僕がここにいて、君がそこにいたから ④ [イザーナ]
「起きろ! 外に逃げるぞッ――!」
眠りについていた私の意識を覚醒させたのは、女性騎士の必死な叫び声だった。
ただならぬ気配に飛び起きようとしたとき、それよりも早く、私の身体は誰かに抱えあげられた。
豊かな胸に顔を押し付けられる。相手は、女性騎士だった。
彼女は私が状況を理解できないでいるうちに、こちらの身体を抱き上げたまま扉を蹴破って外へと飛び出す。
そして。
「伏せろ!」
彼女が叫んで地面に倒れ込んだのと、ほぼ同時だった。
私達の背後で、轟音と熱と光が生まれた。
伏せた甲斐もなく、身体が宙を飛ぶ。世界がぐるぐると回転する。
耳に聞こえるのは、大気をつんざく爆発音。
肌に感じるのは、私を抱えた騎士ごと吹き飛ばす熱風。
目に映るのは、夜の闇を暴き立てる炎の赤。
どれぐらいの時間を浮遊していたのか、やがて強い衝撃とともに、私達は地面の上に叩きつけられた。
一度、二度、大きく跳ねて、転がっていく。
そのような状態にあって、衝撃こそ伝わってくるものの、私自身に痛みなどはなかった。
――彼女が、必死に私のことを庇ってくれていたのだと知るのは、もっとずっとあとのことだった。このときの私は、ただわけがわからぬまま、状況に流されることしかできなかった。
「ぐっ……ク!」
やがて勢いが弱まり、回転していた身体が止まると、騎士は私を抱えたままよろよろと身を起こした。
彼女にとっても突然のことだったのか、その姿は床についたままの格好だ。
鎧をまとっておらず、帷子だけを着込んでいる。
「いったい、なにが」
あたりの様子を窺うために顔を上げた騎士は、しかしすぐにその身体を強張らせた。
私もまた、彼女の胸の中からそれを目にした。
「あ……ア……ああ……!」
私の喉から、知らず、うめきが漏れる。
――村が、燃えていた。
先ほどまで私達がいたアベルの家だけではない。
村のあちこちで炎が天高く燃え上がり、夜の闇を赫々と照らし出していたのだ。
あたりには、私達と同じように家を飛び出してきたのか、地面にへたり込む村人や騎士の姿が見える。
そんな彼らが例外なく呆然とした顔を向けているのは、村の中央。
炎の災禍の中心に、『それ』はそびえ立っていた。
村の家々よりはるかに大きな影。巨体。
直立した蜥蜴を、より凶暴にしたような体躯。
突き出た頭の両側からは歪に捻くれた角が天へと伸び、無機質な眼は縦にうっすらと割れており、その口には鋭い牙が隙間なくぎっしりと生え揃っている。
手足には人など簡単に切り裂いてしまえるだろう長く鋭利な爪があり、臀部からは、人の胴より一回りも二回りも太く重量感のある尾が生えている。
そしてその背中には、空の全てを覆ってしまえそうなほど大きく、広い一対の翼。
竜であった。
このような人里に姿を現すことなどまずありえない、生物のひとつの頂点。
人が近寄ることもできない山脈奥深くにしか、生息しないはずの存在。
「竜――などではない。あれは、あれは、まさか」
女性騎士の声には、隠しきれない慄きがあった。
その気持ちは、私にもわかった。
この世界に生きる人間の、魂に刻みつけられた根源的な恐怖。
それが、私の身体もまた震わせていたからだ。
現代に生きる誰もがそれを知っている。
なのに、誰ひとりとして本物を目にしたことはなかった。
けれど、ひと目見れば、わかる。強制的に、理解させられる。
あれは、私達の敵だ。
人を滅ぼそうとする、絶対的な敵性存在。
あってはならない、もの。
――夜の闇よりなお濃い、靄のような暗黒に包まれたそいつは。
「魔なるもの……!」
そう、呼ばれていた。
女性騎士の言葉に応えるかのように、それは――魔物は、天へと咆哮を上げる。
《――――――!!》
空気が、びりびりと震えた。
人では決してありえぬ、獣とも思えぬ、背筋がゾッとするほどに恐ろしげな叫び。
全身に鳥肌が立ち、身体が、心が竦み上がる。
「早すぎる……! あまりにも、早すぎる!」
その音に負けじと、叫ぶような声がすぐそばで聞こえた。
アベルだった。
必死の形相を魔物に向ける彼の隣には副隊長騎士の姿もあり、ふたりはいつの間にか私達の近くに立っていた。
どうやら、彼らも無事に逃げ出せていたらしい。
見るかぎりその姿に怪我を負っている様子はなく、私は内心で安堵する。
ただ騎士の腕には、このような状況だというのに中から持ち出してきたらしい荷が抱えられており、それだけがなんとも奇妙に思えた。
「隊長、ここにこいつがいるってことは」
「だが、我々が王都を発ったときは、いまだそのような兆しはなかったはずだ!」
焦燥に満ちた副隊長騎士の言葉に、女性騎士は首を振って答えるが、
「しかしあれは紛れもなく魔物です! そして魔物が世に姿を現したということは……!」
魔物を指差すアベルの言葉に、その表情が大きく歪んだ。
私にも、その言葉の続きはわかった。
魔物は自然に生まれるわけではないのだから。
それを生み出すことができる世界で唯一の存在は――私達人類から魔王と呼ばれている。
「だが奴等が現れるにしても、なぜこんな辺境に……!? 魔王領からは遠く離れているのだぞ!」
「隊長、まさかとは思いますが……王都は、すでに」
騎士の言葉を聞いて、女性騎士の顔に信じたくないという表情が浮かんだ。
なにかを言い返そうと口を開く――よりも前に、状況が変化した。
魔物の咆哮が途絶えたのだ。
魔物は地響きのような唸り声を漏らしながら、なにかを探すようにあたりに首をめぐらせる。
それを、私達や他の村人、騎士達はただ呆然と見上げているしかできなかった。
村の人間だけでなく、戦うための訓練を受けているはずの騎士達も、魔物の発する強烈な気配に完全に呑まれていたのだ。
ひどく緊張した時間が流れ――やがて、それは終わりを迎える。
《――――――》
魔物の邪眼が捉えたのは、私達だった。
いや、正確に言うならば、その中のひとり――副隊長騎士。
「まさか、奴の狙いは!」
女性騎士の視線が、彼が抱えた細長い木箱に向けられる。
同時。
再び、魔物が咆哮した。
その口の中で真っ赤な炎が膨れ上がるのが見える。
「いかん! 散れェッ――!」
女性騎士の叫び。
彼女は私を抱えて弾かれたように駆け出し、アベルの首根っこを摑んだ副隊長騎士がそれとは逆方向に走りだしていた。
そして次の瞬間、先ほどまで私達がいた場所へと一抱えもある火球が着弾した。
轟音、爆風、灼熱。
夜の闇に、赤い花が咲く。
「不味い……! 不味い不味い不味いぞ!」
また私達の身体は吹き飛ばされるが、今度は騎士がうまく空中でバランスをとり、危なげなく足から地面に着地する。
それでも、村からはやや離れた位置まで飛ばされてしまっていた。
「魔物め、どうやって嗅ぎつけた! アレを奪われてしまえば、我々は……!」
彼女の口から漏れる声には、焦りの色が濃くにじんでいた。
その顔も、焦燥というよりはほとんど絶望と言ってもよい色に染まっている。
彼女の目が、咆哮を上げながら次々に火球を打ち出す魔物と、それから逃げ惑う副隊長騎士の姿を追う。
アベルは、その背中に負われていた。森の獣のように身軽に飛び跳ねる騎士の首に、離れまいと必死に抱きついている。
アベルを背負いながら、一方で騎士はいまだ腕にあの木箱を抱えていた。その状態で火球を避けながら、彼は徐々に人気のないところへ――村から離れようとしている。
自分が狙われていることを知って、他の者から危険を遠ざけようとしているのだろう。信じられないほどの身体能力と精神力だった。
その姿を見ていた彼女の唇が、強く噛み締められた。揺れていた瞳がぴたりと定まり、その内に決意が満ちていく。
抱えていた私の身体を、彼女はそっと地面に下ろした。
「……あ」
人の温もりがなくなってしまったことに、私は強い頼りなさを感じた。
反射的に、彼女の裾を摑んでしまう。
「すまんな……私は、ゆかねばならん」
私はそのとき、どんな顔をしていたのだろうか。
苦笑した彼女は私の頭を一度撫でると、裾を握りしめていた手をゆっくりと外させる。
「ここで大人しくしておくか、でなければ、魔物の向かう先とは逆に逃げるといい。運がよければ、それで助かるだろう」
そう告げて、彼女は私を置いて歩いていく。
手を伸ばすも、私の手が、その身に届くことはない。
「なにをやっているか貴様らァ!!」
しっかりと地を踏みしめて立つ彼女は、魔物の咆哮にも劣らぬ大音量の声をあたりに響き渡らせた。
射殺すような眼差しが、いまだ忘我の顔で座り込んでいる騎士達に向けられる。
「それでも我が国の騎士か! 我が部下か! なにを腑抜けている!」
声の主に視線が集中する。
彼女の雄々しい姿を目にして、その苛烈な眼差しで見返され、騎士達の顔がハッとしたものになった。
その眼に、意思の力が戻っていく。
「総員、起立ッ!!」
彼女の号令に、騎士達が一斉にその場で立ち上がった。
「我々は! 国を、民を守るために騎士となったそのときより! 一振りの剣である!」
雷に打たれたように直立する彼らの瞳に、意志が満ちていく。
「我々の心には、常にそれがある! いつ何時でも、それが失われることは決してない! たとえこの手に振るわれるべき武器がなくとも!」
彼女の手の平が、自身の胸の上に叩きつけられる。
「この心に、始まりの剣がおさめられているのだから!」
そして、彼女の腕が天に向かって突き上げられ――
「総員、抜剣――――!!」
振り下ろされた。
刹那。
彼らの全身にまとう気配が、一変した。
唯人から、騎士へ。
真っ直ぐで、硬くて、決して折れぬ刃金へと、転じる。
たとえその手に剣を持っていなかったとしても、彼らは真実、己の内におさめていたものを解き放ったのだ。
「我々が持ち帰ったものを、決して敵に奪われてはならん! 副隊長を援護するぞ! 魔術騎士は奴との距離を保ちつつ炎に限定して術を放て! 幸い森に逃げ込んだ副隊長を追って奴も村を離れつつある、周囲のことは気にするな! 最悪森を全て焼いても構わん!」
その言葉に、村人のひとりがなにか言いたげな顔をするが、ぐっとそれを飲みこんだようだった。
副隊長騎士がそちらに移動したのは、これ以上の村への被害を抑えるためなのだ。
文句を口にできるはずもなかった。
「いいか、奴が火球を放つ瞬間が狙い目だ! おそらくはあれも魔術の一種であるはずだ。であるならば、その制御を乱せば自滅を誘える! 魔術騎士以外は、崩壊した家から己の武器を回収しろ! 時間が掛かりそうであれば、これを使え! 鈍らだがないよりはマシだ!」
次々に指示を出していく女性騎士は、そこで言葉を区切ると、一度視界を閉ざす。
そして、
「《其は鋼、其は刃金、其は我らの在り方そのもの。ゆえに、我が言葉、我が意志にて、ここに仮初の形を写し出せ――原型顕現》」
力ある言葉が唱えられはじめると、彼女の周囲にいくつもの光の球が生まれた。
光球は細長い形をとると、瞬く間に人の腕ほどの長さまで伸びる。そして彼女の言葉が終わると、地面に突き刺さって、その輝きを失った。
なにもない空間から現出したのは、何本もの鈍色の剣――を形どった金属の固まりだった。
それがおよそ剣と呼べるものではないこと、ただ粗金属を似たような形にしただけのものであることは、素人目にもわかった。
彼女が口にしたとおり、間に合わせの代物なのだろう。
彼女は、チラリと崩壊したアベルの家に目をやってから、自分もそのうちの一本を手にした。
「ではゆくぞ! 前衛の役割は、後衛が魔術を放つための時間稼ぎと考えろ! 主体はあくまで魔術でいく!」
剣を振り上げた彼女を、騎士が、村人が、この場にいる全ての人間が見ていた。
それを見返して、彼女は、高らかに叫ぶ。
「この一戦で、世界の行く末が決まると思え!」
騎士達が応じるように一斉に、叫びを返して。
「真実、これより行うは、世界を救うための戦いである――総員突貫!!」
彼らは、森に足を踏み入れようとしていた魔物の背へ、殺到したのだった。