10-6,嘘吐きと泥棒
お湯が沸ける音がした。背中に毛布がかかっている温もりがある。私はうっすらと目を開けた。木彫りの小さなカップに珈琲を入れるあの男が見える。私は寝たふりをしながら様子を見ようとしたが、男が新聞を手にしたため私は起きざるを得なくなってしまった。一人で爆破事件の記事を確かめる機会はあったというのに、私はその怠惰な豚っぷりを存分に発揮し散々食い散らかした後はひっくり返って眠ってしまった。
「起きたか?」
彼はすぐに気が付き、こちらを向いた。その際に新聞を落ちてしまいそうな程はじっこに置いてくれた。私は心細くうなづく様子で安堵の感情をコーティングした。
「なら良かった」と彼は軽く笑った。偽善っぽい大袈裟な様子や演技っぽい感情豊かな様子がない。この男は、やっぱり大当たりだ。
私は視線を上げぬまま小動物が跳ねる様子を真似て立ち上がり、深々と頭をさげた。
奴隷が人間様の顔を見る、その御姿を確認するという行動をとるのは簡単なことではない。対等の存在とは程遠いことを視線と態度で充分に表してから目線を上にあげなくてはならない。奴隷はマナーを知らないごみ屑であるため、いきなり御顔を伺うことが失礼であるかどうかはわからないが、その方が印象が良く思い通りに展開を動かすことが少しだけ容易になる。
しかし、私は悩んだ。困った。男の御顔面を確かめず、その表情から何も読み取らないまま予測不能のこの空間で過ごすことはリスクがあまりにも高い。しかし、死体の残骸を片付けもせず、間抜けに眠り家の主が部屋に戻ってきても起きない奴隷となってしまった私は自分の決めた面を拝む条件を全く満たしていない。
「聞かねえよ、何にも」
私が戦略ミスによる緊張と同様を隠し、怯えと不安を果汁と一緒に和えた顔をしていると彼はそう言ってくれた。「好きなようにすればいいさ、俺の首元に刃物でも向けない限り、お前がどうしたって構わねえよ」と。鼓動が高笑い。脳みそが嘲笑い。顔は感謝と安心の涙ぽろぽろり。雑魚がよ。ありがとうございます。ご厚情痛み入ります。
彼は真っ白なバスタオルを大きな手とそこから伸びる細長い指で渡してくれた。その指には絵の具と思われる薄暗い紫や灰色に近い赤が所々についていて、私の心臓は脳みそから送りこまれた記憶に噛み砕かれた。
彼は言ってくれた。
「悪いな、油絵具を落とすの面倒くさくてな。汚かったよな」
汚い? 野性の動物や家畜にだって汚いと感じないのだから、人間様にそんな感情を抱くはずがない。人間様は人間様であるというだけで吐瀉物にまみれていようと排泄物にまみれていようと美しい。神々しい。汚物にまみれた奴隷は汚物にだって嫌悪されるべきであるけれど。
私は首を横に振った。
「いいえ、真っ白なタオルに触れるのは申し訳ないように感じまして」
嘘ではない。私は食事の際に差し出されたあれにも触れられず、食後は自らの腕で口を拭ったのだから。彼はまた軽く笑った。
「気にすんなよ。そんなのどうだっていい。風呂沸いたからのんびりはいってこいよ。俺はここから動かねえから」
彼はそう言って私が先程まで眠っていた場所に何の躊躇もなく腰を下ろした、いや、この部屋に座る場所はそことベッドしかないけれど。
私は彼の手に促されるままバスルームへと脚を向けた。
今まで一度も顔を上げず視線を上げなかった私が、彼と目を合わせるタイミングがとうとう来た。今しかない。
咳ばらいをし、小さくハミングをする。鏡を見て指で髪を整える。特に慎重に前髪を何度もいじったが自らの油で束になっているそれはどう整えてもましにならない、
私は一度閉じた脱衣所の扉を少しだけ開け、恐る恐る、おどおどと、隙間から顔を出し、彼の瞳を見つめ、外し、そしてもう一度真っ直ぐに彼と目を合わせ、いかにも勇気を出したというような震える声で伝えた。
「ありがとうございます。本当に、本当に」
長く話しすぎてはいけない。伝えたい感謝はたくさんあるというのに不器用で臆病で生物として弱いがゆえに伝えられない、そのくらいがちょうどいい。
紫色の花が新海に沈んでいるかのような青い瞳が私を見つめる。
彼は軽くではなく、顔全体を崩すかのように笑った。
「俺もお前も見つけられて良かったよ」
顔を始めて見るタイミングの確保に成功した。顔面とそこに出る表情の確認も出来た。顔を引っ込めたら、もうテーブルの上に置かれたままの新聞に思考は切り替わった。




