16-10,奴隷と子どもはぐっすり眠る
少女は、笑った。その痩せ細った姿に大層似合う儚げな微笑みではなく、口の奥と歯を見せて、瞳の色を隠してしまうほど目を細くして、笑った。語り終えた彼女は何かを待っているのだ。私は自分の右腕がずっしりと重くなっていることに気が付いた。そして自分の首には大量の汗が流れていることにも気が付いた。
小さいけれど筋肉と思考を緊張させるには充分な重量を持つ手斧を私は握っていた。一切の装飾のない役目を全うすることだけを考えた持ち手は以前の使用者の潰れた肉刺によって付着したのか血で汚れている。けれど直視することをどうにも望めない丁寧に磨かれた刃はまるで新品の様で傷も血も錆びも、何もない。見下ろすことの出来ない私を、斧が見上げている。
私の心に罪人を処刑したいという歪はなかった。けれど、期待と責任が空気に眼球を取りつけ私を囲んでいる。たとえば、たとえば。余命数日の幼い少年が事故によって青年の宝物を壊したことを涙ながらに謝罪をする世界を100回遣りなおしたとしても、青年は100回それを許すだろう。多分、私もこの瞬間を100回繰り返しても100回同じことをする。空気が、私の背中を押すのだ。まるで殺さないという選択をすることが非人道的で頭がおかしいような。
彼女は私の瞳を見るとゆっくりと口を閉じ首を垂れた。私に切り裂く場所を教えてくれている。
「処刑人様、どうか悩まないでくださいませ。そして、役目を終えた際に苦しまないでくださいませ。私の魂が肉体から解放されるということは、私の愛する兄が運命から解放されるという意味なのです。目を覚ますことが出来ないのならば、ずっと眠り続け誰を守ることも誰を救うことも出来ぬまま生き続けるくらいならば死んでしまいたい。それが私の願いでございます。私はこの夢を、終わらせたいのです」
胃の中身が喉をゆっくりと上がっている。すすり切れない鼻水が唇の上を通過した。乱れる呼吸を誤魔化そうと目をぎゅっとつぶれば、境界線があやふやになった偽善とか味付けが濃すぎて素材の風味がわからなくなった情とか計算高さを全肯定する思考とか、それらが瞼の裏と同じ温度と同じ色で流れ出した。
私が彼女の首を落としその心臓を止め罪を裁くために斧を振りおろしたその時、私は血液に染まった子ども部屋で目を開けた。足がとんでもなく重い。夢を見ていたという感覚はなかった。どちらかと言えば、眠っている間に脳みそか心臓のどちらかが何者かの手によって体から抉りとられ、こことは違うどこかへと運び出された気がする。
吐き気をもよおすほどに喉が渇いていた。まばたきをしただけで軽く目が回った。しかし、やはり足が重い。
私は目を閉じて、息を整えた。そのうち再び眠ってしまうのではないかと不安になり、時々自らの太ももを引っ掻いた。
夢の記憶が薄れゆく中、夢の中の自身が自らの安全と利益のためであれば心を揺らすことなく易々と人を殺める奴隷でないことに驚き、安心し、願った。あれ。何をだろう。私は今何を願ったのだろう。主のためなら何をぶち殺そうと冷静でいることが理想的な奴隷ではなかっただろうか。へりくだりながらひれ伏しながら常に誰かと自分を嘲笑し、欺きを唇に結わいた忠誠心をたとえ溺死しようと圧死しようと抱きしめ続け、裏切られても捨てられても「どうせ奴隷ですから。そんな運命、とっくに知っていました」と心臓に語らせなくては、人間様になれなかった奴隷が、奴隷の形すら保てなくなってしまう。
私は重たい足を引きずり、子ども部屋を出た。私が処刑した少女の血液で部屋中が染められているように見えて、私にもべっとりと返り血が付着しているように思えて不快だった。
私が水を口に含んだころ、もう夢の内容はほとんど頭に残っていなかった。ただ私が確かに見ていないはずの映像が今頃になって頭にちらつくのだ。あの時私の隣にいたはずの狼が自らの肉体を使って、少女の死を防いだ様子が。
第16話 奴隷と子どもはぐっすり眠る end
少女は、笑った。その痩せ細った姿に大層似合う儚げな微笑みではなく、口の奥と歯を見せて、瞳の色を隠してしまうほど目を細くして、笑った。語り終えた彼女は何かを待っているのだ。私は自分の右腕がずっしりと重くなっていることに気が付いた。そして自分の首には大量の汗が流れていることにも気が付いた。
小さいけれど筋肉と思考を緊張させるには充分な重量を持つ手斧を私は握っていた。一切の装飾のない役目を全うすることだけを考えた持ち手は以前の使用者の潰れた肉刺によって付着したのか血で汚れている。けれど直視することをどうにも望めない丁寧に磨かれた刃はまるで新品の様で傷も血も錆びも、何もない。見下ろすことの出来ない私を、斧が見上げている。
私の心に罪人を処刑したいという歪はなかった。けれど、期待と責任が空気に眼球を取りつけ私を囲んでいる。たとえば、たとえば。余命数日の幼い少年が事故によって青年の宝物を壊したことを涙ながらに謝罪をする世界を100回遣りなおしたとしても、青年は100回それを許すだろう。多分、私もこの瞬間を100回繰り返しても100回同じことをする。空気が、私の背中を押すのだ。まるで殺さないという選択をすることが非人道的で頭がおかしいような。
彼女は私の瞳を見るとゆっくりと口を閉じ首を垂れた。私に切り裂く場所を教えてくれている。
「処刑人様、どうか悩まないでくださいませ。そして、役目を終えた際に苦しまないでくださいませ。私の魂が肉体から解放されるということは、私の愛する兄が運命から解放されるという意味なのです。目を覚ますことが出来ないのならば、ずっと眠り続け誰を守ることも誰を救うことも出来ぬまま生き続けるくらいならば死んでしまいたい。それが私の願いでございます。私はこの夢を、終わらせたいのです」
胃の中身が喉をゆっくりと上がっている。すすり切れない鼻水が唇の上を通過した。乱れる呼吸を誤魔化そうと目をぎゅっとつぶれば、境界線があやふやになった偽善とか味付けが濃すぎて素材の風味がわからなくなった情とか計算高さを全肯定する思考とか、それらが瞼の裏と同じ温度と同じ色で流れ出した。
私が彼女の首を落としその心臓を止め罪を裁くために斧を振りおろしたその時、私は血液に染まった子ども部屋で目を開けた。足がとんでもなく重い。夢を見ていたという感覚はなかった。どちらかと言えば、眠っている間に脳みそか心臓のどちらかが何者かの手によって体から抉りとられ、こことは違うどこかへと運び出された気がする。
吐き気をもよおすほどに喉が渇いていた。まばたきをしただけで軽く目が回った。しかし、やはり足が重い。
私は目を閉じて、息を整えた。そのうち再び眠ってしまうのではないかと不安になり、時々自らの太ももを引っ掻いた。
夢の記憶が薄れゆく中、夢の中の自身が自らの安全と利益のためであれば心を揺らすことなく易々と人を殺める奴隷でないことに驚き、安心し、願った。あれ。何をだろう。私は今何を願ったのだろう。主のためなら何をぶち殺そうと冷静でいることが理想的な奴隷ではなかっただろうか。へりくだりながらひれ伏しながら常に誰かと自分を嘲笑し、欺きを唇に結わいた忠誠心をたとえ溺死しようと圧死しようと抱きしめ続け、裏切られても捨てられても「どうせ奴隷ですから。そんな運命、とっくに知っていました」と心臓に語らせなくては、人間様になれなかった奴隷が、奴隷の形すら保てなくなってしまう。
私は重たい足を引きずり、子ども部屋を出た。私が処刑した少女の血液で部屋中が染められているように見えて、私にもべっとりと返り血が付着しているように思えて不快だった。
私が水を口に含んだころ、もう夢の内容はほとんど頭に残っていなかった。ただ私が確かに見ていないはずの映像が今頃になって頭にちらつくのだ。あの時私の隣にいたはずの狼が自らの肉体を使って、少女の死を防いだ様子が。
第16話 奴隷と子どもはぐっすり眠る end
投稿、遅くてすみません。社会に迎合できない不器用さと自らの不格好を包み隠したい自己顕示欲で、なんだか海に住めないのにたこ焼きにもなれないタコみたいになっていました。鰹節がいっぱいのったたこ焼きが好きです。
ゆっくり、後ろとか横とか見ながら頑張っています。