それが運命だと言うのなら ④ [イザーナ]
私が目を覚ましたとき、まず初めに感じたのは酷い頭痛と吐き気、そして全身を支配する倦怠感――。
端的に言って、最悪の気分だった。
マナが枯渇するまで魔術を使い続けた弊害である。魔物との初戦に極限魔術を放ったときでも、いくらかは余力を残していた。ここまでマナを絞り尽くしたことはいまだかつてなく、本当に初めてのことだった。
まさか、これほどに酷い気分になるとは。
――いや。
どうやら、それだけが原因でもないようだった。
次に意識されたのは、まるで暴れ馬に乗っているかのごとき凄まじい上下の揺れと、万力で締め付けられているような、腹部の強烈な圧迫感。
息苦しさと、揺れによる酔いが余計に私の身体に負担を掛けているらしかった。
「……ぅ、ぁ」
たまらず呻き声を上げると、しばしの間があったあとで「起きたか」と頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
騎士グレン。
それで、私は自分が彼の脇に荷物のように抱えられていることを知った。
視線を横に向ければ、逆の腕には同じようにアベルが抱えられており、力なく項垂れた彼の身体は、騎士グレンが足元を蹴りつけて跳躍する度に激しく揺れる。
跳躍。
そう。騎士グレンは、跳んでいた。階段を駆け上がるように足元のなにかを蹴りだし、より高みへと昇っていく。
足元。
そこで初めて、私は視線を下へ――地面があるであろう場所へ向けた。
「――――」
背筋が、ゾッとした。
地面が、ない。なにも、ない。
いや、あるといえばあった。地上は、目眩がするほどの遠く彼方に存在していた。
その地表では、砂粒のように小さい黒点――魔物の群れがうぞうぞと蠢いている。
なんで、どうして。
混乱しているうちに、再び身体に激しい揺れが走る。これまでにない衝撃。
騎士グレンが、岩壁に突き刺さった棒状のなにかを蹴りつけて、一際強く跳躍したのだ。
放たれた矢のように天へ突き進む反動で、腹部にまわされた騎士グレンの腕がそれまで以上に強くめり込んでくる。
「ッ――ッッ――!」
息が、できない。血の気が、引く。くらり、と目眩。
強烈な荷重は十秒ほど続いたあとで、消える。ほんの少しの間をおいて、跳躍の最高到達地点に達した身体が、今度は落下を始めた。
身体全体が、浮遊感に包まれる。
落ちてゆくのは、彼方の地上ではなく、より近い距離にある面――崖上の縁だった。
どうやら、この断崖絶壁を登りきったらしい。
予想していたよりも軽い衝撃とともに、着地する。
「辿り着いた、か。ここが、《墳墓台地》。そしてあれが……《棺の塔》」
ぼそり、と誰にともなく騎士グレンが呟く。
頭を上げて、私もそれを見た。
石塔。
頂点を見てとることもできないほど天高く伸びた、巨大な塔。
いや、それを塔と呼んでもいいものか。
その構造物をもっとも的確に言い表すとすれば、巨木の幹、だろうか。
塔の外周部、外壁は起伏に富んでおり、滑らかさや均一といったものは感じられない。まるで樹皮のように細かくひび割れ、ところどころではめくれ上がってさえいて、全体的に歪に節くれだっていた。
敢えてそう造られたというよりは、自然によって形作られたといったほうが相応しい印象。
人工的、作為的な要素が、それからはほとんど感じられなかった。
自然に生えていた巨木が、なんらかの原因で石になってしまったものと言われたほうが、よほどしっくりくる。
「…………」
しばらく、私は声を失ったままでそれを見上げていた。
たとえそれが建造物であろうが、自然物であろうが、見たものを圧倒する強大な存在感を放っていることに変わりはなかったのだ。
それは私だけでなく、騎士グレンも、アベルも同様で――。
「え?」
そこで、ようやくに、気づく。
いや、或いはとうに気づいていたのに、気づかないふりをしていたのか。
「フレイシア、さんは……?」
「…………」
答えは、返ってこなかった。
恐るおそる、視線を騎士グレンに、アベルに向ける。しかしふたりはこちらを見ようとはしなかった。
視線を伏せて、無言で首を横に振る。
「う、そだよね……? 嘘、だよ。だって、あの人は、私を妹にするって。お姉ちゃんになるって」
「…………」
「やさしくしてくれた! 私みたいな礼儀知らずの田舎者にも、きちんと向き合ってくれて! 守ってくれた!」
「…………」
「そんな、そんなことって……!」
私を抱える騎士グレンの腕を摑んで揺さぶり、訴えるが、言葉は虚しく響くだけだった。
全ては手遅れだったのだ。
先ほど上空からちらりと見えた地上は、少しの隙間もなく魔物で埋め尽くされていた。
あの中に人間がいて、無事で済むはずがない。
「イザーナ殿。フレイシア殿は、騎士として最後までその務めを果たしたのだ」
伏せていた眼差しを上げて、再び塔を見やった騎士グレンは、こちらを見ぬままに、言う。
「ならば我々も、為すべきことを為し、果たさねばならぬ。託されたものを無為にせぬために」
「…………」
「嘆いている暇なぞ、ない」
反射的に言い返そうとして、寸前で口をつぐむ。
その通りだったからだ。今は、感傷に浸っている余裕なんて、なかった。こうしている間も、置いてきた騎士や兵は聖剣の加護を受けられないまま、魔物の脅威にさらされ続けているのだ。
それに、フレイシアさんだけでなく、ベイルさんだって。
私達を先に向かわせるために――。
「っ……!」
弱い言葉が、口をから零れ落ちそうになるのを、唇を噛みしめることで堪える。
一刻も早く、目的を達さなければならなかった。
「……が、やはりそう容易くは行かせてくれぬか」
私が改めて覚悟を決めたとき、騎士グレンの舌打ちが聞こえて。
ここからそう離れていない場所で、なにか、恐ろしい気配が、生まれた。
「ッ!?」
ハッと顔を上げる。
その気配の源は、塔の根元、入り口らしき巨大な扉の近くにあった。
その一帯は、台地の上のみならず地上まで伸びる、巨塔が作りだす影で闇に包まれている。
明暗がくっきりと分かたれた空間。
その暗のほうから、ゆっくりとなにかが姿を現そうとしていた。
黒い、鎧だ。
細やかな装飾が施された、上等そうな全身鎧。武骨さの中にところどころ柔らかな線が混じっており、なんとなく女性用の鎧という印象を受ける。
それは剣を持ち、盾を持ち、しかし兜だけがなかった。いや、正確に言うならば、頭部そのものが――本来あるべき鎧の中身が存在していなかった。
代わりに靄のような暗闇、《瘴気》がぽっかりと空いた首元から立ち昇っている。
「かつての、残照……亡霊」
アベルの呻くような声が聞こえた。
「地下空洞から、這い上がってきたのか……」
《瘴気》をまとっている以上、あれも魔物の一種なのだろう。
闇色に染まった全身鎧は、キィキィ、ギィギィと不吉な音を立てながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
距離が縮まるごとに、鎧から感じられる――叩きつけられる気配が、強く濃くなっていく。
冷たく、鋭く、生理的な嫌悪感を刺激される悍ましき意気。
敵意、害意、憎悪、憤怒、執着。
それらがどろどろに溶け合って、ひとつになったかのような、重く濃密な想念。
全身の肌が粟立つ。
魔物からそのような感情を感じ取ったのは、初めてのことだった。
人間に対する害意や敵意を除けば、魔物の性質というのは獣、或いは虫に近い。それゆえに憎しみや執着など人間的な想念を抱くということは、本来あり得ないはずなのだ。
それを魔物が発しているということに、生理的な悍ましさを覚える。嫌悪が、生じる。
あの首なし鎧は、これまで目にしてきた魔物とは根本的に異なるなにかだった。
「なるほど、亡霊か。言い得て妙だな」
アベルの言葉を聞いた騎士グレンは、吐き捨てるようにそう言ってから、両脇に抱えた荷物――私達の身体を地面に落とした。
突然のことに、受け身も取れず倒れ込む。
非難の声を上げようとするが、騎士グレンの酷く強張った表情が目に入って、息を呑んだ。
「見覚えのある家紋、見覚えのある装飾と型の剣、盾……。あれを、私は知っている」
緊張、だろうか。
騎士グレンの身体にそれが走っていることに、私は気づく。
いや、それだけではなかった。
「先代勇者と共に魔王討伐に向かい、しかし帰ることのなかった当時の最強。与えられていた己が役割を放棄して、この地に留まった者。その身に流れる血の責務を、全うできなかった恥晒し」
緊張とともに、彼の顔には明確な怒りが浮かんでいた。
燃えるような憤りをその眼にのせて、騎士グレンは首なし鎧を睨みつける。
そして、その名を口にした。
「姫騎士ユーリアル」
その言葉に応えるかのように。
首なし鎧は握った剣を、天高く掲げた。
《――――――》
同時に、その鎧のどこから発せられているのか、警笛のような、或いは女性の悲鳴のような甲高い音が響き渡る。
それがなんらかの合図になっていたのか。
音が途切れた次の瞬間、首なし鎧の姿が視界からこつ然と消え失せた。
「チィッ――!」
騎士グレンの舌打ち。
金属と金属が激しくぶつかり合う音と衝撃。
それらが、ほぼ同時に生じた。
見れば、いつの間にか首なし鎧が私達のすぐ間近まで迫っており、庇うように立ちはだかった騎士グレンと鍔迫り合いを演じている。
動きが、まったく見えなかった。
瞬間移動したかのような、私の知覚を大きく超えた速度。
戦慄に、背筋が震える。
騎士グレンが間に入らなければ、気づかないうちに斬り捨てられていたかもしれなかった。
「ここは私が引き受ける! ふたりは塔へ!」
こちらに背を向けたままの騎士グレンの叫びに、私はアベルを見やる。彼もまた、こちらを見ていた。お互いに膝をついた状態で、見つめ合う。
「イザーナ、いけるね?」
「もちろん。ここまで来て、弱音なんか吐かないよ」
頷き合った私達は、歯を食いしばって膝に力を込める。
ふらつきながらも、地面を踏みしめて、立ち上がった。
「騎士グレン。わずかですが、加護を残していきます」
背中から聖剣を引き抜いたアベルは、その切っ先を、鍔迫り合いながらも均衡を保つ騎士グレンへ向ける。
銀の祝福が降り注いだ。
《――――》
瞬間。
その光に、なぜか首なし鎧のほうが激しい反応を見せた。熱いものに触れたとき人がそうするように、身体を震わせて後ろに飛び退いたのだ。
その予想外の反応に、駆け出そうとしていた私とアベルは思わず足を止める。
無意識に、舌打ちが漏れていた。この場を脱する折角の機を、逃してしまった。
仕方がない。
再び機を窺うために、私達は騎士グレンの背後から首なし鎧の様子を見やる。
騎士グレンから距離をとった首なし鎧は、しばし、地に縫い付けられかのように身動きを止めていた。
その意識が銀の光に、もっと言うならば聖剣を握るアベルに向けられていることが、なんとなくではあるが伝わってくる。
今の首なし鎧の様相は、人で言えば呆然自失している状態に近いだろうか。
《…………、》
首なし鎧は右手を剣の柄から離すと、アベルに向かってゆっくりと差し伸ばす。
あたかも、暗闇で光を求めるかのように。
焦がれてやまないなにかを摑もうとするかの如く。
それを。
「未練がましいぞ、ご先祖――!」
騎士グレンの剣が、一刀両断のもとに斬り捨てた。
首なし鎧の肘より先が断たれて、地面に落ちる。傷口から《瘴気》が血液のように噴き出した。
《――――!!》
声にならない叫びが、大気を震わす。
首なし鎧の発する敵意、憎悪がこれまで以上に膨れ上がった。
「ふたりとも、行けェ――ッ!」
首なし鎧が動きだすよりも早く騎士グレンが斬りかかり、叫ぶ。
その声に、私達は弾かれたように走りだした。
「決して後ろを振り返るな! こいつは私が必ず押しとどめる! だから前へ、先へ進み続けろ!」
背中越しの言葉を聞きながら、今にも倒れこみそうになる身体に鞭打って、夢中で足を動かす。
半歩前を行く、聖剣を握ったままのアベルの背を追って、ひたすらに。
より早く足を前に出して。
より力強く地面を蹴りつけて。
最後の力を振り絞って、駆ける。
やがて、私達の身体は巨塔が作りだす影の内に入った。
日差しが塔に隠れ、周囲が薄暗くなる。しかしそれでも、足元が覚束なくなるほどではない。目指す地点――塔の入り口らしき大きな扉もしっかりと視認できていた。
徐々に徐々に、その扉が近づいてくる。
樹木のような様相を見せる外壁の中にあって、その箇所だけが異質だった。
寸分の歪みもないよう見える、真四角にくり抜かれた空間。
ぽっかりと空いたその部分を塞ぐように鎮座する、複雑な文様が彫り込まれた両開きの扉。
明らかに人工的なものとわかる作り。
そこだけが、自然物めいた外観の中で、取ってつけたように周囲から浮いていた。
また、近づくにつれその扉が予想以上に巨大であることがわかってきた。
比較対象が天を突く巨塔であったため錯覚していたが、扉の実際の大きさは、私の背を五倍しても届かないほどの高さ、幅がある。
厚みもかなりありそうで、扉の総重量は相当なものになるだろう。
果たしてあれを私達ふたりだけで開くことができるのか。それとも自動的に開く仕組みにでもなっているのか。
そんな心配がふと脳裏をよぎるが、すぐに消える。
思考に割く余力さえ、今の私からは失われつつあったからだ。
「ッ……、――、……ッ」
息はすでに上がりきっており、全身は酷い倦怠感に包まれて、手足には力がうまく入らない。
しかしそれでも、走り続ける。
それだけが今の私にできることだった。
必死に、アベルの背中を追っていく。
やがて、私達は扉のすぐ手前にまで達する。
塔そのものが巨大過ぎて遠近感が狂っているが、たしかに距離は縮まっていたのだ。
扉まで、あとわずか。もうすぐで辿り着く。
見上げるほど巨大な扉が。
目の前に。
「――――」
そのとき。
背後に、とてつもなく嫌な気配を感じた。
首なし鎧のものとは異なる、不快で不穏な感覚。危機感。
それが唐突に現れた。
無視することなど到底できそうもなく、私は騎士グレンの言葉に逆らい、振り返る。
「――――あ」
闇が、そこにあった。
光を一切発することなき、暗闇。
影。
私達の周囲、地面の上に広がる影の一部がめくれ上がり、まるで生き物のように立ち上がっていた。
その数は、十を軽く超える。
以前にも、私はその影を目にしたことがあった。
影魔。
隠密能力に優れ、人の背後から忍び寄り、心臓を一突きにする魔物。
今まさに、その通りのことが起きようとしていた。
立ち上がった影のそれぞれから、何十もの触手――鋭さに満ちた黒き槍が射出されようとしている。
それらが向かう先は、私ではなかった。
アベル。
私の先を進む、彼だった。
今から警告を発したところで、間に合わない。刹那のあとには、もう発射されている。
時間が、ひどくゆっくりと進んでいた。
全ての動きが、止まって見える。
どうすればいい。どうすれば彼を守ることができる。
警告が無駄なら、魔術だって詠唱している暇などない。あれを防げるような盾も持っていない。打ち払う武器だってない。いや、たとえ武器があっても、それを扱う訓練をしたことがない私ではどのみち不可能だ。
ならばどうする。どうすれば彼を守ることが――。
盾。
思い至る。
あった。都合よく、あった。
それは、ここにある。
私の身体がある――!
彼の身体を突き飛ばす。後ろを完全に振り返る。両腕を横に広げる。
そうやって、肉の盾として全ての攻撃を私が受け止めれば。
彼は生き延びることができるかもしれない。
身体が動きはじめる。思いつきを実行すべく、私の意思に従って――。
「そうくるのは、わかっていたさ……! この世界に生まれ落ちるずっと前からッ!」
銀の輝きが、目の前を横切っていった。
「え?」
アベル。
聖剣を構えた彼が、影魔に向かって飛びかかっていく。
射出される全ての黒槍をかわし、弾き、受け流し、一閃、二閃、次々に影魔を斬り捨てる。
その動きは、素早さと力強さに満ちていた。
先ほどまでの走るのがやっとだった人物と同じであるとは、とても思えない。
「今このときのためにッ、僕はッ、剣を振ってきたんだ――!」
ほとんど、絶叫に近い声だった。
どこにそんな力が残っていたのか。
そう思ったところで、私は自分のまちがいに気づく。
「ぁ……や、」
それは、おそらく、燃え尽きる寸前の蝋燭の炎のようなものだった。
一振りごとに聖剣が眩い輝きを放ち、その都度彼の中から、なにか致命的なものが失われていく。
それが、わかってしまった。彼の大切なものが零れていくのを、私の魂が感じ取っていたのだ。
彼は、すでに限界を超えていた。
踏み越えてはならない地点を、越えてしまっていた。
叫ぶ。
もうやめて、と悲鳴を上げる。
けれど、彼は止まらなかった。全てを燃やし尽くすかのように、眩い輝きを放ちながら、駆けていく。
消えていく。
消えてしまう。
彼が彼で在るために大切なものが、こぼれ落ちていく。
―――――――――。
そうやって。
ようやく彼が止まったのは、全ての影魔を倒したあとで。
そのときにはもう、彼の持つ聖剣からは、銀の輝きが消えていたのだ。
おそらく、永遠に。
「…………ぁぁ」
影魔の消滅を確認して、こちらを振り返った彼は。
虚ろな眼差しを私に向けて、言う。
「運命は、変えられた。君を……守ることができたよ」
微笑む。
とてもうれしそうに。
心の底から、よかった、と言うように。
「さあ、行こう。あとは、魔王を止めてあげるだけだ」
彼は私に顔を向けてそう告げるけれど。
その焦点が私に合うことは、決してなかった。
歩きだした彼は、私の横をふらふらと抜けていきながら。
小さく、掠れた声で、呟く。
「全てを、終わらせるんだ」
そして、私達はついに辿り着く。
《棺の塔》――魔王の待つ場所へ。




