約束はこの胸に ② [イザーナ]
この夜の魔物の襲撃は、かつてないほど大規模なものだった。
総数がいつもの倍近いことに加えて、一部の人間にしか対処できない超大型の竜魔が何十体も群れの中に紛れていた。
戦闘が始まってからほんの一刻ほどで、死者の数はそれまでの最大値を超過してしまう。
その主な原因は、多数の竜魔――ではなかった。
もちろん、その影響が一切ないわけではなく、竜魔の暴威によって命を落とす兵もたしかに一定数存在していた。
しかし一方で、竜魔が確認されていない一帯でも、というより、むしろそちらのほうが死傷者の数は多かったのだ。
これまでにはなかったことだ。
ただ魔物の数が多いだけであれば、負傷者が増えこそすれ、死者がこれほど増える事態にはならないはずだからだ。
兵達は、即死さえしなければ大抵はなんとかなるという、アベルの《神秘》を前提とした戦術によって、即死だけはなんとしてでも回避するよう鍛えられてきた。
それに彼らには、ここまで戦い続けてきた経験もある。
五倍、十倍ならまだしも、今更、敵の数が倍に増えた程度で対処できなくなるなどということは、本来であればないはずなのだ。
ならばつまり、この事態を引き起こしている原因は敵の数でなく、その質にあるのだろう。
百戦錬磨の兵に対して即死に近い傷を負わせることのできる強力な魔物が、竜魔以外に存在しているということだ。
しかし、私達――アベルやガリオス様が詰める指揮所に届けられる各所の報告には、そういった存在の情報はなかった。
命を落とした者は、いつの間にか心臓を一突きにされて倒れていたのだという。周囲の人間が、誰も気づかぬうちに。
ほんの少し目を離した間のことであるらしい。
「心臓を、一突き……?」
伝令の兵士がガリオス様へ報告しているのを近くで聞いていたアベルが、そんな呟きを漏らす。
小さな声だったが、すぐそばにいた私の耳には辛うじて届いていた。
現在、私達は湖を背にした場所に陣取り、戦況を見守っている。
一応背後への注意も怠っていないが、水棲の魔物が存在しないこと、魔物が湖とは真逆の方角から――つまり私達を湖と挟み込むようにして攻めてきていることなどから、この位置であれば基本的に背後の心配はないとガリオス様が判断した。
ゆえに、この場所に指揮所を構え、私達は前方より攻めくる魔物に対応していた。
最高の戦闘力を持つが、最上の指揮官でもあるガリオス様は前線にでるわけにもいかず、いつものように後方で指揮を取っており、魔物との戦闘の要になる勇者たるアベルも、同様にこうして後方に控えていた。
そして私はと言えば――。
「《放て。穿て。墜ちよ。此処に。其処に。終わりを》」
唱句によって指定の命令を実行させる。
それに応えて、戦場の上空、夜空に煌々と浮かぶ巨大な炎の球体より小さな炎がいくつも分離し、槍の形を取った。
炎の槍は弓矢のような速さで撃ち出されると、空を飛ぶ魔物を次々に貫いていき、次の瞬間には燃え上がらせる。そしてそのまま、塵ひとつ残さず焼き尽くしてしまう。
これが、私の役割だった。
基本的には空を飛ぶ魔物を優先して仕留めていき、支援の要請があればその一帯に大量の炎槍を打ち込む。また、夜であれば今のように光源の代わりにもなった。
事前に遠方から敵を発見できていれば、極限魔術で一掃することも可能なのだが、時間帯が夜であり発見が遅れたためその手を使う時間的余裕は持てなかった。
すでに敵味方入り乱れての混戦となっている。
空には一帯をうっすらと照らす赤々とした炎の星。
周囲に広がるは果ての見えない砂漠。
その中を、かすかな銀光をまとった人々が動き回って、暗黒の魔と対峙していた。
「隠密に優れ、心臓を一突きにする魔物……まさか。いや、でも」
また、アベルの考え込むような呟きが耳に入った。
視線を戦場から切って、隣へ向ける。
戦場では常にそうであるように、大地に突き立てた聖剣の柄の上に両手を重ねて立つ彼は、どうしてかその視線を私へ向けていた。
けれど、違和感があった。たしかに私を見ているのに、別のなにかを重ねて見ているような。
「あれは、もっとあとの……それこそ最後の」
「アベル?」
私が声を掛けると、彼はハッと我に返ったように、目を瞬かせる。
「なにか、心当たりがるの?」
「……あるといえば、ある。正しいかどうかはわからないけれど」
苦い顔でそう答えた彼は、表情を引き締めると、ガリオス様に振り返った。
「ガリオス様! 兵を殺して回っているのは、もしかするとシャドウ――影型の魔物かもしれません!」
「影型、だと?」
魔物分類において、そのような名前は聞いたことがなかった。それはガリオス様も同じだったのだろう、アベルの言葉に彼は眉を顰めて聞き返す。
「はい。日中であれば影に、夜や暗所であればそれに加えて闇に潜み姿を隠して近づき、奇襲を掛ける魔物です。本体そのものの戦闘能力はさほど高くありませんが、その隠密能力が厄介で、余程勘に優れた者でなければ感知することもできません」
「なるほど。つまり、この不快感の原因がそれということか」
納得したように頷くなり、ガリオス様は腰の剣を引き抜いて、背後の地面に突き刺した。
そこにあったのは、上空の炎球によって作り出されたうっすらとした自身の影。
瞬間。
《――――!》
耳障りな奇声が上がって、その影の内からなにかが溢れでてきた。
魔物のまとう《瘴気》だけがそのまま意思を持って動きだしたかのような、不定形の闇の塊。
影から姿を表したそれは、水たまりのように地面の上に広がると、次の行動を起こすよりも前に、ガリオス様の剣が発した強い青銀の光に飲み込まれ、消えていった。
まったく、気がつかなかった。
あれが自分だったらと思うと、ゾッとする。それを目にした周囲の騎士や兵が慌てて自分の影に剣を突き立て、私も炎槍を打ち込むが、とくに変化は現れない。
このあたりには、他にあの魔物はいないようだった。
「まちがい、ない……! 影型の魔物です」
アベルが、消えた不定形の魔物を見て吐き捨てるように言った。彼にしてみれば珍しいことに、その顔に憎々しげな表情を浮かべている。
余程、あの魔物が嫌いらしい。
「ふむ。アベル殿、対処法に心当たりは?」
「日中であれば今のように影に剣を差し入れるだけで済みますが、今は時間が悪い。隠れ潜む場所が多すぎます。他に弱点と言えば、光ですね。一度、戦場全体を強烈な光で照らすことができれば、大半はあぶり出すことができるかと思います」
「今の光量では無理なのだな?」
「おそらく」
アベルの答えを聞いたガリオス様は、その視線を私に向ける。
「イザーナ殿。そのような魔術の心得は?」
「残念ながら」
私は首を横に振る。
アベルが知っていた私の完成形唱句はそのほとんどが攻撃的な魔術であったし、私もとにかく戦力として必要される魔術を優先して修得した。そのため、攻撃魔術以外はほとんど覚えていなかった。一年半の短い間で実戦に堪える魔術を身につけるには、そうするしかなかったのだ。
「そういった魔術自体は存在しているのか?」
「小規模なものであれば昔から確認されていますが、この戦場全体を照らすほどとなると……」
国の記録には、そこまでの規模の照明魔術は記録されていなかった。明かりを求めるだけなら、そのように規模を大きくする意味がなかったからだ。
ただ難易度自体は高くはないため、研究をすればさほど時間を掛けず新たに創り上げることは可能だろう。が、さすがに今この場でというのは無理な話だ。
それだけの規模の魔術、暴走すればとんでもないことになる。
「ならば」
ガリオス様の視線が、再びアベルに向けられた。
それを受けて、彼は頷く。
「私がやります。《神秘》の聖光であれば、やつらをあぶり出すこともできるでしょう」
「アベル……大丈夫なの?」
即答した彼に、私は思わず聞き返していた。
今回の戦闘、襲撃に気づくのが遅れたこと、多数の竜魔の存在、影型の魔物などによって戦列が乱れに乱れており、戦いの場はかなり広範囲にわたっている。
その全てを覆うほど大規模な《神秘》を、これまでアベルが使用したことはなかった。
アベルは心配する私の目を見返して微笑む。
「大丈夫だよ。僕が倒れたら、この戦場どころか人類そのものが魔物に抗う手段を失ってしまうんだから、そんな危険は侵さないよ。僕は、そこまで馬鹿じゃない」
「……それは、わかってるけど」
そう言われてしまっては、私は引き下がるしかない。それが必要なことであるのは、わかりきっていたからだ。
「アベル殿。本当に、問題はないのだな?」
いつの間にか近寄ってきていたガリオス様が、アベルを見下ろして問いかける。
「この戦闘だけではない。今後にも多大な影響があるようならば、今回は多少被害が増えようとこのまま様子を見るという手もある。死者の数が多いとは言っても、軍が崩壊するほどではないからな」
「いえ。重ねて申しますが、大丈夫です」
ガリオス様を見上げて、はっきりとアベルは言い切った。
その眼差しは、強い。
「救える命がそこにあるのならば、ひとつ残らず救います。もとよりこの力は、そのために天より与えられたもの。救われぬものを救うために、私は、僕は、この剣を手にしたのです」
アベルはそう言うと、一瞬だけ私に視線を向ける。
「初めは、ただのひとりでした。その一のために全を救おうと決意しました。……けれど、今ではもうこの旅を共にする全ての人が、仲間が、僕にとってのそれなのです。ならばなおさら、彼らが散っていくのを黙って見ているわけにはいきません」
私を、周囲の騎士や兵を、ガリオス様を順に見やって、アベルは笑う。
力強く、眩いばかりの意思を眼に込めて、言う。
「救われぬものを救ってこその勇者であり――僕は、ただひとりの勇者なのです」
その意思は、たしかな熱をもって私達に伝わる。
聖剣を介して、想いは伝播する。
近くから、遠くから。
戦場のあちこちから、声が上がる。アベルの名を呼ぶ声が唱和する。
そこに、苦しい戦況、強大な魔物、未知の魔物に対する絶望など微塵も存在していなかった。
まるで、私達の全てがひとつになったかのような一体感。
燃えるような血潮が、全身を駆け巡っていた。
「……なるほど。たしかに、御身は勇者である」
ガリオス様は、ふっと笑みを零した。
それは一言では言い表すことができない、複雑な表情だった。呆れ、諦念、寂寥。それらが絡み合ったような微笑。
「ならば、己が欲するままに為せばよい。私は、それを可能な限り後押ししよう」
肩に手をのせて告げるガリオス様に、彼は「はい」と深く頷いた。
「では、詠唱に入ります」
そうして、彼は聖句を唱えはじめて。
やがて戦場の全てを、天から降った光が呑み込んだのだ。
全てが、輝きに満ちる。
まるで夜が昼になってしまったかのような。
或いは、ここが天上かと錯覚するほどに美しい光景だった――のちに、誰もがそう口にした。
戦いが終わりを告げたのは、魔物の襲撃があってから二日後のことだった。
あれから。
アベルの《神秘》によって、影の魔物――影魔はそのほとんどが姿を暴かれ、消えていった。
しかし、この戦の本番はそこからだったのだ。
魔物の数が当初の四分の一ほどまで減ったころで、魔物の増援が現れたのだ。それも当初と同じだけ数、規模。当然、そこには竜魔や影魔も含まれていた。
アベルは、再び大規模な《神秘》を行使した。
一度だけでも相当に顔色は悪くなっていたのだが、二度目以降は肌から完全に血の気が引いて青を通り越して真っ白になっていた。
瞳は焦点を失い、前髪は冷や汗で額にべったりと張り付き、呼吸は浅く喉の奥からはひゅうひゅうと喘鳴を漏らす。
膝からも力が抜けているようで、聖剣に縋りついて辛うじて立っているといった有様だった。
けれど、それでも決してアベルは倒れなかった。
聖剣の加護を維持し、あまつさえそのような状態でありながら負傷者を癒やすために《神秘》を使い続けた。
そうやっておよそ二日間。
一睡することもなく戦い続け、私達はなんとか此度の襲撃を乗り切った。
その規模も、倒すために要した時間も――そして死者の数も、これまでで最大となった戦いだった。
しかしそれでも、私達は今回もまた勝利したのだ。
アベルは魔物が休眠状態に陥ってもなお、力の行使をやめなかった。
その最後の一体が倒されるのを確認するまで、耐えて、耐えて、それから数時間経過して完全に魔物の群れが駆逐されたところで、ふつりと糸が切れたように意識を失った。
最悪の予感が頭をよぎったが、幸いそのような事態には至らず、気絶しただけだった。
とても無事といえるような状態ではなかったが、命が危ぶまれるほどでもなく、安堵した途端、私も彼の上に折り重なるように倒れてしまった。
意識を失う直前に見たのは、慌てて駆け寄ってくるフレイシアさんとベイルさんの姿だった。
私が目を覚ましたのはそれから半日ほど経ってからのことだったが、そのときにはまだアベルは意識を取り戻してはいなかった。
彼の覚醒は、それからさらに半日を待つ必要があった。
仮にこの間に再び襲撃があれば、叩き起こしてでも戦いに駆りださなければならなかったが、幸いそのようなことはなく、彼をゆっくりと休ませることができたのは素直によかったと思う。
けれど彼に付ききりで看病していた私からすると、このまま永遠に目を覚ますことがないのではという不安がどうしても付きまとい、しっかりと休んでほしいと思う一方で、一刻も早い目覚めを願っていた。
彼が、死んだように静謐な眠りに落ちていたからかもしれない。
やがてアベルが目を覚ますと、彼の天幕前にはそれを聞きつけた大勢の兵や騎士が集まった。
取り乱したりする者はいなかったが、自分達の希望であるアベルが意識を取り戻さないことに、やはり彼らも不安に思っていたのだろう。
彼らを安心させるためにひと目アベルが姿を見せると、沈みがちだった彼らの雰囲気が明るいものへと変わる。
それは瞬く間に軍の中に広まっていき、やがて気分を高揚させた彼らはアベルの天幕の周囲で密やかな祝杯をあげはじめた。
補給のたびにわずかしか持ち込まれない貴重な酒だったが、この際に大盤振る舞いすることを決めたようだった。
ガリオス様も、苦笑しつつも許可を出していた。先の戦いはこれまでになく激しいものだったため、息抜きも必要だと判断したらしい。
もちろん、いざというときに即応できる兵をきちんと残した上での話である。
珍しく、アベルも酒宴に混ざっていた。
私の肩を借りながら兵の間を歩いてまわり、彼らひとりひとりの顔を確認するように見ていく。
それで、気づいた。
彼は、この場にいない者――命を落とした人間を心に刻みつけようとしているのだと。
彼は笑っていたけれど、どこか寂しそうでもあったから。
そうやって時間を掛けて軍のほとんどを見て回ると、天幕に戻ってまた眠りについた。
その際、相当な量のお酒を口にして深酔いしたアベルから、彼の本音の一端を聞くことができて、不謹慎だけれど私は内心で喜んでしまった。
私のために、戦うことを決めてくれた、と。
――愚かな、ことに。
その日の深夜のことだ。
夜更けに目を覚ました私は、用を足すために自分の天幕――フレイシアさんと同じ場所――を出て、湖のほうへ向かっていた。
しかしその途中、アベルの天幕からわずかに光が漏れていることに気づいて、立ち止まる。
こんな時間に、アベルも目を覚ましたのだろうか。
だったら、少しお話したいな――そんなことを思って、私は足の向かう先を彼の天幕へ変えた。幸い、本来の目的のほうはまだ余裕があったし、なにより用を足したあとに彼のもとへ向かうのは、気分的に憚られたからだ。
出入り口で護衛に立つ守護騎士ふたりに声を掛けて、中に入る。
彼の天幕は勇者用ということもあってか、作りが一際豪華だった。単純な広さもそうだが、内側は用途別に空間が区切られていて、寝所に向かうにはさらにいくつかの仕切りをくぐっていく必要があった。
その最後の仕切りに手を掛けようとしたときのことである。
「アベル殿。どうして、あのような真似をなさったのです?」
内側からそんな声が聞こえてきて、私は動きを止めた。アベルとは別の男性のものである。
「あそこは危険を冒すような場面ではなかった。たしかに未知の魔物の存在で兵達は浮足立っていましたが、壊滅するほどではありませんでした。あのまま放っておいたとしても、いずれ致命的な損害を受ける前には対応していたはずです。……その場合は、現状より多くの犠牲が出ていたでしょうが、あなたを失うことに比べれば大した被害ではない」
「…………」
「あなたはもっと自分のことを案じるべきだ。その身には、より多くの人々の命がかかっているのです。魔術とは異なり、聖剣や《聖人》の力は、使えば使うほど目減りし、決して回復することがないことをあなたもわかっているでしょう? あれらが奪っていくのは、あなたが存在するために必要な力なのですから」
――頭が、真っ白になった。
その言葉の意味を、理解できない。
今、この声の主は、なんと。
「生命力たるマナよりも、もっと根源的な力――魂そのものを削り取り燃料にしていくのは、想像を絶する苦痛と恐怖があるはずだ。ならば振るわずにいられるのであれば、それに越したことはないはずです。事実、それが原因で他の《聖人》は己の力を滅多に見せることがないのですから」
「…………」
「あなたもそうすればよろしいのだ。多少の犠牲になど目を瞑って、ただ目的を完遂するためだけに効率の良い方法を取ればよいのです。父上とてわかっているはずだというのに、どうして止めなかったのか……! 此度の戦であなたが受けた苦痛は、まったくもって無駄であると言うしかない」
「…………」
「小に拘り大を生かすことができぬ者に、人類の全てを背負わなければならぬ勇者が、どうして務まりましょうか? やはりあなたには、勇者である資――」
「騎士グレン」
「……なんです?」
「誰か、そこにいます」
そのアベルの声に、私は反応することができなかった。
先ほどの声――騎士グレンの言葉が頭の中に木霊して、私の脳は現実を認識することを拒んでいた。
だから、仕切りの垂れ布を上げてその向こうから騎士グレンが顔をのぞかせるまで、この場から逃げることもこちらから声を掛けることもできず、立ち尽くしているしかなかったのだ。
「……迂闊。周囲の気配に気づかぬとは」
彼は私を見下ろしながら、呟く。眉間には皺が寄っており、眼差しはきつい。
「入っておいで、イザーナ」
しばらく、どうしたものかと難しげなな顔で騎士グレンは私を見ていたが、そこに中から声が掛かった。
アベルだ。その驚きが感じられない様子から、彼はここに私がいることに気づいていたようだった。
立ちふさがっていた騎士グレンは、軽く溜め息を吐くと、身体を横にずらして私を中に招き入れる。
ふらふらと入ってきた私を見て、奥の簡易椅子に腰を下ろしていたアベルは、困ったように笑った。
「アベル……さっきの話、本当なの?」
心の底では、彼が否定することを期待していた。
そんなわけがないよ、と笑って首を振ってくれることを願っていた。
「うん、まあね。《神秘》や聖剣の行使によって削られた魂が、マナのように回復することがないっていうのは、本当だよ」
でも、彼は否定しなかったのだ。
目の前にやってきた私を見上げて、しかと頷く。その顔に悲嘆の色はなかった。全てを受け入れたかのような透明な笑みが浮かんでいる。
「そんな、じゃあ、アベルは、このままだと」
「でも、大丈夫なんだ」
その言葉に。
私だけでなく、背後で騎士グレンも驚く気配が伝わってきた。
「イザーナ。僕は、君に約束したろう? 君のことを必ず守るって」
「……うん」
「そんな僕が、君を残して先に逝くわけないじゃないか。死んだら、君を守ることができなくなってしまう。だから、僕が君より先に死ぬなんてこと、絶対にない。誓うよ」
私は、アベルの瞳を覗き込む。
その言葉が真実なのか、見通そうとした。
彼の目には、陰りも嘘の色もなかった。まるで澄み渡った水のように、一切の濁りなく透き通ったきれいな眼。そのあまりに清く美しい瞳に、一瞬、なにかを思い出しそうになったけれど、すぐにそれは消えていった。
私は、彼が嘘を口にしていないと、信じた。
「……でも、これからも戦い続けていくためには力を使わないといけないでしょ? 実際、どうするの?」
私のその問いにも、彼はわかっているというふうに頷く。
「僕がただの《聖人》だったら、どうしようもなかった。けれど勇者なら、魂の一片さえ残っていればその命を永らえさせることができる手段があるんだよ」
その眼差しに、やはり嘘はなかった。
少なくとも、私にはそう思えた。
「むしろそれこそが、勇者が真に特別である所以なのだから。このことは彼もご存知のはずだよ。――ですよね?」
そう言って私の背後に向けられたアベルの視線を追って、振り返る。
騎士、グレン。
「それを。それを、私の口から、言わせるつもりか……!」
びくり、と身体をすくめて、驚く。
騎士グレンは、これまで目にしたことがないほど険しい形相で、アベルを睨みつけていた。
その拳は強く握りしめられ、細かく震えている。今にも襲いかかってきそうなほどに激高している様子に、私は目を見張る。
彼がここまで感情を露わにするのを初めて見た。理由が、わからない。
「でも、本当のことでしょう? 先ほどあなたは、大を生かすためには小に拘るべきではないと仰った。ならば大きな戦力たる彼女を安心して戦いに臨ませるために、瑣末な拘りは捨てるべきではありませんか?」
アベルは騎士グレンの反応も予想済みだったのか、動揺した様子もなく、苦笑しつつ言葉を返す。
「……あなたには申し訳ないと思います。けれど、僕が勇者であることは、もうどうあっても変えることはできないんです。あなたではその資格を得られなかったということも、また。あなたがいくらそれを望んでも、それが叶うことは……きっとありません」
「ッ……!」
そっと目を伏せるアベルを、騎士グレンはしばらく射殺すような目つきで見ていた。
私にはなにがなんだからわからないが、アベルの言葉が彼の神経を強く逆撫でしていることだけはたしかなようだった。
一触即発といった張り詰めた空気が続く。
しかしそれも長い時間のことではなかった。唐突に、騎士グレンの発していた怒気が緩む。がっくりと力なく肩を落とした彼は、深く、溜め息を吐いた。
「……たしかに。勇者には、命を永らえさせる術があります。魔王を倒しさえすれば、ああ、たしかに、彼があなたより先に死ぬことはないでしょう」
こちらには顔を向けず、視線を伏せたまま騎士グレンは言う。
どこか、投げやりな態度だった。その口元は自嘲するかのように歪んでいる。
「これまで勇者が魔王を滅ぼして、帰還しなかった例はないのですから。……アベル殿」
騎士グレンは彼の名を口にして、伏せていた眼差しを上げた。
アベルを真っ直ぐに見つめると、
「勇者は、やはり我々を理解しない。人心を、あまりにたやすく切り捨てる」
吐き捨てるように言って、こちらに背を向けた。
そのまま出ていこうとする彼に、アベルが声を掛ける。
「騎士グレン。先ほどの話ですが……僕にとっての『大』は、この旅をともにする全ての人なんです。そこに、『小』なんてものはひとつも存在しません。……もちろん、あなただって。僕はあなたのことだって、守りたいと思っています」
その言葉に、騎士グレンは勢いよく振り返った。
表情を歪めて、なにかを口にしようとする。
「…………ッ」
けれど、結局なにも言わずに。
悄然と項垂れると、無言で去っていった。
見間違いかもしれなかったけれど、最後に見た騎士グレンの顔に浮かんでいたのは、泣き出す寸前の子供のような表情だった。
「イザーナ……それで、納得はした?」
しばらく経って、黙り込んでいたアベルが口を開いた。
先ほどのことを説明するつもりはないようだった。おそらく、騎士グレンとの個人的なことなのだろう。私も、無理に聞き出すつもりはなかった。
「……うん。一応は」
「一応、か。僕って、そんなに信用ないかな?」
私の答えに、アベルは苦笑する。
「そんなことないけど、アベルはひとりで抱え込む癖があるから。もっと、私達のことを頼ってくれてもいいのに」
「イザーナのことは誰よりも頼りにしてるよ。その力も、心も」
当然のことのように笑って言われて、うれしくなってしまう。
相変わらず、私は単純だった。それだけで不安なんか吹き飛んでしまうのだから。
「イザーナ。かならず、魔王を倒そう。お互いに無事なまま、旅を終わらせよう」
アベルのその言葉に、私も笑い返して、頷いた。
彼と一緒ならば、きっとどんな場所にだって辿り着ける。
このとき、そう、私は思ったのだ。