その日々は雌の匂いがした
高嶋唯と言う一人の少女がいる。
彼女にとって夏は至上の幸いでもあり……嘘を重ねる季節でもあった。
少女は希求する。頼りないその背中を。
少女は憎悪する。その純粋な笑みを。
♪ ♪ ♪
二人は六年生、最高学年となっていた。
季節は梅雨に差し掛かり毎日の様に雨が降り続いていた。
灰色の空模様はいっそ鉄粉を降らせるのではと思うほどに重く、暗い影を落としている。
「……ごめん唯」
「良いわよ。いつもの事だし、いい加減慣れたわ」
そう言うと唯は清人に教科書を渡す。
六年生に上がってから杉原清人は頻繁に忘れ物をするようになった。
しかしそれも仕方の無い話だろう。
だって授業前に唯が盗んでいるのだから。
「でも……クラスも違うのに。……ごめん」
「馬鹿、清人はいつもみたいに笑ってれば良いの。今度暗い顔したらビンタだから」
「ごめん……ありがとう!」
清人は心底助かったと言う様子で廊下を歩いていった。
「……私って、本当馬鹿」
それを見送りながらそんな事を呟く。
唯は朝に清人のランドセルから教科書を盗み、帰宅前に清人のロッカーに戻していた。
唯が何故こんな行動に出たのか。
それは偏に清人に必要とされる為だった。
家庭環境に恵まれない唯にとって清人は憎くはあるが、救いそのものだった。
そして清人を失ってしまえば自分が自分で無くなってしまうかのような錯覚に陥ってもいた。自覚こそ無いが高嶋唯は杉原清人にどっぷりと依存しているのである。
だから、逆に清人を自分無しにはいられなくしようと――清人を自分の犬にしようとこんな事をしているのだ。
「ねぇ、高嶋さん」
清人と別れたばかりの唯の元に、一人の少女がやって来た。
それは清人のクラスの委員長だった。
ぱっつんで眼鏡をかけていて地味な見た目をした、いかにも勉強が得意そうな少女。
唯とは絶対に交わる事の無いような類の人種から話しかけられて唯はキョトンとした。
「高嶋さん……前清人君のランドセルから教科書を盗んでるよね?」
その一言で唯は瞬時に目の前の人物を敵と認定する。
「いいえ、知らないわそんな事」
唯は即座に否定した。
「嘘よ、だって……他クラスでうちのクラスに来るの高嶋さんしか居ないし……今朝、見ちゃったもん。高嶋さんが清人君の教科書を盗むところ」
「……人違いよ。他の誰かが盗んだんじゃない」
唯は清人の行動パターンを唯は知り尽くしていた。だから教科書を盗む事が出来ていたのだが、他の人間の行動パターンなど、まるで考えてはいなかった。
「……いいえ! 清人君は忘れたとしか言ってない!! 盗まれたと言ってないのに、人違いって言葉が第一声なのはおかしい!」
「あんたが先に盗んだって言ったんじゃない!」
やれやれ面倒くさいのに絡まれたと唯は頭を抱える。
言っても聞かないからこういう人間は嫌いだった。
「でも、私しっかり見たんだから!! 高嶋さんが清人君の教科書を盗んでるところ!!」
「……やけに清人を気にかけるのね」
「それは……」
すると委員長は頬を赤らめて、あからさまに動揺した。
あぁ、この少女はきっと恋をしているのだろうと唯は察した。
だから、悪魔のような笑みで毒を垂らすように続ける。
「私のお古がそんなに好きなの?」
「えっ!?」
「実は私と清人はもう付き合ってるの。それにもうやっちゃったんだから」
「……な、何を?」
唯は委員長の耳元まで近付くと、囁く様に、
「セックス」
そう言った。
少女の目に涙が浮かんだ。
それを見て唯はこれまでに感じた事の無いような恍惚感……愉悦を感じた。
「だから、二度と清人に近付かないで」
閉じた二人だけの世界に、他人など要らない。
少女が涙ながらに女子トイレに駆け込むのを眺めながら唯は歪んだ笑みを浮かべていた。
「馬鹿みたい」
唯はそう呟くと何事も無かったように日常に紛れ込んだ。
雨は強まり、地面を激しく打ち付ける。それはどこか不吉さを孕んでいるようだった。
♪ ♪ ♪
学校の帰り道は二人だけの世界だった。
なのに。
「なぁん♪」
清人が黒い子猫を抱えていた。
どうやら野良猫に懐かれたらしい。
「なんか僕って昔から動物に好かれやすいんだよね」
黒猫は清人の腕に抱かれて心底機嫌良さそうに目を細めている。
一瞬、この猫をくびり殺してやろうかと思ったが猫にまで嫉妬したらおしまいだと自制する。
代わりに撫でようとすると。
「に゛っ!!」
黒猫は唯を威嚇した。
まるで、唯と言う危険を清人から遠ざけようとするかのように。
「唯……顔怖いぞ?」
「っ!?」
頬に手を添えると件の、歪んだ笑みが張り付いている事が分かった。敵を前にした時の、仄暗い笑み。
そんな表情を黒猫に向け……清人に見られた。
それを指摘されたのは唯にとっては致命的だった。
取り繕う事も出来ないまま、ゴミと無気力な母親の居る家へと駆け出していた。
「……ただいま」
だが、不幸はこれで終わらない。
「帰ってきたのか」
父親がいた。
ただ、相変わらず部屋からは酒の匂いがするし、久々の父親の匂いは妙に甘ったるくて目眩がした。
「ふぅん。随分と大きくなったな」
値踏みするように不躾に父親は唯の身体を眺めた。
「じゃあ、またしばらく出張だから」
それだけ言い残すと父親は家から出て行った。
唯は嫌な予感がして自分の部屋に入ると、父親の甘ったるい匂いがした。
片付けておいた部屋はティッシュとコンドームが散乱して酷い有様だった。
その中心に。
「あの男……許さない……!! 許さない!!」
目を血走らせながらうわ言のようにそう呟く全裸の母親が伏せっていた。
四年目の夏、締め切った部屋に雌の匂いが強く染み渡る。