僕がここにいて、君がそこにいたから ② [イザーナ]
勢いよく立ち上がったふたりの騎士は、剣呑な目つきでアベルを見下ろしていた。
「子供、何を知っている」
底冷えのする声でそう言った女性騎士は、彼から視線を外さないまま腰に手をやり、そこに摑むものがないことを思い出すと、小さく舌打ちした。
視線が一瞬、鎧と一緒にまとめられている剣に向けられ、すぐに彼へ戻る。
「動くなよ。たとえ剣がなくとも、お前たちのような子供を縊ることなど造作もない。――おい」
「了解です」
女性騎士の合図に、副隊長騎士が、やはり私達から視線をはずさないままゆっくりとした動きで部屋の隅まで移動する。
腰を浮かせたまま屈み、ふた振りの剣の一方を手に取ると、もうひとつを女性騎士に向かって放り投げた。
見もせずにそれを摑んだ彼女は、腰に構え、その柄に手を掛ける。
「さて。改めて問おう」
女性騎士は、温かみのない眼差しで彼を見下ろして、言う。
「あれの中身を、知っているのか?」
「…………」
アベルは、すぐには答えなかった。一連の動きの中でも全く動じることなく座っていた彼は、顔を強張らせ、なにかを探るような目で女性騎士を見上げている。
一方で、私は完全に放心していた。
わけが、わからなかったのだ。
あまりにも突然の場の変化に心がついていかず、思考を放棄して、ただ傍観していることしかできなかった。
「その反応……やはり、見つけたのですね」
やがて、アベルはなにかの確信を得たようにそう言った。その顔には、隠しようもない苦渋の色が滲んでいる。
或いは、それは焦燥と言ってもよかったかもしれない。
強く唇を噛み締めて俯く彼が「まさか、どうして、こんなにも早く……」と呟くのが、すぐそばにいた私にだけは聞こえていた。
「質問に答えろ! どうしてあれの中身を知っている!」
まるで女性騎士のことなど目に入っていないかのような態度に、彼女は声を荒らげた。
今にも剣を抜いてしまいそうな彼女の勢いに、私の口から小さな悲鳴が漏れる。
その声で我に返ったのか、ハッと顔を上げたアベルは、無理矢理感情を押し込めるようにして表情を引き締めた。
完全に焦りの色をなくすことはできていなかったけれど、それでも決然とした面差しで騎士を見上げる。
そして、言い放った。
「畏れ多くも、天より御言葉を賜りましたがゆえ」
アベルの言葉に、ふたりの騎士は顔色を変えた。
女性騎士はまさか、という目で彼を見下ろす。
「私が『こう』であることも、この村の者から特別に扱われていますのも――そして、騎士様方が果ての地より持ち帰られた天の恩寵を知るのも、神よりの御計らいがあればこそ」
「……それは、誠か?」
「天に坐す我らが神に誓いまして」
堂々と告げる彼に対して、女性騎士はどういった態度を取ればよいのか判じかねたようだった。
しばし逡巡したのち剣呑な気はおさめたが、警戒はそのままに彼からやや距離をとった位置に膝をつく。
「先のことは失礼した。だが我らも国の行く末を左右するであろう、極めて重大な命を受けた身。おいそれとその言を信じ、秘すべきものを明かすわけにもいかん。どうか、その証を示していただきたい」
女性騎士の言葉に、彼は頷いた。
腰を浮かせその場で片膝を立てると、両手を祈りの形に組み、天に頭を垂れる。
そっと、その瞼が下ろされると、途端に、家の中に流れる空気の質が変わった。
はっきりとわかるほどにピンと張り詰め、彼を中心に厳かな気が立ち込める。
女性騎士が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
そして、彼は聖句を唱える。
「我ら現し世の民が、此の世全ての始まりであられます御神に御願い奉る。此処に、その御業たる奇跡を顕し給え。我が祈りに、応え給え。光あれ、命あれ、言葉あれ。我ら現し世に、どうか、その奇跡を――《これは神の御業である》」
声の終わりとともに、光があふれた。
天から降ってくるのではなく、跪く彼の、組まれた両手を中心として輝きがあふれ、部屋の中に広がっていく。
これまでに彼が幾度か村人に見せた、誰かを癒やすときのものとは異なる光景。
天空より降り立つ光柱は一切の穢れなき真白な光彩だが、いま彼から発せられる光はもっとやわらかく、温かみがあり、幻想的だった。
「――――」
誰もが、その冒し難い清浄な輝きに見入る。
光は忘我の境に入る私達を透過し、部屋いっぱいまで広がると、やがて空気に溶けるようにして消えていった。
それに、如何なる効果があったのか。
目に見える顕著な変化はなかった。
だがなんの意味もなかったのかといえば、否である。
ふたりの騎士の顔つきと、なによりも私自身の内面に起こったことを思えば、明らかだった。
目の前で急激に流転する事態に混乱の極みにあった私の心は、光に触れたことにより、嘘のように落ち着きを取り戻していたのだ。
それはふたりの騎士も同様だったらしく、表情やまとう気配からは先程までの敵意や警戒といった感情が消え失せていた。
「お見受けするところ、肉身に大きな不都合はないご様子。なれば、そのお心を鎮めさせていただきました」
そう言って軽く頭を下げるアベルに、女性騎士は頷いた。
「たしかに、これなるは天の御業、あらたかなる奇跡。紛れもなく神業の代行たる《神秘》であるとお見受けしました」
剣より手を放した女性騎士は、それを横にして目の前の床に置くと、彼へ向けて差し出すように押しやる。
そうして剣はそのままに自分だけは後ろに退ると、木箱を守っていた騎士へと目配せした。
それを受けた副隊長騎士は、引き締めた顔つきのままに女性騎士のもとまで素早く移動すると、彼女と同じく剣を差し出し、その隣で跪いた。
「知らぬこととはいえ、先程は失礼致しました。数々のご無礼、どうかお許いただきたい」
女性騎士がそう告げるなり、ふたりは威儀を正し、頭を垂れた。
そこに、平民に対する上位者としての威は存在していなかった。
むしろ、より尊貴たる者への敬意に満ち満ちており、そのことに彼ら自身は一切の疑問を抱いていない。
騎士達が突然態度を変えたことに、またもや私の意識は乱れていく。
理解が追いつかない。
「どうか騎士様、頭をお上げ下さい。私も不躾にすぎました。あなた方はその身に負った重任に忠実であろうとしたに過ぎません。正しくあった者が頭を下げる理由など、どこにありましょうか」
「……は。そう仰っていただければ、幸いに存じます」
アベルの場を取りなす言葉に、女性騎士は顔をあげる。
そして改めて彼の姿を目に映すと、なんとも言い難い表情を作った。
「かような地で奇跡代行者たる御方にお会いするとは、思ってもおりませんでした。それも、これほどにお若くあられるとは」
「…………」
「しかしそのお力も、立ち居振る舞いも、まさしく我らが神の聖徒たるに相応しい。……察しますに、御身はいまだ神殿に見いだされておられない、新たにお生まれになった《聖人》なのではありませんか?」
女性騎士の言葉に、少しの沈黙を挟んでから、アベルは頷いた。
その顔には、隠しきれない苦々しさが浮かんでいた。
「おふたりとも、どうかそのように畏まらないでください」
アベルは、謹んだ態度を崩さない騎士に、そう声を掛けた。
「たしかに私は天より恩寵を授かった身ではございますが、生まれも育ちもこの村なれば、王都に参ったこともございません。あなたが仰ったように、神殿に正式に認められた身ではないのです。少しばかり賢しいだけの平民でありますれば、どうぞ、そのように扱いください」
「しかし」
「いまだ若輩の身なれば、私には相応しからぬと存じまする。どうか、伏してお願い申し上げます」
女性騎士は迷う様子を見せていたが、重ねて彼から頭を下げて言われると、大きく息を吐いて「……わかった」と頷いた。
肩から力を抜いて、態度を崩す。
副隊長騎士もやれやれといった様子で肩をすくめると、足を崩して、いささか行儀悪く座り込んだ。
その様を横目に見た女性騎士は眉を顰めたが、結局はなにも言わずに溜め息を吐くと、自分もアベルと向き合うようにして床に座った。
ここに至って、ようやく場に張り詰めていた空気が和らぐのを感じて、私は小さく息を吐く。
そんな私と泰然として構える彼を見やって、副隊長騎士が苦笑する。
「しかし坊主、その物言いといい、振る舞いといい、他より少しばかり賢いだけと言い張るのは無理があるんじゃないのか?」
「それは」
「この村を悪く言うつもりはないんだが、さっきも言ったように、こんな辺境の小さな村で生まれ育ったにしては、お前さんは出来すぎているんだよ。たとえ《聖人》とて、それに見合った教育を受けなけりゃ、それらしく振る舞うことなんてできないんだ。だが、村人の全てを確認したわけじゃないが、ここにそういった教育ができる人間がいるようには、とても見えない」
その言葉に、女性騎士も同意するように頷く。
「そこのところ、どうなんだ嬢ちゃん?」
「えっ」
副隊長騎士から突然話を振られて、私は驚く。
「この村に、坊主をこんな風に教育した人間なんてのはいるのか?」
「えっと、その……難しいことは、わかりませんけど」
そこまで口にしてから、その先を続けてもいいのか不安になって、ちらりとアベルを見上げる。
視線が合うと、彼は苦笑して頷いた。
ほっとして、言葉を続ける。
「アベルは、私と同い年ですけど、昔からこんなふうだったんです。むしろ、村の大人たちの方が教えられることがあるぐらいで……。みんなは、アベルが『特別』だからって。奇跡を使えるようになってからは、やっぱりアベルは『特別』だったんだって納得して……」
ぎゅっと唇を噛みしめる。
そうやって彼を祀り上げて。
両親さえも離れていって。
彼は、ひとりになってしまったのだ。
一度は、私だって、そうしてしまった。
でも、それがまちがいであると気づいたのだ。
彼の傷ついた顔を、今でもはっきりと覚えている。
だから私は、彼にそんな顔をさせたくなくて、ひとりにさせたくなくて、ずっと一緒に――。
ぽん、と頭の上にあたたかい手の平を感じて、俯いていた顔をあげる。
彼が、いつものように微笑んで、私を見ていた。
あたたかい、笑み。
じわりと、胸の中に熱が広がって、頬にまで達する。
「なるほど、な」
女性騎士の言葉に、彼は視線を戻す。
私もそれを追って、彼女に顔を向けた。
女性騎士は、引き締めた顔つきで彼を見ていた。
「あれの中身を察したことも含めて、それらすべてが神の御計らいであり、恩寵であるとお前は言ったな」
「……はい」
「そのように深き恩寵を授かるなど、並ではない」
彼の目を真っ直ぐに見つめて、はっきりと、女性騎士は言う。
「《聖人》と認められた方々の中にあってもなお、その恩寵の深さは群を抜いている」
どくり、と私は、自分の心臓が強く脈打つのを感じた。
「殊に、神の最大の慈悲たる聖寵の存在を察知するなど、それは或いは、神殿の頂点に座する御方にまで届き得る」
崩したはずの態度はそのままっただけれども、そう告げる女性騎士の眼には、隠しようもない畏敬が浮かんでいて。
私の身体が、ぶるりと震える。
「――その身は、真に『特別』であるのだろう」
彼女の言葉に、私は、意識がくらりと揺らぐのを感じた。
理解、する。
細かい話がわからずとも、理屈を知らずとも、このやり取りのもっとも重要な部分を、実感する。
彼はやはり『特別』で、それはこの村どころか国においても『特別』で。
あまりにも、『特別』に過ぎたのだと。
遠い、と思った。
ずっと一緒にいると言ったのに、こんなにも近くにいるのに、アベルと私の距離は想像もできないほどに離れてしまっているのだ。
私が一緒にいたいと願ったところで、周囲がそれを許してくれるのだろうか。
彼は立派な騎士様でさえも畏れる存在で、私は辺境の村の、どこにでもいるただの子供でしかないのだ。
どうすればその距離を縮めることができるのかがわからず、このときの私は、ただ彼の袖口に手をのばして、それを握ることしかできなかった。
それに気づいた彼は、表情を和らげて、安心させるように微笑みを向けてくれたけれども。
私の心は、ちっとも安らいではくれなかった。
この不安な気持ちをなくすことなんて、きっと彼の起こす奇跡でも無理にちがいないと、私は思ったのだ。