13-5,謎ぐちゃり、君ぐちゃり。
心の底にその口づけが落ちていくのをすんなりと受け入れてしまったのは唐突のことだったからではなく、私自身がそれを待ち望んでいるかのように不思議と感じたからだ。まるでずっとこの時を夢見ていたかのような。可逆的な彼女が見せた美しさに神秘を感じたからそう思えたのか、それとも深層心理に答えがあるのか。
彼女は20歳は超えているように見えた。私よりもだいぶ大人である美しい女性が私を嫌悪して暴力をふるい、不思議なことに切なそうな儚い表情で口づけをするなんて、体中が甘いガスで満たされてしまいそうだ。私の蜂蜜のように甘い唾液を舐めに犬や猫や蝶や小鳥が寄ってきそうだ。彼女の感情が私と言う存在でいっぱいに満たされ支配されているなんて素敵じゃないか。私の目の中で桃色に着色された流れ星が砕けて弾けて風に揺れて舞い上がり、オレンジの香りをまとって降ってくる。
私はもう出会ったばかり彼女に夢中であった。預言者も、ロンド様も、アルマも、いかなる時も心の中に別誰かがいるのだ。大切な誰かが。けれど彼女は私の元を離れても私を思ってくれるだろう。
彼女は、優しく私の手を離すと憎悪と軽蔑に満ちた顔で今度は私を見た。
「お前なんて、早く死んでしまえ」
そう言った彼女を微塵も恐れていないというような少し強気で賢い表情をして尋ねる。
「あなた様は私を知っていらっしゃるのですか?」
「知っているよ。多分お前よりもお前のことを知っているさ。お前のことを知らなかったら殺したいくらい憎くはならないさ、カラ」
「けれど、あなた様は私を殺すどころか助けてくださいました」
そう言ったとたん、彼女は手を振りかぶると私の額を殴った。今度は力が入っており、私は鈍痛と共に尻もちをついた。体中の骨が揺れる感覚があった上に、一瞬視界が悪くなった。見上げると殺意を抱いた彼女の顔がそこにはあった。
私は再び両膝と両手とおでこを地面につけた。
「不快にさせてしまったのなら謝ります。申し訳ございません。あなた様のことを知りたいなどという贅沢はいいません。あなた様がおっしゃった通り私はカラと申します。けれど、なぜあなたが私のことを知っているかも聞きません。私は生かしてもらえた幸せで充分でございます。この度は命を助けていただき、誠にありがとうございました」
月夜に吠える狼のように気高く私は吠えたつもりだった。その方がこの女性の好みであるような気がした。
しかし、待てども返事も罵声も口づけもなく、私を殴る腕も蹴り飛ばす足も一向に見えてこない。待ちきれなくなって顔を上げると、そこにもう彼女はいなかった。私に謎と高揚感と興奮だけを残し一切の情報を与えないまま、彼女は去ってしまった。戻ってくるはずはないというのに私はしばらく立ちあがらぬまま彼女が再びこちらへ歩いてくるのを待っていた。
しかし、民家の窓から菓子と飲み物を待つ明るく温かい子どもの声が聞こえてきて「手を洗うついでに新聞を持って来てちょうだい」なんて母親が言っていて、私は立ち上がった。
憧れの海は今度見ることにしよう。今日はもう宿に帰ろう。アルマはもう戻っているだろうか。