5-9,1つ目の回避
カリン様はピアノを弾いてくださると言う。私のために。「誰の曲が好きかしら」と聞いてくれたけれど私は作曲家1人の名前すら思いつかなかった。私は音楽が好きではなかっただろうか。
「君の一番好きな曲を弾いておやりよ。きっとカラちゃんだって好きになる」
紳士のその言葉を聞いて彼女は深く息を吸うと、白鍵にその細い指を添えた。和音が長く、そして重たく、響く。そして軽やかな短調へ。小指が跳ねる。音が踊ったかと思えば落下する。重厚な低音と伸びては跳ね途切れては刻む高音。美しかった。羨ましかった。音楽を極めることが出来るとはどれだけ素晴らしいことか。好きな時に好きな曲を歌い、それを聞いてくれる人が居る。それはあの時死んだ私の姿と重なった。父様も母様も私の歌声を好きだと良い、自慢だといってくれていた。死んだ者を思い出して、重ねて、それは何の意味もないどころかお嬢様への侮辱になってしまう。
その曲は私の知らない物だった。優雅な薔薇の庭園で間抜けな小人と麗しい妖精が一緒に踊り狂っているような、不思議な曲だった。美しいかと思えば楽し気で一瞬怖くなったかと思えば「嘘だよ」なんて言われているような。それを一番好きな曲とするのはお嬢様の意外な一面を見ることが出来た気がした。いや、そんなことを思うのは生意気だろうか。一緒の空間で呼吸をすることすら罪悪感を感じていなくてはならないというのに。
涙が顎から落っこちた時、私は初めて自分が泣いていたことに気が付いた。両方の目から大粒の涙が次から次へとあふれ出していく。鼻水が出そうだ。喉に痰のある感覚がする。鼻に熱が集まった。
涙は止まらなかった。命をかけてでも一刻も早く泣き止みたかったというのに、普段であれば好きな時に泣いて好きな時に泣き止むことが出来ていたというのに、それで愚かな人間様を満足させていたというのに、抑えようと思えば思うほど私は泣いているのだ。
ピアノの音は止まらない。しかし、時々音が乱れた。いつからだろう。お嬢様はピアノを弾きながら泣いていた。私の涙がうつったのだろうか。やめてくれ。私とカリン様で、体内から同じ液体が出るはずないじゃないか。きっと私は目から尿を流しているし、お嬢様は瞳から水晶を落としているのだ。
紳士が大きな手で私の頭を撫でた。私は先程よりも更に大きな涙を更に多く流した。撫でてもらえたことが嬉しいのか、カリン様を泣かせてしまったことへの罪悪感か、大貴族様の目の前で奴隷が泣いているという惨めさからか。わからない。わからないけれど、もう涙を止めることは出来ず号泣に近い状態だった。
あの豚小屋で一カ月だけ一緒に過ごした狂女のことを思い出した。数年前、私がベッドの上で客の相手をしていると突然隣の部屋から女の叫び声が響き、それはなかなか止まらずやがて金切り声となり、私の客が様子を見に行こうとズボンに足を通し始めたタイミングで銃声が鳴り響いた。その日はもう閉店することとなり、客は全員帰らされた。私や他の奴隷は死体の片づけを命じられた。警察や病院等に連絡などしない。くるくると長い螺旋を作ってむいていた林檎の皮がぶちりと切れたという、ただそれだけのことだ。私達はつい先程まで呼吸をしていた生ごみを、呼吸をしなくなった生ごみとして捨てるだけだ。死んだそれは大人しく従順な子だったと思う。顔には涙の痕がたくさんあった。裸体は血まみれだったけれど当然あざだらけだった。
豚小屋に帰った時、当時おそらく最年長であった奴隷が言った。
「突然泣いたり叫んだりして気が狂ってしまうのは、必ず元々人間だった奴隷なのよね。元人間の奴隷はとても上手だけれど、とても弱いの」
ピアノの音がとうとう止まった。私がついに崩れるように床に膝をつけてしまったからである。私の目の前には車椅子の車輪があった。頑張って腕にも足にも力をいれるのだけれど間抜けにも私の体はだらしなく床に落ちたままだ。必死に謝ろうと思うのだけれど呼吸が乱れ痰が絡み吐き気をもよおし、とぎれとぎれにしか物を言うことが出来ない。
紳士は私に軽く声をかけると私をその腕で抱き上げた。私はそのまま運ばれる。お嬢様は使用人に声をかけていた。
「ホットミルクと角砂糖を」




