16-9,奴隷と子どもはぐっすり眠る
あら、あなた様、泣いておられるのですか? どこにそんなに肩を震わせる理由があるのでしょうか。愚かな私には何もわかりませんわ。あなた様の仕事はただ処刑人様のお傍で口を閉じ目を開けて、立っていることだとばかり思っておりましたわ。あなた様は本当はその役職に似合わない心の持ち主なのかもしれませんね。いえ、申し訳ございません。他者を理解など不可能だというのに、不快にさせる言葉を使ってしまいました。どうか私の首を踏みつけてくださいませ。
あぁ、あなた様はそんな目で私を見るのですね。不思議と私も泣きたくなってしまいましたわ。疲れに似たような感覚があるのです。いや、疲れているのかしら。
ルズル家の当主様が慇懃に挨拶を述べると不作で飢餓に泣く村のように寒々しく空気が変わり、私の一世一代の大勝負が終わりました。お客様は大きな足音をたてておかえりになるのです。
窓から華美な馬車が走りだしたことを確認すると私は目を閉じ暴力と罵倒が降り注ぐことを待ちました。しかし、高いヒールが奏でる床の音は遠ざかるのです。そして、ドアが開く音が聞こえ、また閉まる音が聞こえたのです。誰も口を開きません。ピアノを前に立ち尽くした状態のままでいる私はあまりに無様で、いっそのことこの世のものとは思えないほどに醜い物体へと、誰からも嫌悪されてしかるべき存在へと、姿を変えてしまいたかった。人間の姿で、この世に2つと存在しない高価なドレスで身を包み、宝石をぶら下げ、髪から薔薇の香りを振りまくなど、あまりにも、あまりにも、父や母や兄に申し訳なかったのです。
私は生まれ付き貧乏人ですから、社会というものが冷たいことも理不尽であることも知っていました。残念なことに、大人というものを無条件に優しいと感じられるような生活など送ったことはないのです。しかし、子どもに対して大人はそこまで残酷ではないと心のどこかで信じていました。
しかし憎しみを前にして良心を失ってしまえば、子どもも大人も変わらないのです。言葉を訂正します。良心に満ちた方々でも、ゴミに親切にする必要はないのです。
私は大広間でいも虫のように絨毯の上で這いながら泣き叫び、許しを請いました。口の中は血でいっぱいでした。体中が痛くてどこの骨が折れているのかも内臓がどれほど壊れているのかもわかりませんでした。ただ、痛覚と言う機能が肉体に必要なのかどうかがずっとわかりませんでした。嗅覚も聴覚も視覚も全部なくなってしまったら、どれだけ幸せでしょう。それが叶わないのであれば喉を潰してほしかった。それも叶わないのであれば、一秒でも早く息の音を止めてほしかった。
私が手を伸ばしても届かないところに両腕を縛られた兄がいました。私が声をあげる度に兄を取り囲む男達は兄の、
やめましょう。罪無き善良なる皆様が耳にするべき話ではありませんね。惨い世界など、知る必要のない人生を過ごすのですから。
兄の元から大人達が離れた時、私は多分虫の息で笑っていたと思います。だって、嬉しかったんです。ようやく兄が解放されたのかと思ったのです。私の罪が許されたのだと思ったのです。
兄は見るも無残な姿で、私の指があと少しの所で届かない場所で、死んでいました。ピクリとも動かず、胸が呼吸で動いて居る様子もなく、おびただしいほどの血液を流し、骨を、いいえ、失礼しました。何でもありません。
耳の奥で父と母の悲鳴が聞こえるような気がしました。