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七節 此処にあり、いずれ至るもの ① [イザーナ]

 白、だった。

 なにもかもが、白い空間。

 天も地も、どこを見ても、ただ白だけが続く果てなき広大な世界。

 

 《棺の塔》の扉に手が触れたと思った次の瞬間、私達はその場所にいた。


「――――」


 後ろを振り返る。

 やはりそこには、なにもなかった。ただの白が、どこまでも続いている。

 音の一切も存在していなかった。

 響くものがなにひとつない。無音。耳に痛いほどの静寂。

 

 広大無辺。無響寂静。

 色を失い、音を失い、まるで世界そのものが死んでしまったかのよう。


 ここは、一体なんなのだろう。

 私達はどこから来たのか。どこへゆけばいいのか。

 しるべとなるものがなく、形あるものが見つけられず、ひどく頼りない気分になる。

 強い不安に苛まれた私は、この無の中にあって唯一縋れるもの――隣に佇んだまま動かないアベルに目を向ける。


「…………」


 彼は、光を失った瞳で、天を仰いでいた。

 聖剣を握ったままの右腕をだらりと下げて、呆けたように口を半開きにして、宙の一点を見つめている。視線の先を追ってみるが、そこにはなにも存在しない。

 ただの無白だけが、ある。


「アベル……?」


 彼の空いた左手を摑んで、その名を呼ぶ。

 

「…………」


 しかし反応はなかった。

 微動だにせず、頭上を振り仰いだまま静止している。

 

「アベル?」


 もう一度、彼の名を呼ぶ。掴んだ左腕を揺する。

 けれど、応えはない。なんの抵抗もなく私の動きに引っ張られて、その身体が左右に揺れるだけだった。

 

 気づく。戦慄が、走る

 彼の目は、なにも見ていなかった。映していない。

 感情の、心の動きが、少しも感じられなかった。

 心が・・空っぽだった・・・・・・


「アベルッ!? どうしたの!? アベル、ねえ、アベル……!」 


 彼の正面にまわって、その胸を強く叩いて呼びかける。

 彼の頬を両手で摑んで、下げる。強引に私に向けさせる。

 焦点の合わない瞳が、私を顔を見るが、やはりそこに感情の動きは感じられなかった。

 まるで人形のように無機質な眼。

 

「アベル! 私だよ! イザーナだよッ! 返事をして! 応えて!」


 つま先立ちになって、彼の顔に自分の顔を少しでも近づけて、叫ぶ。

 必死に呼びかけ続ける。

 

「約束を! 覚えてるでしょ!? 私を守ってくれるって! 私を置いていかないって! そう言ってくれたのは、アベルでしょ……!!」


 忘我の境にある彼の意識を引き戻すために、彼の身体を揺すって、頬を叩いて、声をかけ続ける。

 それがどれぐらいの時間続いたのか。


「……あ、ああ。えっと」


 ようやく、アベルが反応らしい反応を見せた。

 夢から覚めたばかりのように、目を瞬かせる。

 そうして、焦点が合わないままの眼差しが、私を捉えた。


「『イザーナ』だ……」


 目を丸くして、アベルは私の名を呼んだ。

 身体から、力が抜ける。安堵が全身に広がり――すぐに違和感に気づいた。

 彼の私を見る瞳。私の名を口にする声。表情。

 いつもと、なにかがちがっていた。たしかに私を見て、私を認識して、その名前を呼んでいるのに、どうしようもないほどの違和感があった。

 まるで、よく似た別の誰かを見ているような。


「アベル……?」


 彼の名を、口にする。

 すると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「『アベル』?」

「アベル、でしょ? 私はイザーナで、あなたはアベル、だよね……?」


 私がそう言うと、彼はひどく驚いたようだった。

 ぽかん、と口を開けて、まじまじと私を見やる。その反応に先ほどから感じていた違和感が、不安が、私の中で膨れ上がっていく。


「あの、アベル、大丈夫? まだ意識がはっきりしてないの?」

「意識……? さっきから、ぼんやりしてるけど……これは、夢? 僕は……たしか、姉さん・・・をさがして」


 その単語に、今度は私のほうが驚く。

 姉? 

 そう言える存在など、彼にはいなかったはずだ。強いていうならば、フレイシアさんがそうだったけれど、そんなふうに呼んだことなんて一度もなかった。

 

「ずっと、一緒にいたくて……でもあの人はいなくなって。それで……」


 彼の声が小さくなっていく。

 その顔つきが、見知らぬ誰かのものに変わっていき――、


「アベルッ!」


 彼の顔、頬を摑んで、ぐいっと下げさせた。

 私も背伸びして、顔を近づけさせて――その勢いのままに、自分の額を彼の額に、ぶつけた。

 一切の遠慮なしに、全力で。

 視界が明滅する。星が散る。ぐわんぐわんと頭が揺れる。


「私が一緒にいてあげるから!」


 痛みに顔を顰める彼に、叫ぶ。


「だから、そんな顔をしないで!」

  

 いつかのように、叫ぶ。

 必死に、声を上げる。彼に届いてほしいと、想いの丈をぶつける。

 

「――――」


 彼の瞳が、揺れた。

 ずっとズレていた焦点が、このとき、初めて合わさった。

 私を見る目に、光が戻る。

 

「ああ……」


 彼は眩しいものを見たというように、目を細めた。

 懐かしいなにかを思い出すように、優しげな色が瞳に浮かぶ。

 口元が、やわらかく笑む。


「そう、だったね」

 

 彼の瞳が、潤む。

 眦に、涙が溜まっていく。


「僕はアベルで……君は、イザーナなんだ」


 私は、頷いた。一生懸命に、何度も、頷いた。


「そう、だよっ。当たり前の、ことでしょっ?」

「そうだね。当たり前のことだった。……うん」


 彼の頬を、一筋、伝うものがあった。

 私の顔もまた。

 

「ありがとう、イザーナ。もう、大丈夫だよ」


 いつものように微笑んだアベルは、ヒリヒリと熱と痛みを発する私の額を、そっと指で触れた。

 笑みが、苦笑へと変わる。

 そして、


「もう、癒してあげることができないから」


 ごく自然な動きで顔を寄せてきて、唇でやさしく、そこに触れた。

 時間が、止まる。

 思考が、止まる。


「……?」

「うん。これで、よし」


 ひとり納得したアベルは、顔を戻すと、手にしたままだった聖剣を背中の鞘に戻して、周囲を見渡す。


「………………?」

「歩こう。ここは時間と空間が捻れているから、あまり距離というものには意味がないけど、足を踏み出さないことには、どこにも辿り着けない」


 私の手を握って、彼は歩きだす。

 引かれるまま、私は彼のあとをついていく。


「先へ進もうとする意志が、大事なんだ。その意志を持ち続けるかぎり、この空間自体が僕達をゆくべき場所へと連れていってくれる」

 

 アベルの説明を上の空で聞き流しながら、私は、いまさっき起こったことを思い返す。

 え……? いま、え?

 顔が、熱い。頬が真っ赤に染まっているだろうことが、鏡を見ずともわかった。

 俯いたまま、足元だけを見て、歩いていく。


 ずるい。なんでこの状況で。なんであんなにさりげなく。

 もっと、こう、心の準備というものをくれてもいいんじゃないの?

 

 ちらり、と彼を見上げる。

 アベルはとくに照れた様子もなく、澄ました顔で前を向いている。

 なおさら、ずるいと思う。

 自分だけ、平気な顔をして……。

 

「イザーナ。これから先に待っているものは、きっと君にとって受け入れがたいことばかりだと思う」


 アベルが、唐突にそんなことを言った。

 視線は前に向けられたまま。


「けれど、どうかのことは恨まないでほしい。彼はただ、その信念に、使命に忠実であろうとしているだけなんだ。むしろ、本当に恨まれるべきは――」


 その言葉は、最後まで続けられなかった。

 周囲の環境が、突然変化したからだ。


 真っ白だった空間が、真逆の暗闇に転じる。

 急になにもかもが見えなくなって、立ち止まった。アベルもまた、私の半歩前で足を止めていた。

 気配で、彼が前方に意識を向けているのを感じる。

 私もまた、そちらに顔を向けた。


 遠く離れた闇の果てに、うっすらと光るものがあった。

 淡い青の輝き。空、或いは海のような――。


「……あれが、僕達の辿り着くべき場所だよ」


 再び、アベルは歩きだす。

 光源は遠目に輝く青色の光だけで、足元がどうなっているか確認することもできなかったが、彼とつながった手を頼りにあとをついていく。

 徐々に、光が近づいてくる。

 それでわかったのは、輝きはなにか大きな物体が発するものであるということ。

 縦に長いが、幅も広い。

 逆さになった氷柱、氷筍のような形状で、実際に氷のように透き通って見える。

 その全体が、淡く青色の輝きを発していた。

  

「あれは」


 思わず、私の口から呟きが漏れた。

 その氷柱の前に、人影が見えたからだ。

 見覚えのある背中。傷だらけになった鎧姿。


「…………」


 その姿がはっきり視認できる距離にまで私達が近づいたところで、氷柱を見上げていたは振り返った。


「……ようやくか。時と場が捻れているというのは、どうやら真実らしい。遅れて足を踏み入れたはずの私が、先にここへ辿り着くとは」


 表情の一切を見せず、こちらに向かって言うのは――騎士、グレン・ヴァンブレスト。

 私達を先へ向かわせるために、塔の外に残ったはずの彼が、そこに立っていた。


「あの首なし鎧は……?」


 私の問いかけに、彼の顔に一瞬、忌々しげな表情が浮かぶ。


「当然、仕留めてきたとも。未練がましく現世に縋り付く亡霊ごときに、私が遅れをとるわけがない」

 

 そうは言うものの、彼の鎧に残った傷跡を見ればそれが激しい戦いだったことは瞭然だった。必死に取り繕っているようだったが、その顔にも疲労の色が濃くにじんでいる。

 ともあれ、彼が駆けつけてくれたのであれば、心強い。

 魔王そのものには戦う力がないと聞いていたが、それでもいざというときの戦力があるのとないのでは、安心感がちがう。私もアベルも、もうまともに戦える状態ではなかったから、なおさらだ。


 しかし、その魔王は一体どこにいるのか。

 ここにあるのは、目の前の氷のような柱だけだった。

 ――いや。

 騎士グレンの背後、その柱の内側に、なにかの影が。


「では、アベル殿」


 しかし、その私の思考は、騎士グレンの次に起こした行動で、止められる。

 彼は、


「大人しく、聖剣をこちらに渡してもらおうか」


 右手に握った剣をこちらに向けて、そう告げたのだ。

 





「なにを、言ってるんですか……?」


 彼の言葉の意味が理解できず、私はそう聞き返していた。

 この場、この状況にあって、どうしてそんなことを言い出すのか、理由に思い至らない。

 空気を読まず、冗談を口にしているのかと思った。

 しかし騎士グレンにそういった様子はない。

 親の仇を見るような鋭い眼差しをアベルに向けている。


「ようやく長きに続いた戦いが終わるというこのときに、あなたはなにを……!」


 騎士グレンの視線が、ちらりと私に向く。

 そこに込められているのは、嘲りと……哀れみ?


「今、このときだからこそだ」


 騎士グレンは言う。


「今ならば、まだ、間に合う。魔王討伐の栄誉・・を、私が手にできる。この私が、魔王討伐を果たした勇者になることができるのだ……!」


 その言葉に、かっと頭に血が上るのを感じた。私の中に、怒りの炎が吹き荒れる。


「なにを、なにを勝手なことを言ってるの……!? 今まで勇者として皆のために頑張ってきたのは、あなたなんかじゃない! アベルが私達の希望になって、辛いこと苦しいことの全部を背負って、ここまで必死に歩いてきたんだ! それを、横取りするつもりなの、あなたは!?」


 騎士グレンを睨み返して、叫ぶ。怒りを、そのままに叩きつける。


「ふざけないで! それでもあなたは、騎士なの! あの人達なら……ベイルさんやフレイシアさんなら、絶対にそんなことは口にしない! 私の大切なあの人達を愚弄しないでッ」


 栄誉とか、功績とか、そんなもののためにあの人達は命を賭けたわけじゃない。

 ただ、誰かを守るために。誰かの幸せのために、戦ったのだ。

 決して、そんな下らないもののためではなかった。

 騎士グレンは、そんな私を馬鹿にするように鼻で笑う。


「騎士などと、笑わせる。守る? 誰かの幸せ? ――下らない」


 吐き捨てるような口調だった。その顔に浮かぶのは、嫌悪。


「イザーナ殿。騎士などというものはな、なにかを守ったつもりになってひとり悦に入っているだけの、自己陶酔に満ちた輩でしかないのだ。……騎士だけではない。王も、貴族も、民も。この世界に生きる全ての人間は、真には救われる側でしかないのだ。そんなことも知らず我が物顔で平和を謳歌し、幸福で満たされて……そんな我らに、なんの価値がある?」


 これまで己の内に溜め続けてきたものを撒き散らすように、毒に満ちた言葉を騎士グレンは吐き出していく。


「私は、己がそのような立場に追いやられることが、我慢できぬ。……しかし、勇者だけが、ちがう」


 彼の視線が、再びアベルに向けられる。

 真っ直ぐ、突き刺すような鋭い眼差し。

 

「この世にあって唯一、勇者という存在だけが救われる側ではなく、救う側に立つことができる。この世界に生きる人々をあまねく救う絶対者に成り得るのだ」

 

 騎士グレンが、一歩、前に足を踏み出す。突きつけられた剣の切っ先が、アベルに近づく。


「君のような辺境の平民が、ましてや成人したとはいえ、いまだ十五、六でしかない若輩者が、そのような座につくことなど認められるか。人々を導くは、高貴なる者の定め。勇者として魔王を討ち滅ぼすは、王家の血を継ぐこの私こそが相応しい」

 

 本気で、言っていた。

 あまりに身勝手。あまりに傲慢な言葉だった。

 身体が、震える。怒りで、目の前が真っ赤になる。

 以前からアベルに対してだけ当たりがきつく、あまり良い思いは抱いていないのだろうと感じていたが、まさか、このようなことを考えていたとは。

  

 しかし、である。

 そもそも、騎士グレンがどれほど身勝手な思いを抱き、口にしようが、決して覆らないことがある。


「でも、あなたは勇者にはなれなかった」


 私の言葉に、騎士グレンは頬を引きつらせた。


「勇者となる資格を、与えられなかった。あなたが望もうと、聖剣は応えなかったんでしょう?」

「……数年前のことだ。今は、わからぬ。かつて資格を得られなかった者が、のちに勇者となった例もあるのだ」


 忌々しげに答えた彼は、私達の目前に立ち、アベルの喉元に剣を突きつけた。


「さあ。アベル殿、聖剣をこちらに渡してもらおう」


 改めてそう告げられて。

 先ほどから黙して、動じた様子もなく、騎士グレンをじっと見つめていたアベルは――。


「わかりました」


 困ったような微笑みを浮かべて、頷いた。

 戸惑いも、怒りも、悲しみも、そこにはなかった。ただ、仕方ないなあ、というように。まるで手のかかる子供を相手するかのような目で、彼を見る。

 それに気づいて、騎士グレンの顔が苦々しげに、悔しげに歪んだ。


 アベルは背中から聖剣を引き抜くと、それを目の前の地面――よくわからない材質の、光を反射しない純黒の床――へ突き刺した。

 切っ先は、とくに抵抗なく沈んでいく。ある程度埋まったところで手を離すと、アベルは一歩後ろに下がって、私の横に並んだ。

 それを確認した騎士グレンは、剣はこちらに突きつけたまま、もう一方の手を聖剣の柄に伸ばす。


 その顔は、緊張に硬く強張っていた。喉をごくりと鳴らす。

 彼の目に浮かぶのは、痛切で、必死な光。

 どうしてそこまでと思うほどに、なにかを願っている。 


 指先が触れ。手の平が触れ。指が折り曲げられ。

 聖剣の柄を、握りしめる。


「――――」


 雷に打たれたように、騎士グレンの身体が痙攣し、頭が跳ね上がる。同時に、彼がこちらに突きつけていた剣がその手よりこぼれ落ちて、地面の上を転がった。

 しかし彼にそれを気にする余裕はないようだった。

 焦点を失った瞳が、宙空になにかを見て。

 

 恐怖。


 目を見開き、その喉から絶叫が迸り、弾かれたように聖剣の柄から手を離した。

 彼の顔から、血の気が引いていた。青ざめた肌に、冷や汗が浮かぶ。


「アっ……く、ぁ……」


 怖じけたように後ずさった騎士グレンは、しかし、それでも諦めるつもりはないようだった。

 聖剣を睨みつけて、震える手を再び伸ばしていく。


「――――!」


 結果は、同じだった。

 絶叫して、手を離して、後退って。

 何度やっても、その繰り返し。その瞳は血走り、肌は真っ白になり、冷や汗で髪がべっとりと額に張り付いて、しかしそれでも諦めることなく、挑んでいく。


 本当に、どうしてそこまで、と思う。

 この人が傲慢で身勝手な人間だとわかっているのに、そのあまりに必死で、無様というほかない姿に、先ほどまで感じていた怒りが引いていく。

 代わりに覚えたのは、哀れみ。そして、純粋な疑問。

 なにかが、ちがう。

 私の抱いている認識と、目の前の光景。

 なにかが、決定的にズレているような――。


「なにが、足りないッ……!? 覚悟は、とうに決めている! なのに、これでもまだ不足というのかッ!」


 とうとう、聖剣のそばに崩れ落ちた騎士グレンが、嘆きの声を上げる。

 血を吐くような訴え。

 

「彼のような人間が勇者になるなど、まちがっている! そのようなこと、あっていいはずないだろうがッ」


 違和感。疑問。それが私の中で膨れ上がっていく。

 勇者という役割を、アベルから引き剥がそうと必死になる彼の姿は。

 奪うというよりは、むしろ、真逆の――。


「そんなに、気に入らないの……? アベルが勇者として魔王を倒さなきゃ、命を永らえさせることができないんでしょう? アベルが勇者でなくなったら、生きていけないのに」

「それのなにが悪い!?」


 普段の冷静さをかなぐり捨てて、騎士グレンが怒鳴る。憤りに満ちた眼差しが、私を貫く。


死ねばいいのだ・・・・・・・!」

「――な」

「人として、ただのアベルとして死ねることの、どこがいけない!」


 酷い暴言に私が言い返そうとする前に、騎士グレンの言葉が重ねられる。

 その迫力に気圧されて、


「救われぬ九十九を救って、永遠に救われぬ一・・・・・・・・となることの、なにが正しいというのかッ」


 次いで放たれた言葉に、思考が凍りついた。

 その文言は。

 彼が、アベルが、勇者が聖剣を振るうときに必ず口にしていた語句。


『これは、救われぬ九十九を救うための行いである』


 なにかが、つながる。

 その、意味。

 それが、真に意味していたのは。

 勇者が救われぬ九十九を救う存在であるのならば、そのときに残る、決して救われぬたったひとつとは。


 隣に立つアベルを、見上げる。

 彼は、やはり困ったように笑っていた。

 視線に気づいた彼と、私の視線が、交わる。

 

「……ごめんね」


 眉尻を下げて、アベルは言う。

 どうして。

 どうして、謝るの? どうして、そんなに悲しげな目をしているの?

 聞きたいことは、たくさんあった。

 なのに言葉が。言葉が、出てきてくれない。思考が止まったまま、回らない。時が、過ぎていく。なによりも大切で貴重な一瞬一瞬が、無駄に消費されていく。

 

「ありがとうございます、騎士グレン」


 視線が逸らされて、崩れ落ちたままの騎士グレンに向けられる。

 彼を見下ろすその瞳は、どこまでもやわらかく、やさしげだった。


「なにを、礼など……!」

「僕を、救おうとしてくれた・・・・・・・・・んですね」


 にこりと、少女のように微笑むアベルを見上げて、彼の顔が歪む。

 今にも、泣き出しそうなほどに。

 

「わ、私はッ……、私は!」

「わかっています」


 なにかを言い募ろうとした騎士グレンの言葉を遮って、全てを見通したように、アベルは頷く。


「あなたが、幼い子供だった僕を犠牲にしたくないと思ってくれていたことも。この身を必要以上にすり減らして戦う僕を、ずっと心配してくれていたことも。その身に流れる血の義務として、自分の本来の役割と板挟みになっていたことも」


 アベルは笑う。彼をいたわるように。心の底からの感謝を隠そうともせずに。


「本当は僕のこと嫌いじゃないんだろうなってことも、わかっていましたよ」

「――――――ッ」


 騎士グレンは、溢れ出るなにかを堪えるように強く唇を噛みしめると、その顔を俯かせて表情を隠した。

 その肩が、震える。


「君がッ……君が、そんなふうだから!」

「…………」

「嫌いになれるわけがないだろう……! 辺境の小さな村で育ち、外の世界も見たことがない子供だというのに、君は勇者となった! 見も知らぬ人々のために全てを背負うと決めた! そうして身を削って必死に勇者として在ろうとする者のことを、どうして疎んじられる!?」


 強く握りしめた拳を、何度も地面に叩きつける。


「だがッ、だからこそ、君のような人こそが、生きて幸せになるべきだったのだ! 民の上に立つ我々こそが、背負うべき責だった!」

「…………」

「なのに、できなかった! 不甲斐ない私達では、君の代わりとなることはできなかったのだ!」

 

 激情。彼がこれほどの思いを秘めていたことなど、気づきもしなかった。

 騎士グレンは、もっと冷たい人間だと思っていた。

 貴族らしい貴族。誰に対しても丁寧な態度を崩さなかったが、それでも他者をいつも見下げているのだと思っていた。

 思い違い、だった。


「ほかの誰かが、気に病むことなんて、ないんです。僕が、ひとりで決めたことなんですから。あなた方は、みんなは、少しやさしすぎる。……眩しいぐらいに」


 アベルが、私を見て、目を細める。


「そうしないと守れないものがあったから、僕は、剣を取っただけなんだ。本当に、たったそれだけのことなのに。僕も、僕よりも前に剣を手にした人達も、皆……」


 彼がそう言ったときだ。


《――――――》


 音が、生まれた。

 空間の全てに響く、鈴の音にも似た音の連なり。


《そこに、だれか、いるのですか》


 声、だった。

 か細く、弱々しい、しかし水のように透き通った美しい声。


 アベルが、騎士グレンが、振り向く。

 彼らが視線を向けた先は、この空間における唯一の光源――青い光を帯びた氷柱。

 先もちらりと垣間見えたが、その内側、ちょうど中心のあたりになにか影のようなものがあった。

 地面から少し離れた高さに、浮くようにして静止している。

 あれは……人?

 

《――――》


 そのとき、また鈴の音がして、柱の発する光が強くなった。

 その姿がはっきりと見えるようになる。


 まちがいなく、人だった。

 女性。二十歳をいくつか越えたぐらいだろうか。

 ゆるく波打つ紫色の髪が、水の中に散るように広がった状態で止まっている。

 身につけているのは、精緻な装飾が施された鎧。特別に誂えられたのがよくわかる、豪奢で華美な作り。

 しかしそれを台無しにしているのは、鎧の上を無数に走る大小様々な傷。

 剣や槍というよりは、獣の爪や牙によってつけられた痕に見える。


 彼女は、胸の前で両手を組み合わせて、祈りを捧げるかのように瞼を下ろしていた。

 美しい人、だと思う。

 特徴らしい特徴があるわけではないが、目鼻立ち全ての均整が取れており、瑕疵、欠けたところが見当たらないといった美しさ。

 祈りを捧げているように見える姿勢も相まって、私の目には彼女がひどく神聖な存在であるように映った。

 どこか、アベルに似た雰囲気を持っていたからだろうか。


《どうか、わたしに、終わりを》


 柱の中に閉じ込められて、彼女は微動だにしていない。

 しかし彼女と思しき声が、空間の全てから響いてくる。


《わたしは、■■――……いえ、わたしは、魔王》


 声は、告げる。


《魔王アスラ・・・エレイオン・・・・・


 聞き覚えのある名を口にして。


《どうか、わたしに終わりを。そして、人類に、救いを》


 切なさに満ちた声で。


《今代の勇者――其処にあり、いずれわたし(魔王)に至るもの》


 全ての真実を、明らかにする。


《わたしの次の、世界の生贄アスラ・エレイオンよ》

 





 そして、私達の旅は、終わる。 


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