承
〇猫神社
見える見えないであれだけ騒いでいた崎守だったが、話の場所に選んだのは学校からほど近い小さな神社だった。古びた御社と猫の額ほどの境内、そして狛犬ならぬ狛猫がいた。狛猫がいるなら猫をおいそれと扱うわけにもいかず、偉そうに賽銭箱の上に二匹、売店に一匹ごろごろ転がっていた。
そう言う変わり神使がいるものだから、最近はネットなどで話題になり、大きなカメラを持った若い女性がよくいる。
こういう神社ならなんだか怖いのも薄れるのはわかるかもしれない。
境内のペンキを塗り直したばかりのベンチに二人は座る。
崎守は何を話せばいいのか迷っているらしくしばし俯いていたが、鞄からなにか小さな布袋を取り出すと口を開いた。
「……変だって言わないでよね」
そう言って袋から取り出したのは、にじんだぼろぼろの紙切れだった。擦り切れてぼろぼろだが、元は立派な手すき和紙だったとわかる。
絹子はそれに触れようとして、手を止める。
「もしかして護符?」
その質問にこくりと崎守は頷く。絹子が確認したのを見ると、崎守はさっさと袋の中に入れてしまった。まるで効力が逃げないようにしているようだが、あれだけにじんでいたらそんなもの残っていないだろう。
「私さ、昔、すんごく暗い子だったんだ。なんていうか、いつも誰かに見られているみたいでさ。誰だかわかんないんだけど、それをとても強く感じるとき、いつも怖いめにあってたの」
幼稚園のとき、遠足で近くの山に行ったら、一緒にいた友達が行方不明になった。大人たちが捜索して見つけたのは、木と木の枝の間に首が挟まってぶら下がっていた無残な姿だった。
小学生のときは、体育倉庫で教師の首つり死体を見つける。その翌年に、同級生の首つり自殺を目にする。
どちらも、仕事のストレスやいじめによるもので、崎守自身は関係ない。だけど、こうも続けて首つり死体ばかり発見するのはおかしいと、拝み屋に相談したそうだ。
拝み屋なんて、眉唾ものだが、少なくとも今の崎守を見る限り当たりだったようだ。
「去年の春あたりから少しずつ滲み出して」
それから、また嫌な視線を感じ始めたのだという。
そんな中、首つりではないにしても、それを連想させる蜘蛛男事件があったら嫌になるというものだ。
「また、お札書いてもらったら?」
絹子の言葉に、崎守は首を横に振る。
「元山伏っていうおばあちゃんに書いてもらったけど、一昨年亡くなってるの」
それまで毎年新しいものを書いてもらっていたらしい。
「有効期限切れたのかな、やっぱり」
食材みたい、といおうとして絹子は口を押さえた。うん、言わないほうが無難だろう。
崎守はすがるように絹子を見た。
「あのね、絹ちゃんの地元って、斎さまに着物を献上しているんでしょ、しかも祭事の」
「そうだけど」
斎さまとは、この国で神事を司る偉い人だ。いや、人と扱うと失礼になるらしい、話によると神さまとのことだが、ここではとりあえず人にしておく。
その祭りに着る衣装は、すべて手製でなければならない。材料をとり、それを糸に加工し、織る。それにはさみを入れることなく着物に作り上げるのだ。絹子が村で織姫の役をまだ現役な理由は、その一連の作業を年少の連中ができないからである。
未婚というくくりがあるのも、そういうところが関係しているとかいないとか。下手すれば、後継者ができるまで絹子は独身のままでいろと言われる可能性もあるわけだ。
困ったことに、村の歴史上、そういう哀しき織姫はけっこういるらしい。
「神事に使うなら、かなり御利益あるよね?」
「金運は上がらないと思うけど」
「変なもの追っ払うのがあればいいから!」
変なものを追っ払う。
絹子は首を傾げながら、曖昧に頷く。
「多分、それならあると思うけど、ただ……」
「ただ?」
「タダじゃない」
「……いや値段は気にしないから」
気にしないからといいながら、崎守は財布を覗き込んだ。大きめのお札を見つけると安心して絹子を見る。
「うん、大丈夫、それでいくら?」
「着物なら軽く五百万からかな」
崎守の表情がかたまった。
そうだろう、ちょっと大学生のお小遣いじゃ厳しい額だ。
ぱくぱくと金魚のように口を動かしている。
残念だが、それでも業者価格だ。崎守が欲しがっているのは、斎さまが着るような霊験あらたかなものだ。それを一枚作るために、一年かかる。何より材料もかかる。
しかし、あまりに悲壮な顔のままかたまっていたので、絹子は仕方なく自分の頭に手をやった。後頭部で結わえている髪紐をほどく。ぱさっと黒く長い髪が広がる。
「中古で悪いけど、一応材料は同じものだから」
絹子は髪紐を崎守の手にのせた。
「いいの?」
「うん、まだ使ってないのは明日持ってくるから。今日はそれで」
正直、使いかけのものを渡すのはすごく気がひけたけど、彼女が安心するならそれでいいと思った。
ほどけた髪をとりあえずハンカチで結ぶ。
鰯の頭も信心からというが、とりあえずその頭になれたようでよかったと絹子は思った。
〇夢遊堂
古い薬屋を改造した下宿先は、薬屋の店舗がそのまま残っている。リフォーム代をけちったというより、雰囲気がいいので残したのだろう。柱や床の色合いは、それだけ風情あるものになっている。
広い土間に、上がると柵でくくられた番頭台があり、その後ろに階段を兼ねた薬棚がある。柿渋色に年季が入っており、その棚に座ってシロがさやえんどうの筋を取っていた。中庭に植えていたのでその収穫物だろう。
作務衣を着ているからだろうか、その光景は良く似合っていた。
「おかえり」
「ただいま」
そう言って絹子は、買い物袋をシロに突き出した。
「はい、おつかい。八百屋のおじさん、『美人さんには、みかんおまけだ』だって」
絹子は少し誇らしげに胸をそらしたが、シロの反応は薄い。
「あー、はいはい」
シロはやる気ない相槌を打つと、袋の中身を確認しながら台所へと向かう。
絹子もそれについていく。縮緬の暖簾をくぐると、削りたての鰹節の良い匂いがただよってきた。流し台には泥付のじゃが芋が置いてある。
お肉と糸こんにゃくもメモに書かれていたので、今日は肉じゃがだろうかと、きゅるるっと絹子のお腹が鳴る。
「夕飯食いたかったら、手伝え」
「はいはいはい」
絹子はじゃが芋を水で洗い、それをシロが器用にむいていく。
基本、絹子がやるのは簡単な子どもの手伝いみたいなものだが、それでもしないよりマシらしい。ちなみに、クロは居間でだらだらテレビを見ていて、たまにそっちをシロが見ては、舌うちをしていた。
水は井戸から引いているのでとても冷たい。古びた井戸が中庭にあるが、それはさすがに使わない。ただ、水遊びをするときだけ使う、去年の夏は野菜の水やりと称して散々遊んでしまった。
シロは基本、無口だ。中学生くらいの女の子ってもっとおしゃべりだと思っていたけど、そうじゃないのだ。見た目はボーイッシュだが、中身は硬派だ。ただ、料理中に静かなのは嫌らしく、ラジオをつけている。戦時放送が流れてきそうな骨董品じみたそれはこの家の倉庫に眠っていたらしい。面白いもの好きのクロが器用に直してここに置いている。
たまに雑音が混じるそれを聞いていると、がやがやと声が聞こえてきた。
「帰ってきたな」
シロの呟きに絹子はこくんと頷くだけでじゃぶじゃぶと今度は人参を洗う。
いつの間に入ってきて、いつの間に去っていく同居人たちの名前を絹子は覚えようとは思わないし、意味がないことだろう。向こうも向こうで、絹子たちは眼中に入っていない。
声からして若い女性のようだ。
野菜を洗い終わったら、絹子の仕事は終わりだ。あとは肉じゃがができるのを待つだけだ。
「ちょっと早いけど、風呂入ってこい。わいてるから」
手際よく人参をもみじ型に切りながらシロが言った。
そう言われると、絹子は湯浴みの準備をするしかなかった。
ここの元の持ち主は、けっこう道楽趣味だったようだ。庭には大きな庭石がごろごろしており、元は立派な庭園だったのだといまだに主張している。少なくとも、絹子が去年やってきた頃には、半分畑に変わっていた。
変な大家が入らなければ、宿として開業できただろうに。それだけ立派な家だった。
その庭を眺めるように、風呂がある。半露天のそれは、秋冬に楽しめるように作られているのだろう。もみじと南天が植えられていた。
庭石の向こうにある畑さえ気にしなければ、今でも十分楽しめる。
着替えの下着と浴衣を持って脱衣所を開けると、籠の中に白い着流しが入っている。
脱衣所の向こうに人影が見える。
「早く上がってよー」
絹子は格子の向こうの人物に言った。格子の向こうには暖簾がかかっており、絹子はのぞいているわけじゃないことを弁明しておく。
「今、入ったばかりだ」
低血圧そうな声が返ってくる。この屋敷の主の声だ。一緒に、かぽーんと鹿脅しの音が響いてくる。正直、この周辺に鹿も獅子も猪すらいないのだから、無くてもいいのだけど、そこはファッションだからというより他ない。
引きこもりの大家のことだから、さっきまで部屋でごろごろと寝ていたのだろう。それとも、ちょっとお出かけして疲れたのかもしれない。
絹子はもうお風呂に入ると決めたのだから早く入りたかった。
「なら入るか?」
絹子を挑発するように大家が言った。
「いいの? お湯、温度下げてね」
絹子がそう言って上着に手をかけると、ばしゃんとお湯が飛ぶ音がした。
「……三十分で上がるから、あっち行ってろ」
「五分」
「……十五分だ」
「はいはい」
やたら長風呂なのはどうにかしてもらいたい。
絹子はめんどくさいと思いながら、隣の部屋でごろごろすることにした。
この家にはいっぱい部屋がある。下宿人をいれたとしてもまだまだ余裕だ。絹子も実家から持ってきた機織り機を置いた部屋と寝室の二つを使わせてもらっている。
浴場の隣は、十畳ほどの座敷になっており、部屋のすみに座卓と座布団、そしてパソコンが置いてある。一見、簡素な部屋だが絹子は一直線に押入れを目指す。開けると、中に巻数ごとにきれいに並べられた漫画があった。
散らかっていないところを見ると、シロが片付けてくれたのだろう。本当によくできた子だ、ぶつぶつ文句を言いながら仕事を完了させたに違いない。
巻数をたどって、絹子は見たことがない背表紙を手にする。たぶん、見たことない気がする。
新刊買ったら教えてって言ったのに。
絹子は唇を尖らせて座布団を持ってくると、壁によりかかった。
中身は週刊雑誌に掲載されている少年漫画だ。典型的な冒険ものだけど、それが気楽でいいと思う。ただ、巻数が増えすぎて、どこまで読んだかわからないのが欠点だろう。
何もない故郷で、絹子は昔から機織り以外にやることはなかった。それを見た帰郷した親戚のおにいさんがくれたのが、この漫画の一巻だった。それから十年以上たつがまだ連載していたんだな、と絹子はこの部屋に来て思った。
そんな同年代の子どもがやるようなゲームもできず、携帯電話も持たず、そのまま世捨て人のような生活をしていた絹子も、この一年でだいぶ順応してきたと思う。それでも、パソコンなんてものは使えず、携帯も持たないままで、時折、崎守に呆れられる。
絹子は崎守のことを思い出した。
忘れないように今のうちに準備しておこうかな、と立ち上がった。
すると、部屋に無愛想な男が入ってくる。風呂上りの大家は肌が潤っているというより湿っていると表現したい人物だった。殿方の割に長い髪は水を吸ったまま、ひとつ結びにされている。引きこもりらしく色白で、眼つきだけがやたら鋭い。
二十歳過ぎに見えるが、実年齢は三十路前らしい。着流しなんてものを着こなしていなければ、もっと若く見られるだろう。
そんな顔のためか、それとも本当に臍を曲げているのか、不機嫌そうに絹子の前に立つ。
「上がった」
「見ればわかるけど」
絹子は読みかけの漫画を押入れに戻す。大家は絹子の代わりに座布団に座り、一巻から読み直すようだ。着流しから少し火照ったふくらはぎが見える。
大家は漫画をめくりながら、絹子をじっと見た。
「その髪どうした?」
「髪紐無くなったの」
本当は崎守にあげた。
腰まである髪がばさばさ歩くたびに揺れるのが気に食わないのだろうか、大家は自分の髪紐をほどいて投げた。
「濡れてるからいらない」
「腹立つな、お前」
そう言いつつ、大家はくつろぎモードに入り、座布団に顎をのせて読みはじめた。
そんな格好をされると絹子もなんだかうずうずしてきた。
畳の上にごろんとなって、その背中のくぼみに後頭部をのせた。
「風呂入れよ」
「ちょっと怠ける」
解いた髪が広がっている。大家は忌々しげに身をよじらせたが、絹子はそのままだ。
頸椎にぴったりフィットする感覚がちょうどいい。絹子が動かないとわかると、大家は諦めて読書を続ける。
「髪はちゃんと結んどけ。からまって危ないからな」
そういって一つまみ、髪を指にからませている。
「おかんみたいなことを言わないで、シロちゃんみたいだよ」
「誰がおかんだ、せめて兄ちゃんだろ?」
「いや、大家って末っ子じゃなかったっけ」
兄貴という感じはしない。
「何番目だっけ?」
「九番目だ」
「うわっ、今の時代、レアだよね」
「言うな」
一人っ子の絹子は多少、兄弟というものにあこがれを持つが、持っているほうとしてはそんなにいいものではないらしい。大家は末っ子なのに、こんな物件を持つほどのお金持ちなので、そこのところは複雑なのだろう。
だらだらしていると、ほっこりしたじゃが芋と肉の匂いが漂ってきた。
「てめえら何してる」
おたまを持ったまますごんでいたのは、シロだった。
〇図書館
鰯の頭こと髪紐を渡してから、崎守は調子がよさそうだ。
彼女は多分、敏感なのだろう。いわゆる霊感を持つと言われる人間で、そういう人たちは絹子の実家の常連だった。
細々とあの村が生きながらえている理由がそこにある。でなければあんな家内制手工業で成り立つわけないし、それでも出稼ぎが必要になる時代だ。
絹子にはよくわからないけど、見えるというのは怖いことらしい。
どちらかといえば、どんなものかわからないほうが怖いと絹子は思うのだが、その考えは人それぞれなのだろう。
絹子は定期入れから学生証を取り出すと、図書館のゲートにかざした。ピッと音がなるとともにドアが開く。基本、学生と教員以外は利用禁止区域だ。
手提げ袋にいれた本をカウンターに置く。草木染の本だ。大学近縁の植物で色を試してみたい。
本を借りようか、借るまいか考えていると、元気な足音が近づいてきた。
「絹ちゃん先生!」
どうにも馬鹿にされたような呼び方だった。
「中津屋くん」
中津屋、あのお調子者っぽい崎守の後輩だった。明るい髪に童顔の少年は、片手に数冊本を持っていた。
崎守大好きなこの少年は、めでたく取り巻き二人をつれて絹子の生徒になってくれた。多少、気に食わないことがあっても広く受け止めないといけない。
「先生も何か借りに?」
「返しに来たんだけど」
「じゃあ、ちょっと今から暇ですか?」
ちょっと甲高い声で絹子に笑いかける。八重歯が唇からのぞく。
断る明確な理由が見つからないのでだまっていると、それを肯定としてくれた。
「聞きたいことがあるんですけど!」
中津屋は目をキラキラさせながら言った。
中津屋は文学部で、民俗学に興味があるらしい。正しくは違うらしいが、絹子はそこまで詳しく説明されてもぴんとこないのでただ頷いた。
二人は、六人掛けのテーブルに斜めに向かって座る。
「先生の故郷ってすごく面白いところですよね」
彼の言う面白いは、たぶん好奇心によるものだろう。娯楽の欠片もない場所は観光名所なんてないに等しい。
だからこそ独自に育ち、そしてのこりつづけるものもある。
「織姫の物語を聞かせてくれませんか?」
「物好きだね」
絹子が祭りの主役としてやっている織姫。その祭りの元になったものがある。
「七夕の織姫じゃないんですね」
「うーん、どちらかといえば鶴の恩返しと同じようなものだよ」
細々と祭りがおこなわれる時期にはパンフレットが配られる。中津屋が知っているのは、講師の紹介に故郷のことについて触れられているからだろう。
「まあまあ。先生の口から聞くのがいいんですよ」
「対して変わらないけどなあ」
織姫の起源は、中津屋が言うように七夕のそれから来ているものじゃない。
昔、村人が若い怪我をした娘を助けたことから始まる。娘は、療養中、機を織るようになる。娘の織った反物はとても美しく高く売れた。娘はずっと村にいてもらいたいと懇願され、村人と夫婦になる。
だが、夫婦になってしばらくして旦那は死んでしまう。娘はその時すでに腹に子を宿し、その子どもを産んだが、まったく反物が織れなくなってしまう。業を煮やした他の村人たちが、産後の肥立ちが悪い娘に無理やり織らせようとすると、娘はそのまま衰弱し死んでしまった。
ひどいことをしたと嘆いた村人たちは、生まれた子どもを大事に育てた。そして、いつしか大きくなった娘の子どもは、母と同じように素晴らしい織物を織るようになったという。
「別に、たいして面白くもないでしょ」
「いえ、十分、興味深いですよ」
きらきらした目をしたまま、中津屋が言った。
「そういうのって、基本、異種婚ものが多いじゃないですか? もしかして、それも同じじゃないんですか」
思ったより鋭いなあと絹子は思う。それなのに、なんで崎守に対して小学生みたいな態度をとるのかが本当に面白い。
「じゃあ、なんだと思うの?」
「先生の名前って絹子って言いますよね、それが正解じゃないんですか?」
絹、すなわち蚕といいたいのだろう。
「授業では綿花か羊毛しか使ってませんけど、本来の織物は絹を使いますよね」
物語も娘を蚕の精霊に当てはめるとぴったりくるという。
蚕は成虫になると子を産み、死ぬ。成虫になれば、糸を吐くことはなく機織りはできなくなる。
絹子は苦笑いを浮かべた。
「……そこのところ、あまり深く突っ込まないでよ。織姫ってイメージでかためてるのに、虫って入ると嫌うからさ」
「えー、真実は伝えましょうよー」
あどけない顔をして中津屋が言った。ちょっと気が抜けた雰囲気で、積み重ねた本を枕にする。そのまま眠りそうな勢いだ。
「なんかおつかれ?」
なんとなく絹子は聞いてみた。
その言葉を聞いて、中津屋がびくんっと動く。そのばね仕掛けのような動きに、思わず絹子はのけぞった。
「あっ、そういえば。あれ、ちょっと調べてみたんですけど」
「あれって?」
「『おつかれさんです、ごくろうさま』ってやつですよ」
「ああ、あれか」
崎守を怒らせた話だ。
物好きにも調べていたらしい。
「それがですね、あれって、迷信っていうより都市伝説に近いものみたいなんですよ」
どこからともなく崎守はタブレット端末をとりだした。指先を器用に滑らせて、画面を絹子に見せる。
「なんか十年くらい前から、それっぽいのがあるみたいですね。それより前もあったかもしれないけど、増えたのはその頃くらいからでしょうね」
絹子は目を細める。前に見た『蜘蛛男事件』が書かれたところとは別のサイトだ。あまり精密機械は得意ではないので、なんだか見づらい。元々、そういう視力が弱いのもある。
「変だと思いません? 『お疲れさん』で『ご苦労さま』ってのは」
「たしかに変だよね」
「ええ、意味が重複します。あと『お疲れ』と『ご苦労』ではちょっと話しかける相手が違うことになるんです」
腐っても人文学部というところだろうか。絹子が気にしなかったところをついてきた。
「いろいろ解釈が違う場合もありますけど、普通は『お疲れ』は誰にでも使えるねぎらいの言葉で、『ご苦労』は目上から下の者にかける言葉ですから。どうも変ですよ」
「別に、そう言うのって意味があってないようなものじゃないかな」
絹子としては、少しお腹がすいてきた。早く重箱弁当に手をつけたいところだ。今日はおくらと長芋の和え物が楽しみだ。おかかとポン酢であっさりしている。ねばねばと芋の歯ごたえがたまらない。
和え物に続いて焼き鮭と海老天に思いをはせ、ついでと言わんばかりに夕飯は鳥肉が食べたいなあと考えながら、相槌を打っていた。
「……先生って、けっこう穏やかそうに見えて人には興味ないですよね」
冷めた視線で絹子は、口の端の涎を拭きながら真顔になる。
「そんなことないけど。先生はちゃんと中津屋くんのことだって、気にかけてますし、優しいですよ!」
「今更いうんですか、それ」
呆れた顔の少年に、絹子は唇を尖らせる。
「……もう、そんなに言うんなら、いいこと教えてあげる」
「なんですかー」
完全に舐めかかった言い方に絹子はふんと鼻を鳴らす。
「その言葉、本当にもう無理だってときだけ使うといいよ」
「はっ?」
間抜けな声をあげる中津屋を後目に、絹子は図書館を出ることにした。早くいとしい重箱の中身に会いたくて仕方なかった。