっと」
ちょっとと言うには大きすぎる赤く腫れた頬。暴行の跡だと言う事は一目で分かった。
そして、浮かべる笑みも前より陰があって罪悪感が募る。
「私のせいだ」
「それは違う。きっと……俺がダメだったんだ」
一人称を俺に変えた少年からはあの純粋さが消えていた。
唯が、その純粋さを殺した。
あの純粋さを深く憎んでいた。
だが、その憎悪は……きっと深い愛の裏返しで。
だからこそ悲しかった。
「泣くなよ、唯。ほら、笑ってくれよ。そうすれば俺はいつだって大丈夫だからさ」
気付いたら涙を流していた。
いつだって大丈夫?
確かにそうだ。宿題や教科書を盗んだのは唯なのだから。だから、大丈夫なのは当たり前なのに。
なのに犬みたいに、ずっと尻尾を振ってついて来てくれる。
「……清人」
「何だ?」
「……ずっと言えなかった。……ずっと言いたかった」
「私は清人の事……好き」
ずっと得る事だけを考えて生きてきた。
だから分からなかった事。
唯は清人が好きであると言う事。
共に落ちるところまで落ちて始めて飲み込む事が出来た。
「清人がどれだけ馬鹿で、アホで、鈍感でも。これからは私がずっと守るから。……私に守らせて」
贖罪、恋慕、独占欲、依存。
その全てが混ざり合い唯の瞳に宿る。
ハイライトが消えた茶色の瞳は底無しの沼のようにドロドロと濁り切っていた。
「俺も、唯を守る。……後出しみたいでカッコ悪いけど、俺もずっと好きだった」
二人はそう言うとどちらからともなく口付けを交わした。
五年目の夏、始めてのキスは制汗剤の匂いがした。