5-6,1つ目の回避
紳士と共にベッドのある個室で過ごしたのは10分程だろうか。私は今彼に手を引かれ、マスターとオーナーに見送られ、鎖に繋がれていない身体で外を歩いた。あっという間に出来た水たまりを紳士が避けるように私をエスコートしている様子を見て、水たまりとはよけるものなのだと学んだ。
奴隷の水商売小屋があるのだからこの町は決して栄えてはいない。低収入で苦しむ中生きている大人もクリスマスの贈り物がもらえない子どもも多く暮らしている。しかし鎖はついて居なくとも首輪をつけたままの私がスーツを着こなした紳士の隣を歩くことは目立ってしまう様で、所々で人々が振り返った。
「馬車を待たせているんだ」
紳士が指をさした先には4頭もの馬が引っ張る大層立派な馬車があり、この下層の町で停車させているには現実味がなさ過ぎて逆にハリボテに見えてしまう。
彼に手を添えられ、みすぼらしい私は恥で脳みそをいっぱいにしながら、馬車に乗りこんだ。真面目そうな穏やかな顔をした御者は私のことを長く見つめていたが何も言わなかった。優しく微笑んではくれていたが、何を思っていたかはわからない。
「カラちゃんはどんな服が好きかな。最初に服を贈りたくて」
こんなぼろぼろの女を自らの家族が住む屋敷に招待できないのだろう。
もともと私はお洒落をすることが好きだった。母が編んでくれた三つ編みの髪の毛が好きだったし、黒地に桃色の花びらが舞うワンピースはお気に入りで特別に中の良い友人や大好きな祖母に会う時にしか身に着けたくはなかった。早く大きくなって母のように爪を水色に塗りたかった。
工場の多い田舎町を馬車は走りぬけ、大きな橋を渡り、景色は美しくなっていく。ゴミの落ちていない石畳が、パステルカラーに色づいた煉瓦が、窓からシャンデリアが覗くお洒落な洋菓子屋さんが。人間だけが住む懐かしい世界がそこにはあった。女の子が画用紙を持って走っている様子も見て不覚にも泣いてしまいそうだった。杖をついた老婆が老父と手を繋いで歩いている光景を見て体の力が抜けた。
でも、懐かしさを覆い隠してしまうほどの未知なる世界でもあった。お祭りでもないというのに多くの人が綺麗な服を着ていた。華美な帽子が道行く女性の顔を隠し神秘的な存在にさせた。ガラス張りの店など初めて見た。大量の花に囲まれてコーヒーを飲む人々が居た。そこは花屋なのかカフェなのか私にはわからなかった。
懐かしさは私を余計に不安にさせた。もし私が生まれつき奴隷であったのならば、全く自分の知らない道の世界に来れたと思えるのだろうか。世界が私を捨てたように思えた。文化が私を置いて行ったようにも思えた。転落した私を誰かが笑っている気がする。
「こんな綺麗な世界、お前には似合わないだろう? こんな綺麗な世界、お前は知らないだろう? お前はすっかり奴隷が似合うようになったな」
そう言っている。私が、私に。
馬車が止まった。背中が大きく開いたパープルのドレスを来たマネキンが横を向いて椅子に座っているショーウィンドウのあるお店。建物の周りはランプに照らされた水がキラキラと光って流れ落ちている。髪をシニヨンにまとめた女性店員が背筋を伸ばして入り口の前で立っている。
「安心して大丈夫だよ。数時間かしきりにしてもらえるように頼んであるから、何も怖くないよ。ゆっくりと好きな服を選ぶといい」
紳士はそう言いながら私の手をひき、私を馬車から降ろした。
「カラお嬢様、お待ちしておりました」
女性店員は整った理想的な笑顔で私を迎えた。
私はカラ。私は奴隷だ。肥満男の性器を上目遣いで涙声でねだったこともある。トイレのあと手を洗ってもいなさそうな汚い男の指を口に突っ込まれても、どんな体勢を命じられてもどんな発言を強要されても、ちゃんとこなしてきた。羞恥心の気の音を完全に止めたから出来るのだと思っていた。
でも、私は今日自分は次から次へと恥をかくことになると確信した。
なんだってできると思っていた。これ以上恥ずかしいことなんて何もないと思えることをたくさんしてきた。でも、男に裸体をさらし乱れることのどこが恥ずかしかったのだろうと、訳がわからなくなってしまった。




