二節 僕がここにいて、君がそこにいたから ① [イザーナ]
かつて、世界には魔王という、魔物を生み出し、世を荒らす存在がいた。
人々は武器を手に立ち上がるも、魔物も、その主たる魔王にも傷ひとつつけることは敵わなかった。
その身を覆う邪なる《瘴気》が、人間のあらゆる攻撃を弾き、無効化したからだ。
その拳も、刃も――強大な威力を誇る魔術さえも、その全てが魔なるものどもの前では全く意味をなさなかった。
抗うすべをなにも持たなかった人間は、理不尽にばら撒かれる死に怯え、逃げて、隠れて、その身を震わせることしかできなかった。
恐怖と絶望と苦痛に満ちた世界。
いまだ真の奇跡を知らぬ盲の民であった人間は、縋るものも祈るものもなく、ただ広大な蒼天へとその恨みつらみをぶつけるしかなかった。
なぜなら、天とはいつでもそこにあったからだ。
どれだけ人が苦難を負おうと、理不尽に苛まれようと、なにをするでもなくただ見下ろすだけの不変のもの。
そこに人々は、絶対的なものを感じ取ったのかもしれない。ゆえに、そのなにかへ向かって心情を吐き出し、ぶつけたのだ。
やがてその慨嘆は、叫びとなり、涙となった。
それでも天はなにも応えなかった。
そのうちに、人々の声は枯れた。
それでも、天は応えなかった。
涙もまた枯れ果てた。
それでも、やはり天は応えなかった。
恐怖と絶望と苦痛と――諦念の満ちた世界。
そこに、ひとりの人間がいた。
襤褸切れをまとい、泥と血にまみれた幼子である。
親を失くし、頼るものもなく、魔物から逃げるために道なき道を歩き続けた、いまだ物の道理も理解できないほどに幼い子供であった。
疲労とひもじさが限界に達し、ふらついた子供は足をもつれさせ、地に膝をついた。
もはや頭を上げる気力もなく、項垂れたままの子は、朦朧とした意識の中、幻を見る。
地中に食料が埋まっているという幻だ。
それを現実と思い込んだ子は、近くに転がっていた石を両手で握りしめると、最後の力を振り絞り土を掘り返した。
だが幻は幻でしかない。
どれほど掘ったところで子の望むものが現れることはなかった。
やがて力尽きた子の手から石が落ち、その両手は何を掴むこともなく、空を握りしめる。
最後の力を使い果たし、いまにもその命が尽きようとしていた子は、
地に跪き、頭を垂れ、両手を組み合わせるように握りしめた子は、
いつも変わらぬままそこにある天へ、声なき声を放った。
――た、す、け、て、く、だ、さ、い。
天は、応えた。
それが、この世界における初めての祈り。
人間が、正しき手順によって天へ――神へと捧げた原初の祈り。
天より降りた光に包まれ、幼子は命を永らえた。
神の威光のうちで、子は神の存在、その奇跡をついに知る。
そして同時に、神から奇跡を代行する御言葉と、一振りの刃を授かった。
それは、魔なるものを退ける唯一の術――聖なる剣だった。
だが子は、奇跡の代行者ではあっても、聖剣の担い手ではなかった。
聖剣を振るうことができるのは、選ばれし者のみ。
ゆえに、子は世界を旅して、その担い手を求めることにした。
癒しの奇跡を施し、神の存在を説き、祈りを教え、人々の導き手として大勢を率いながら、やがて子は希望を見つける。
聖剣の担い手――勇者を、ついに得たのだ。
そこから、人類は魔なるものどもへ攻勢に転じる。
勇者が握る聖剣が発する輝光は《瘴気》を消し去り、魔なるものへ人の刃を届かせることを可能としたのだ。
勇者と子に率いられた人々は、長い戦いの果てについに魔王を追い詰め、これを打倒する。
魔王が討たれるのと時を同じくして、全ての魔物もまた死に絶えた。
人間は、ようやく魔なるものどもの脅威から解放されたのだ。
世界に、平和が訪れた。
人々は歓喜して、その平穏を享受し、謳歌した。
しかし、その平和も永遠ではなかった。
世代が幾つも変わり、復興が繁栄へ至り、魔なるものどもの記憶が人々の間から薄れつつあった頃――魔王が蘇ったのだ。
再び魔物が世界に溢れ、世は乱れる。
しかし魔王が現れれば、勇者もまた現れる。
それが神の定めた世界の摂理だった。
神より人々の手に再び聖剣が授けられ、聖剣は新たな担い手を選び、担い手は勇者として人類の希望となり、戦いの果てに魔王を打ち倒す。
そしてまた、長い平和が訪れ――やがて人々が忘れた頃に、魔王は復活する。
その、繰り返し。
それがこの世界の歴史だった。
寝物語に、誰もが親からそれを聞かされて育つ。
勇者のそれは冒険譚として語られ、もう一方は子供を脅かし、しつけるための恐怖の象徴として。
だからそれは半ばおとぎ話のようなもの、現実味のない物語として、辺境の民には認識されていた。
それも無理はないのだろう。
日々を生きるのに精一杯の人々――とくに私達のような小さな村の人間にとってはなおさらだ。以前に魔王が現れたという時代など、はるか昔という認識なのだ。
貴重な紙をおいそれとは使えない、辺境の小さな村々では詳細な記録など残せるはずもなく、親の親の親の……それより遡った時代のことなど、言い伝えの中の出来事でしかない。
親の時代はなにも起こらなかった。
その親のときも。
ならば、自分達の時代にもそんなことは起こらないだろう。
それが私達の当たり前の考えだった。
いつ来るかもわからない未来の可能性に怯えるよりも、明日を、明後日を、今日をどう生きるかということの方がよほど心配すべきことで、大事だったのだ。
――少なくとも、その日までは。
相変わらず、彼――アベルはその日々の多くを、川辺りの岩に座って水の流れを眺めることに費やしていた。
そんな彼の隣に腰掛けて、その横顔を見つめるのが、あのときから私の毎日の日課になっていた。
もちろん、『特別』の特権として大きな自由を許されている彼とちがって、私には家の手伝いや農作業など他にもしなければならない仕事はたくさんあった。
けれどなるべく時間をやりくりして、できるだけ長く彼と一緒に過ごせるように努めた。
そのように以前の距離感を取り戻し、親しく接する私に村の皆は何も言わなかった。
咎めようとするそぶりもなかった。
彼の孤独に彼らもなにか思うことがあったのかもしれないし、或いは、後々を考えれば彼に私という女が近づくのは都合が良いと考えたのかもしれなかった。
以前から彼と一際仲が良かった私だから、彼とそうなることを求められていた部分もあったのだろうと思う。
実際、次第に私に与えられる仕事は家のこと――料理だとか繕いだとか、そういった細々としたものに変化していった。
そして自由にできる時間も徐々に長くなり、彼とともに過ごすことが多くなっていった。
そうして、一年が経過した。
その間、私と彼の関係になにか変化があったかと言えば、特になかった。
私にとって彼は相変わらず兄のようなもので、彼にとっても妹のようなものだったと思う。
ただ川辺りの岩に並んで腰を下ろして、言葉少なく、同じ時を過ごすのが常だった。
その日も、彼はいつものように川の流れを眺めていた。
もうすぐ日暮れという時間帯。
私もまた同じく、いつものように彼の隣に座りその横顔を見上げていた。
あれから数年が経ち互いに成長しても身長差が縮まることはなく、やはり彼の顔は、頭一つ分は私より上にあった。
少し長めに伸ばした黒い髪。
じっと見ていると、吸い込まれそうなほどに深い黒を湛えた理知的な瞳。
女性のように長いまつ毛。
その顔立ちは、村の誰よりも繊細で、きれいで、整っている。
年を経るごとにますます磨きが掛かり、ぼうっとそれを見上げているだけで私の時間はあっという間に過ぎていってしまう。
彼の横顔からは、やはり感情の類は読み取れない。
ただ、なにかを深く考え込んでいるのだけは、このときの私にもわかった。
それがなんなのかを、私が知ることは終ぞなかったのだけれども。
「……ん?」
そのとき、不意に遠くで彼の名を呼ぶ声が聞こえた。
振り返れば、村の男が慌てた様子でこちらに駆け寄ってくるのが目に入る。
「どうしたんです?」
彼が訊けば、息を荒らげた男は、村長からの至急の呼び出しだと答えた。
――騎士様が、村にやってきた。
その言葉を聞いて、彼の表情が強張ったのを、私ははっきりと覚えている。
村にやって来たのは、十数人の騎士だった。
鈍色の鎧を身に着け、馬に騎乗した彼らからは隠しきれない旅の疲れが見えるが、それでも背筋をピンと張り、引き締まった精悍な顔つきを崩さない姿は、なるほど、たしかに人々の思い描く高潔な騎士そのものだった。
私達の村にこのような騎士らしい騎士が訪れたのは、はじめてのことだった。
彼らはこの村よりもずっと人里離れた僻地へと向かった旅の帰りであるらしい。
本来であればもっと大きな街道を通って帰還する予定だったのだが、そこまでの道を見失い、さまよった末にこの村にたどり着いたということだった。
騎士達は最寄りの街までの道のりと、そこまでの水と食糧、それから一晩の宿を村に求めた。
彼らの求めた糧食は、蓄えの少ないこの小さな村にとっては決して少なくない量だったが、それでもただの平民が騎士からの申し出を断れるはずがない。
私達は頷くしかなかった。
もっとも、騎士達は決して必要以上のものを徴収しようとはしなかったし、宿を借りるにあたっても無理難題をふっかけるようなことはしなかった。
横暴な態度を取ることもなく、常に丁寧さを崩さない彼らに、さすがお国の騎士であると村人達はもてはやした。
アベルは、村長よりそんな彼らの世話役を任された。
特別な人種である騎士の対応をするには、やはり『特別』である彼が相応しいと考えたようだった。
アベルは、他の騎士から隊長、副隊長と呼ばれていたふたりの騎士を自分の家に招くと、残りを村長の家と村の中でも比較的蓄えの多い家で持て成すよう指示した。
その中にあって、私はアベルに頼まれ、彼の家に泊まることになった騎士の世話を手伝っていた。
というのも、隊長と呼ばれていた騎士は彼らの中の紅一点、ただひとりの女性騎士であったからだ。
やはり女手があったほうが、なにかと都合が良いと考えたのだろう。
彼女は、金色の髪を肩より少し上で切り揃えた、きれいというよりは凛々しい顔つきの女性だった。
年の頃は、二十を少し越えたぐらい。
一方、副隊長の騎士は三十近いだろうか、どこか気怠げな雰囲気をまとう男だった。
彼は外で見せていた騎士然としていた姿がまるで幻であったかの如く、気の抜けた姿を私達の前に晒していた。
「おい。いくらこの子らの目しかないとはいえ、もう少しなんとかならんのか」
「隊長、ようやく人心地ついたんですから、ちょっとはお目こぼし願えませんかね」
その様を見かねて女性騎士が窘める言葉を発するも、炉の火にあたり白湯を啜る副隊長騎士の、心底疲れ果てたと言わんばかりの声と表情に、む、と口をつぐむ。
彼女は苦い顔で男をしばらく見つめていたが、やがて諦めたように大きく溜め息を吐いた。
そして炉を挟んで向かいに座る私達を見て、申し訳なさそうな顔を作る。
「すまんな。我々とて人である以上、常に気を張ったままでいるわけにもいかん。騎士らしからぬ振る舞いを見せてしまうかもしれんが、どうか許して欲しい」
「隊長は、堅っ苦しすぎるんですよ。もう少しぐらい気を抜いたって、人道に悖るようなことさえしなけりゃ、誰もなんとも思いませんて。なあ、嬢ちゃん、坊主」
副隊長騎士の言葉に、私がなんと返したら良いかわからずおろおろしていると、アベルが代わりに口を開いた。
「……そうですね。あなた方がこの村にやって来られてからの振る舞いは、この国を、民を御守護なさる品性高潔たる騎士様として、十二分に相応しいものであったかと存じます。ご休息なされている間、多少おくつろぎになったとしても、私どもの皆様方に対する尊敬の念が薄れることはないでしょう」
伏し目になり、静かな口調でそう言った彼を見て、ふたりの騎士は目を見張ったようだった。
その様子に気づいたのか、ちらと視線を上向けた彼は、すぐにその場で頭を下げた。
「これは、私のような青二才が騎士様に対して賢しい口をききました。申し訳ございません。どうか、お許しを」
「い、いや、謝る必要はない。このような小さな村の、ましてやいまだ年若いその身から、先のような怜悧な言葉が出たことに驚いただけなんだ。ずいぶんと、その、聡明なんだな」
女性騎士の動揺した様子が予想外だったのか、アベルは驚いたようだった。
パチパチと何度かまばたきをすると、はにかむような微笑みを浮かべ、そっと目を伏せた。
炉の火に当てられてのものではない理由によって、うっすらと頬を桜色に染める彼は、その整い過ぎている顔立ちもあってハッとするほどの艶があった。
女性騎士どころか、彼の顔を見慣れているはずの私も、ぼうっと見とれてしまう。
「お前さん、ここでひとりで暮らしているのか」
そのなんとも言い難い空気を破ったのは、同性ゆえにか目を奪わることもなかったらしい副隊長騎士だった。
私も女性騎士も我に返る。
私は自分の頬を軽くさすっって、彼女は恥じ入るように顔を俯かせた。
「はい。一年ほど前、村長より頂戴しまして、以来ここで暮らしております」
一方でアベルは、それまでの年相応に見える表情をスッと消し去ると、騎士に向き直り、強張った顔つきで答えた。
「親は?」
「別の家に」
「ふぅん。お前さん、まだ十を幾らか越えたぐらいの歳だろう? 成人もしていないのに親元を離れているのか?」
「はい」
「ふうむ。どうも……奇妙に思えるな。村の者のお前さんへの態度もな、とてもその歳の子供に対するものではなかった」
顎をさすり、騎士は不思議そうに首を傾げる。
「お前さんの態度も、ただの子供にしては出来すぎている。まるで、貴族の子息と話している気分になる」
そう言った騎士は、なにかを探るような目つきでアベルを見やる。
それまで黙ってやり取りを聞いていた女性騎士もまた、諸々のことに違和感を覚えていたのか、表情を改めて、彼に視線を向けた。
どちらも、積極的に問い詰めようという雰囲気ではなかった。
なにか困ったことがあれば訊くぞという親切心からの言葉であることは、なんとなく私も察していた。
彼は、すぐには答えなかった。
視線を落として、膝においた拳を握り、伏せたまつ毛を震わせる。
その姿からは、迷いと緊張、焦りのようなものが感じられた。
「……ひとつ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」
やがて、重々しく口を開いた彼は、迷いを完全に振り切ったようだった。
周囲が気圧されるほど真剣な面持ちで、騎士達を見上げる。
それこそ子供らしからぬ鋭い気配をまとう彼に、私達は思わず居住まいを正した。
「……なんだ?」
副隊長騎士の言葉に、アベルはその視線をふたりの騎士から外し、部屋の隅へと向けた。
そこには、騎士達の外した鎧と運び込まれた荷物があった。
彼が見ていたのは、その中のひとつ。
過剰なまでに厳重な封をされた、私の背丈ほどもある細長い形の、頑丈そうな木箱だった。
「お探しになっていたものは、見つけられたのですか?」
――反応は、劇的だった。
にわかに、騎士達の全身から殺気に近い敵意が放たれて。
「……え?」
私は、一瞬、自分が殺される幻を、見た。