一節 だから、彼はアベルとなった[イザーナ]
その時、彼がどうしてそんな顔をしていたのか。
私がその理由を知ることになったのは、なにもかもが手遅れになってしまった後のことだった。
いや、それは言うのならば。
――そのはじまりから、全ては、終わっていたのだ。
私が生まれたのは、なんの変哲もない、田舎の小さな村だった。
この大陸で唯一にして最大の、人間の王国。
その中に数え切れないほど存在する、なんの特色もなく、地図にその名前さえ記載されることがない程度の小さな村だ。
村の大人たちは皆、畑を耕し、近くの森に狩りに出て、時折訪れる行商人から物々交換で生活必需品や嗜好品を手に入れる。
そんな、どこにでもある長閑な村だったのだ。
そんな村の中で、私と彼は同じ年に生まれ、家が隣だったこともあり幼馴染として育った。
といっても、小さな村だから、そもそもの前提として子供の数はさほど多くはなかった。
同じ年代ということであれば両手で数えられる程度であり、だから必然、誰も彼もが幼馴染といえばそうだった。
けれどその中にあって、家が隣同士で、かつ互いの両親が非常に仲が良かったということもあり、他の子達に比べて彼とはより多くの時間を過ごしたと思う。
彼は、私にとっての特別だったのだ。
――いや、それを言うのならば、私達の誰にとっても特別だった、というべきだろうか。
彼は、不思議な存在だった。
このような王国の片隅の田舎村で生まれたとは思えないほどに賢く、理知的で、穏やかで、その所作にはどことなく気品さえも漂っているように見えた。
私達子供は、同年代に限らず年下も年上も、みな自然と彼のもとに集った。
彼には、どこか人を惹き付ける不思議な魅力があったからだ。
それは私達子供だけでなく、大人達もそう感じているようで、村人の彼に対する態度はどこか一線を画したものがあった。
もちろん、それは邪険にしたり、異物として排斥しようとしたということではなく、逆に子供でありながら自分達と対等か、或いは場合によってはその上に置きかねないほどに、特別な扱いをしていた。
おかしな話だ。
彼はまちがいなくこの村で生まれ、私と同じ時間を過ごし、育ったというのに、他の誰ともはっきり異なっていた。
思えば、物心ついた頃から、すでに彼は彼だった。
私は彼を一度たりとて同年代だと意識したことはなかった。
いつでも私を穏やかに見守り、優しく手を引いて導いてくれる――兄か、ともすれば第二の父のような存在であるように思っていた。
同じ時を生きていながら、私は、彼が子供だった頃のことを知らないのだ。
今思うと、その不自然さは、やはり彼が特別であったことの、証なのかもしれない。
村の人々が、彼のことを本当に特別な存在であるとはっきり認識するようになったのは、とある出来事がきっかけだった。
私と彼が十か、十一ぐらいの年頃に起こったそれが、村人たちの意識を決定的なものとしたのだ。
その日、森へ狩りに出かけた村人のひとりが、運悪く気性が荒い大型の獣に遭遇し、大怪我を負って帰ってきた。
肩から胸にかけてを爪で深く抉られ、大量の出血によって真っ赤に染まった狩人は、もはや手の施しようがないのは誰の目にも明らかだった。
沈痛な表情の村人に囲まれて地に横たわる彼に、すでに意識はなかった。
妻が涙ながらにその手を握りしめて声をかけても一切の反応はなく、あとは死を待つしかないという状況で――彼が、現れたのだ。
狩人の前に立ち、見下ろす彼は、その表情をひどく強張らせていた。
彼のそんな余裕の失った顔というものを、私はその時、はじめて見た。
彼の子供らしからぬ厳しく引き締められた顔には、緊張と、焦燥と――怯えのようなものが感じられた。
村の誰よりも長い時間を彼と過ごした私だからこそ、それがわかった。
彼の突然の行動に村人は何事かと見やり――目を見張った。
彼は迷いを振り切るように狩人の前に跪くと、まるで奇跡の担い手である神官様の如く、胸の前で両手を握りしめたのだ。
静かに瞼を閉ざした彼の顔には、ただ強い決意だけが浮かんでいる。
そして、彼はその口を開いた。
「我ら現し世の民が、此の世全ての始まりであられます御神に御願い奉る」
それは、おそらく村人がはじめて耳にする、神へと捧げる聖句だった。
「此処に、その御業たる奇跡を顕し給え」
私達の誰もが知らない、神聖な気配に満ちた言葉、
「我が祈りに、応え給え」
この時、私達は生まれてはじめて、『力ある言葉』というものを、耳にして、目の前にしたのだ。
「光あれ、命あれ、言葉あれ」
神より賜るとされる神聖な言葉が紡がれてゆくごとに、彼の身体がうっすらと輝きを帯びていく。
「我ら現し世に、どうか、その奇跡を」
やがて輝きは燐光となり、燐光は鎖のように連なり、つながり、まるで導かれるように螺旋を描き天へ立ち昇っていく。
どこまでも、どこまでも。
身体がのけぞるほどに頭を反らしても、その先が眼で追えなくなるぐらいに遠く、天高く。
そして。
「《これは神の御業である》!」
彼が一際強く発した言葉が、世界に鳴り響き。
瞬間、遥か天空より、光の柱が降ってきた。
「――――――――――――」
誰かが声を上げた気がする。
誰かが涙を流した気がする。
視界が、輝きに満ちる。
音が、消える。
目に映るものが、耳に聞こえるものが、世界が、光の中に消える。
横たわる狩人どころか、私達を、村ごと包み込む巨大な御柱に、私達は飲み込まれて――
「やりすぎた……かな」
どうしてかその中で、小さく呟く彼の声が聞こえたような気がした。
どれぐらい意識を失っていたのか、やがて彼に起こされた村人が見たのは、以前と変わりない村の姿。
いや、正確に言うならば、これまでになく澄み渡り、清浄な気に満ちた村の姿であり、そして彼らが囲う真ん中で傷一つなく横たわり、穏やかに呼吸する狩人の姿だった。
狩人の妻が喜びの涙を流し、その身体に覆いかぶさった。
村の誰もがそれを呆然と見やり、次に、その傍らに立って静かに微笑む彼の姿を見やる。
その身体からは、いまだうっすらと燐光が立ち昇っており、まるでそれが後光であるかように私達には見えた。
神聖な、おかしがたいモノに見えたのだ。
奇跡だ――誰かが言った。
奇跡の人だ――別の誰かが言った。
やはり彼は、唯人ではなかったのだ――誰もがそう言った。
狩人の妻が、彼の足元に跪き、涙ながらに礼を――いや、祈りを捧げた。
目を覚ました狩人もまた、続く。
次々に、その場の村人たちが彼に頭を垂れていく。
私もまた、場の勢いに流されて膝をついた。
……いや、正直に言うのなら、やはり私も他の村人と同じように、彼が人あらざる神聖な存在に思えたのだ。
見れば、彼の両親さえも跪く人々の中に混じっている。
己もまたそうするべきだと感じて、他に倣い頭を下げようとしたところで、その直前に、彼の顔が視界に入った。
「――ッ」
胸に、鋭い痛みが走った。
なにか、強い衝撃が、全身を打ち貫いた。
――ただひとり地に立つ彼は、跪く周囲の人々を見下ろして、深く傷ついたような顔をしていたのだ。
彼の目が、ひとりだけ頭を下げていなかった私に向けられる。
視線が、まじわる。
彼はなにも口にしなかった。
私はなにも口にできなかった。
彼は小さく笑って、視線を落とした。
その姿からは、先程まで感じていた神聖さなど消え失せて。
風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど頼りなく見えて。
私は、そんな彼を、跪いた地から、呆然と見上げるしか、できなかった。
できなかったのだ。
それから、彼は私達の村の確かな特別となった。
誰も彼もが、いまだ幼い子供でしかないはずの彼を自らの上に置き、敬い、丁寧に接するようになった。
彼の両親さえも、そうだった。
だが、それも無理のないことだったのかもしれない。
私達の常識に、あのような御業は存在していなかったのだ。
それほど大きくはない村でもひとりふたりは存在する、火を起こし風を吹かせ水を生む魔術使いとは異なり、あれだけの傷を完全に癒やしてしまう奇跡など、私達は知らなかった。
天の恩寵。
神の御業。
――《神秘》。
世界を探しても行使できる者など十人といない、真なる奇跡。
王都の民であろうと生涯その奇跡を目にすることなど一度あるかどうかという、王都の聖代神殿においてその全てを厳しく管理されている、神殿における秘宝にして秘奥。
神の奇跡代行者――《聖人》。
そんな存在を知る者など、こんな辺境の村には誰もいなかったのだ。
故に、村人は彼の存在を、天が自分たちのところに遣わした神徒であると考えた。
その奇跡と、時折彼が口にする村人では理解しきれない深遠な叡智によって導くために、神の世界から降臨されたのだ、と。
以前のように、彼の周囲に人が集まることはなくなった。
畏れ多いと、誰もが一定の距離を取った。
やがて村長は彼のために新たな家を建て、彼は両親のもとから離れて、そこで暮らすようになった。
村の癒し手。
長の相談役。
そういった役割を皆が彼に求めて、彼は黙ってそれを受け入れた。
いつからか浮かべるようになった、かすかな笑みを口許に湛えて。
その深く澄んだ黒い瞳に、幼い私にはわからなかった複雑な色を湛えて。
彼は、孤高となったのだ。
一人で暮らすようになってからの彼は、村近くの川へでかけることがよくあった。
川辺りの岩の上に座って、何をするでもなく、水の流れをじっと眺めているのだ。
表情はほとんど浮かんでいなかったけれども、なにかを悩んでいるようであり、憂いているようでもあり――或いは怯えているようでもあったが、やはり幼い私には深く読み取ることはできなかった。
ただ、彼が幸せそうでないことだけは、わかっていた。
けれど、私はそんな彼を少し離れた木陰から、じっと見つめていることしかできなかった。
なぜなら、私はあのとき、自分が彼のことを傷つけてしまったということを、知っていたからだ。
理屈として理解したわけではない。
けれど直感として、周囲の村人と同じように彼へと跪いたあの行為が、彼の心に傷をつけてしまったことを、わかっていたのだ。
はじめてのことだった。
それまでの彼は私にとって他の大人と同じように、自分の幼い我儘や癇癪を笑って受け止めてくれる存在だった。
いつでも私の前に立って、導いてくれて、いつだって見上げていたひと。
頼って、寄りかかって、それでもびくともしない大木のような安心を覚えるひと。
だから、そんな人が私なんかのことで傷ついてしまったということに戸惑い、居心地が悪く、どう接したらいいかわからなくなってしまったのだ。
悪いことをしたのなら、謝らなければならない。
当たり前のことだ。
彼からも、そう教えてもらった。
だが、そうと頭ではわかっていても、どうしても、行動に踏み切れなかった。
彼は許してくれるだろうか。
怒ったりしないだろうか。
私を、嫌いになっていたら、どうしよう。
そんな不安が渦巻いて、もしもの恐ろしさに足が竦んで、彼に近寄ることができなかったのだ。
しかし、そんな日々がしばらく続いて。
ある日、とうとう彼が木陰から覗いていた私に、気づいた。
振り向いた彼と視線が合って、けれど、私はどうしたらいいかわからず凍りついたように固まってしまって。
そんな私を見て、彼は、あの時のように、小さく笑って、俯いて――。
だめだ、と思った。
そんな顔を、また彼にさせてしまっては、ダメだと、思った。
気づけば、走りだしていた。
わけもわからないままに、直感に従って、彼に向かって駆けていた。
驚いたように顔を上げた彼の胸に、頭から飛び込んで、
その勢いのまま、川の中へ彼の身体ごと落下した。
全身が、冷たい水の中に沈む。
外の音が遮断され、水の撹拌される音しか聞こえなくなる。
視界が水に閉ざされ、滲み、薄暗くなる。
前後左右の感覚が曖昧になり、手足をばたつかせるが、水が絡みつき、どこにも進めない。
そのまま川の流れが私をのみこもうとして、
「…………!!」
強い力に、引っ張り上げられた。
身体が浮く。
水面に顔が出て、慌てて空気を吸い込む。
水が気管に入り、むせる。
涙目になって、咳き込む。
私を片手で引っ張りあげた彼は、もう一方の手で私の身体をしっかり抱くと、水をかきわけて川辺りまで移動する。
這うようにして陸に上がると、彼は私を腹の上にのせたまま、地面に横になって、息を荒らげた。
同年代に比べて大きな身体を持つ彼は、逆に一際小さかった私を普段は軽々と扱っていたが、さすがに水の中では勝手がちがったらしく、ずいぶんと消耗しているようだった。
「どうして、こんなこと」
途切れ途切れの彼の言葉に、私は身体を起こした。
彼のお腹の上から、その幾分げっそりした顔を見下ろして、なにを言おうかと迷う。
どんなことを、彼に告げれば良いのか、考えて、考えて、
「ちがう、から」
するり、と口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「え……?」
ぽかんと、彼にしては間抜けな顔に、私は無性に腹が立って、その顔をぱちんとはたいた。
「私は、ちがうから……!」
「いや、なにを」
どうして、伝わらないのだろう。
そのことがもどかしくて、苛立たしくて、やっぱり、私は彼の頬をぺちりと叩いた。
「あなたは、私の『とくべつ』だけど、でも、ほかの人たちとは、ちがうんだから!」
「…………」
「私の、すっごい『とくべつ』だけど、みんながいう『とくべつ』とは、ちがうの!」
「…………」
「私は、あなたをひとりになんかしないから! ずっと一緒にいるの! そういう『とくべつ』なの!」
ぺちり、ぺちり。
彼の顔を叩きながら言った私の言葉に、彼はその目を大きく見開いた。
言葉を失ったように、私を見上げて、唇を小さく震わせた。
「だから、あんなふうに、笑わないでよ……!」
彼の襟元を掴んで、揺する。
「あんな顔しないで!」
どうしてか、目元が熱くなって、視界が滲む。
頬が、濡れる。
「私が一緒にいてあげるから!」
そう叫んだ私を見上げて、彼はなにかを言おうと口を開けては閉じて、開けては閉じて。
やがて、自分の顔を、手の平で覆った。
表情が隠れる。
唇が強く噛み締められる。
肩が、震える。
「まいった、な……」
絞り出されたような、小さな声。
それも、やはり震えていた。
「まさか、こんな小さな子に……泣かされるなんて」
「小さくて悪かったね! すぐにおっきくなるよ!」
イラッとして、その場で跳ねて、どすんどすんと彼のお腹にお尻を落とす。
「ちょ、それ、やめ」
「うるさい! うるさいうるさい!」
彼の言葉を無視して同じことを繰り返していると、やがて業を煮やしたのか、彼は空いている手で私の身体を引き寄せると、そのまま抱きしめた。
私の顔を、自分の胸に押しつける。
彼の心臓の音が、聴こえた。
落ち着いた、音色。
安心できる鼓動だった。
彼の震えは、すでに止まっていた。
「ああ、もう……こんなの」
――仕方ないじゃないか。
頭の上で、彼がそう呟くのが聞こえた。
「僕は、アベルなんだ」
「知ってる」
「そして、君はイザーナなんだ」
「それも知ってる」
彼は当たり前のことを口にして、その当たり前に納得したように、頷いた。
「……そっか」
「うん。当たり前のことでしょ」
「そうだね……当たり前の、ことだった」
「へんなの」
「うん。本当に、そうだね」
小さく笑う声が聞こえて、顔をあげる。
彼は、笑っていた。
本当におかしそうに、心の底からの笑みを、浮かべていた。
だから、なんだかうれしくなって、私も笑った。
ふたりで、濡れ鼠になりながら、いつまでも、笑い合っていたのだ。
それが、彼と私――アベルとイザーナの、本当の始まりで。
多分このときすでに、終わりへと至る歯車は、回りだしていたのだ。