9-7,奴隷は何も選べない
魔女様は初めて私の肌に触れた。彼女は今日初めて私とあってからずっと一定の距離間を保ち続けていたのだ。それが魔女様としての威厳なのか、この閑寂の森で畏怖されるべき存在としてか、それともそれとも、私のことを恐れていたのか。
彼女はこちらに向かってまるで雪の結晶を捕まえようとしているかのように手を伸ばし、ゆっくりと私の右の手首を掴んだ。冷たく潤いのないその肌の触り心地を知っているような気がし十数秒考えて「エンドの肌だ」と思い出した。私はまだ、彼女を忘れていない。私が口に出しても心の中でも呼んでいたその名前も、薄幸の美しさも。けれど、私が思い出そうとしているエンドの声は、本当に彼女のものだろうか。存在もしない架空の人物の声だったり、実の母親の声であったりしないだろうか。
「まさかぼんやりとされるなんて思わなかったわ」
彼女はそう言った。もしかしたら呆れているかもしれない。わからないけれど。
「ごめんなさい。友人を思い出していました」
「穏やかに波打つ心を持ったあなたに同情するわ。あなたは覚悟をする時間も与えられなければ拒否権もない。でも全ては神様の思し召しなのよ。私はあなたを羨ましく思うけれど、あなたは光栄だと思う必要はないわ。神様を恨むのも運命に怒るのも、精神は誰にも否定されないたった一つの真実よ」
彼女は片方の手で私の手を支えると、もう片方の手で私の手の甲の小指の付け根をなぞった。
麻薬とは快楽で脳を中毒に貶めるらしいのだが、その気持ちよさとは今のような感覚なのだろうか。いや、もっと可愛らしく年頃の女らしいことを言うのなら、一目ぼれをした男の子とのただ唇が触れるだけのキスをした時の感覚かもしれない。時間の進む感覚が狂って遅くなったり早くなったりしている感覚がしたし、高鳴る鼓動に酔っぱらってしまいそうだった。骨と皮しかない体が更に、まるで幽霊のように、軽くなった気がした。乾燥した肌にも髪にもまるで赤子のように潤いがこもっていく感覚がする。空腹も疲れも、鈍くなってしまった皮膚感覚の奥で悲鳴を上げている痛覚も、全て忘れていた。それらから解放されたような気さえしていた。記憶だって曖昧になれそうだ。
「駄目だよ」
記憶が? 脳みそが? 聴覚が? 私にそう言った。
「駄目だよ、カラ。甘美に酔って大切な物を失ってはいけないわ」
目を開けると私は横たわっていた。私は瞬きをしただけのように感じていたが、どうやら実際は眠ってしまったらしい。気絶と言うのだろうか。わからない。わからないけれど気持ちの良い、質の良い睡眠だったような気がする。ただ、魔女様に手を掴まれたのは数秒前であるようにも感じ、自分がどのくらい眠っていたのかわからない。あの体の軽さや脳みそに注入された快感は煙のように消えてしまい、生ごみのような現実だけがそこに残された。「残念でした。夢見てんじゃねえぞ雑魚」と笑われている気がして恥ずかしかった。
私が起きあがるとすぐ横には魔女様が椅子に使っていた人間が持ってきた物だという物体があった。しかし彼女があたりを見渡してもどこにもいない。
私は顔を近づけて目を凝らし、よくその椅子を見てみた。そして気が付いた。
「学生リュックだ」
高額ではあるが入学時に一般的に子や孫に送られる立方体の箱のような形をしたリュックだ。本来革で作られずっしりと重たいはずなのだが、今は氷のように透明になっていて、おそらくはあの木々達のように中は空洞で酷く脆いのだろう。
いや、でも彼女はこの上に体重をかけて座っていたのだ。私もこの切り株に座っていた。なのにどうして砕け散ったりしなかったのだろう。




