あなたと共にいるために ③ [イザーナ]
魔術とはマナ、或いは生命力とも呼ばれる、生物に例外なく備わっている根源的な力を燃料として行使される。
魔術行使が可能な者のうち、一定以上の力量を持ち国家に認定された存在を魔術師と呼び、基準に満たない者、或いは力量があっても資格を有していない者を魔術使いと呼んで区別している。
また、騎士でありながら魔術師の資格を併せ持つ者は、ときに魔術騎士と呼ばれることもあった。
人は誰でもマナを体内に保有しており、騎士は特殊な修練を積むことで多少なりとも身体機能を強化することが可能になるらしいが、魔術を行使するには単なる技術以上の、ある先天的な感覚器官を必要とする。
それが、いわゆる詠唱機構と呼ばれるものだ。
体内のマナを利用して、世界そのものへ干渉するための無形器官。
詠唱機構を有する存在は、正しくその機能を働かせれば常人の何倍もマナの動きに敏感になり、操作もたやすくなる。
故郷の村を魔物が襲ったとき、私が魔物の魔術の一種らしき攻撃を察知できたのは、無意識にこの機構を稼働させ、その力の源――マナの動きを捉えていたからだ。
しかし、マナの感知や操作自体は常人であっても修練を重ねることで身につけることができる。よって詠唱機構にとって、その機能はおまけのようなものにすぎない。
詠唱機構の真価は、己の声にマナを込めることで、音を通して世界そのものへ働きかけることができるという点にあった。
世界の基盤への干渉。こればかりは、詠唱機構を有している者にしかできないのだ。
と言っても、世界を己の意のまま、自由自在に変えられるわけではない。
望む現象を起こすためには、それに対応した特定の手順というものがあるからだ。
師によれば、この世界の内で起こり得るあらゆる現象は、予め世界という枠組みそのものに刻み込まれているらしい。
木々が燃えるのは、『燃える』という目には見えない仕組みが世界にあるからで、現実において燃焼という現象が起きるのは、燃えやすいものに熱を与えるなど、物理的な手順を踏むことでこの仕組みが発動するからなのだそうだ。
一方魔術とは、マナを含んだ声――詠唱によって本来必要なあらゆる手順を省いて、この予め定められている『仕組み』を直で発動させる術だ。
しかしながら、詠唱による干渉も単純に「燃えろ」と口にすればその通りの現象が起こるわけではない。
こちらはこちらで手順というものが存在するためだ。
特定の『仕組み』――現象回路を詠唱によって発動させるには、それに対応した特定の音の連なりが必要とされる。
これが、魔術師が術を行使する前に唱えている言葉――唱句である。
唱句は世界によって厳密に定められた基準であるから、正しく効果を発揮するためには一字一句のまちがいも許されない。
加えて、唱える声の大小、高低、抑揚、速度も重要だった。
基準からほんのわずかでもズレてしまうと、まったく別の現象回路が発動したり、或いは発動自体せず、無意味にマナを消費する羽目となるのだ。
そして魔術の真に厄介なところは、ふたりの魔術師がまったく同じ声の大きさ、高さ、抑揚、速度で詠唱しても、生じる結果が同じにはならない、という点にある。
これは、個々人の声質の差が原因であると言われている。
人の声がそれぞれで異なるために、同じ唱句を唱えても、術者によって対応する現象回路が変わってしまうのだそうだ。
用いる言葉そのものよりも音の響き、目には見えない音の形が重要なのだ――とは師の言葉である。
ともあれ、この性質のせいで、魔術は学問のように知識・技術を受け継ぎ、発展させていくということができない。
先人の唱句がまったく参考にならないため、魔術師は誰しも一から手探りで独自の唱句を作り上げていく必要があるからだ。
この点が、魔術が汎用性、発展性に欠ける一代限りの力と言われる所以だ。
ただ、先人の残した知識が全て無用の長物かと言えば、そうでもない。中には有用なものもあった。
それが魔術総事典である。
これまでに確認された、魔術として実際に起こされたことがある現象と、その際に用いられた唱句の例がまとめられた書物。
記載された唱句はまったく当てにならないが、この書によって私達は『魔術として起こり得る現象』の知識を得ることができる。
平易に説明すると、たとえば詠唱実験において『赤』という唱句で周囲の空気が暖かくなったと感じたとする。
似たような現象は以前にも確認されており、事典によればその魔術は《放熱》と定義されている。
《放熱》は《対象指定》の魔術と組み合わせることで特定の物体に熱を与えることができると記載があるため、もしすでに《対象指定》の唱句を発見していれば、続けて詠唱することでその魔術が行使可能になる、というわけだ。
もちろん、一見同じように見えて実はまったく別の現象だったということもざらにあるため、そうそう上手くはいかないのだけれど。
ゆえに魔術師には、己の術によって生じた現象を正しく把握するためにも、世界の成り立ち、物事の仕組みなどの広範な知識が求められる。
私が宮廷魔術師たる師に教えを乞うていたのは、主にそういった知識だった。
しかしあくまでそれは知識のみの話であって、魔術そのものを行使する能力は、やはり己ひとりで世界と向き合って研鑽を積んでいくしかない。
便利な魔術、強力な魔術を習得するためには、試行と失敗を繰り返しながら地道に経験を積み上げていく必要があるのだ。
中にはその過程で想定外の現象――暴走に遭遇して己の術で命を落とすこともあった。
そうやって常に危険と隣り合わせの道を歩みながら、少しずつ実力をつけていき、やがて一人前の魔術師と認められるには、どれだけ早くとも十年を要する。
それが、魔術師という存在だった。
その中にあって、私はわずか一年半という短さで、それも過去に類を見ないほど強力無比な魔術を行使し得る魔術師になっていた。
周囲は、そんな私を天才というより、異端児として扱った。
師の化け物を見るような目を、今でも覚えている。
しかし、私がこの短期間にそれほどの実力を身につけたのは、私自身の資質というより、アベルの力のおかげだった。
本来であれば、長い時間をかけて試行錯誤した果てに作り上げる唱句――その完成形を、どうしてかアベルが知っていたのだ。
天より授けられた知識だと、アベルは言う。
それが嘘であることはわかっていたけれど、私はなにも訊かなかった。
それで力を得ることができるなら、彼の隣に立つことができるなら、知識の出処なんて関係なかったのだ。
なにより、泣き出しそうな顔でそれを口にする彼を、問い詰められるはずもなかった。
唱句の完成形を知ったのならば、あとはそれを制御するだけだった。
詠唱の大きさ、高低、抑揚、速度。
何度も何度も試して、最適な詠唱を見つけだす。
その威力の大きさから危うい場面に遭遇することも度々あったが、それでも必死に研鑽を積んで――ついに、完全発動に至ったのだ。
《焔雷にして灼熱にして終焔》。
王国の歴史上において初めて認定された、極限魔術。
現時点で最大最強の魔術である。
私は、とうとう、彼の隣に立つ資格を得た。
そう、思ったのだ。
**********
私が意識を取り戻したとき、すでに日は暮れはじめていた。
遥か彼方、果てなき海の地平線に沈んでいるこうとする落陽が、天空を橙色に染めあげている。
「…………」
私は、地面に寝かされているようだった。
場所は、意識を失う前と同じ城壁の上。体には申し訳程度に布が掛けられていた。
上体を起こすと、周りを囲み護衛にあたっていた騎士のひとりが気づき、振り返る。
「これは魔術師殿。お気づきになられましたか」
騎士は私のそばで片膝をつくと、恭しい態度で声を掛けてきた。
もとから決して粗雑に扱われていたわけではないが、意識を失う前――あの魔術を放つ前に比べると、その扱いは格段に丁重になっていた。
それこそ、アベルと接するのと同じぐらいに。
もっとも、騎士がこちらに向ける感情は敬意というよりは畏怖に近いものだったけれど。
「おう、イザーナ嬢ちゃん。ようやくお目覚めだな」
「イザーナ。身体に変調はないか?」
離れたところにいたフレイシア様とベイル様のふたりも気づいて、こちらに歩み寄ってきた。
騎士の手を借りて、よろめきつつも立ち上がった私の全身を見やって、フレイシア様は安堵したように息を吐く。
「見たところ顔色も悪くないようだし、大丈夫そうだな」
「はい。ご心配いただきありがとございます」
私が頭を下げると、フレイシア様はその頭の上に手をのせてポンポンと叩いた。
「それにしても、お前の魔術は大したものだな。全力で放つとあれほどの威力になるとは、思ってもみなかった。さすがは《緋色の魔術姫》といったところか」
「……あの、その呼び方、やめてください。恥ずかしいです」
「たしかに、嬢ちゃんは姫というには、ちょいとちんちくりん過ぎるからな」
余計な口を挟んでくるベイル様の腹を、フレイシア様は肘打ちして強制的に黙らせる。
その顔には呆れが浮かんでいた。
「それで、戦況はどうなっていますか?」
私がそう訊ねると、表情を改めたフレイシア様は「今のところ、問題は起こっていない」と答えた。
顎で城壁の向こうを示し、ついてくるように促して歩きだす。
向かう先には、見覚えのある後ろ姿。背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ、白銀の鎧をまとった勇者――アベル。
銀に輝く聖剣を足元に突き刺し、その柄の上に両手を重ねた彼は、厳しい顔つきで戦場を睥睨している。
「ん……イザーナ。よかった。目を覚ましたんだね」
近づく私達の気配に気づいたのか、こちらを振り向いたアベルはその面差しを緩めてホッとしたように微笑んだ。
小さく頷きを返した私は、そのまま彼の隣まで移動する。
フレイシア様達は背後に控え、周囲の警護にあたるようだった。
数歩下がったところで立ち止まり、こちらに背を向ける。
「大口を叩いておきながら恥ずかしい限りだけれど、まだ戦は継続中だよ」
アベルは隣に立った私へ苦笑交じりにそう言うと、視線を戦場へ戻した。
私も、彼に倣い戦況を確認する。
魔物の数は、開戦当初に比べて大幅に減っていた。
意識を失う前に半数は私の魔術で焼き尽くしていたが、ここから見る限りでは、残り半分もその多くが姿を消していた。
一方で、騎士の数に大きな変わりはない。
戦列が崩れた様子もなく、その気配もなく、今このときも危なげなく順調に魔物を倒していっている。
当初あれだけ気圧されていたのはなんだったのかというほど、優勢に過ぎる戦況だった。
もっとも――。
「《これは神の御業である》」
それも、アベルがあってのことだ。
彼が聖句を唱えるのと同時、戦場に聖剣の銀光とは異なる、それでいて劣らぬ神聖さに満ちた純白の光が降り注ぐ。
これまでの勇者とは異なり、聖人の性質を兼ね備えた《聖勇者》たる彼にだけ許された御業。
彼は聖剣によって自分と繋がった兵の全てに、天上の奇跡たる癒しを与えることができるのだ。
さすがに範囲が大きすぎるため、以前とは異なり致命傷を瞬く間に治すということは難しい。
しかしそれでも危うい命を永らえさせることはできるし、後方に引いて安静にして、一定間隔ごとに行使される《神秘》を何度か受ければ、また戦闘に復帰することも不可能ではないのだ。
アベルの癒しは体力も回復させるため、極端な話、アベルさえ健在ならば、彼に率いられた軍勢は永遠に戦い続けることもできるだろう。
それが《聖勇者》アベルの力だった。
まるで人々を勝利させるためだけに天が与えたかのような、奇跡的な力。存在。
……一部の者の間で、予言じみた不可思議な知識のこともあって、《聖勇者》とは人の子ではなく神の現身であると信仰されつつあるのも、無理はないのかもしれない。
しかし、アベルは紛うことなく人間だ。
私と同じ年に同じ村に生まれて、同じときを過ごして、ともに育った。
その胸の内になにかを抱えてはいるけれど、それでも、純粋で傷つきやすく、寂しがり屋のただの男の子なのだ。
全知でも全能でもない。
その身がただの人である以上、彼の奇跡にだって限界はあった。
「――――、」
《神秘》を放ったアベルの身体が、力を失ったようにぐらりと傾いて、倒れそうになった。
とっさに支えようと横から腕を差し入れるが、身長差、体重差から、そのまま一緒に転げそうになってしまう。
だが寸前で力を取り戻したアベルが踏ん張って、危ういところで転倒を免れた。
「ありがとう。イザーナ……。みっともないところを見せちゃったね」
苦笑して、アベルは私から身体を離す。
その顔は、血の気が失せたように青白かった。冷や汗も浮かんでいる。
それでも笑おうとするその様が、とても痛々しく見えて、私は思わず「大丈夫?」と言ってしまった。
すぐに、後悔する。
大丈夫なわけがない。それでもやらなければならないことだから、無理を押して為しているのだ。
勇者や聖人に関する情報は禁秘であるため詳細は知らないが、魔術と同じで彼らの力も、なんの代償もなしに無制限に行使できるものではないようだった。
短期間に連続して放てば、いずれ限界が来るのも当然なのだ。
「そんな顔をしないで。大丈夫だよ」
私の頭を撫でたアベルは、仕方ないなあ、というように笑っている。
その顔には、先ほどよりいくらか血の気が戻っていた。
微かにではあるけれど、頬に赤みが差している。
「じきに、この戦も終わる。――そら、今日を締め括るに相応しい相手が来た」
アベルはそう言うと、空を見上げた。
橙色から薄紫へと変わりつつある日暮れの空。そのずっと上のほう、遥か天空。
そこに、いつの間にかぽつんと小さな黒点があった。
その黒点は、ちょうど戦場の中心となるあたりへ落下してきているようだった。
恐ろしいほどの、速度。まるで空を駆けるかのような速さで、落ちて――降下してくる。
そうやって近づくにつれ、徐々にその正確な規模、形が明らかになっていく。
人どころか、馬や平民の家さえも遥かに凌駕する巨大な体躯。
見るものに凶暴な印象を与える、まるで直立した蜥蜴のような姿。
そして、ただの蜥蜴にはあり得ない、背中から生える広大な翼。
私は、それを以前にも目にしたことがあった。
忘れられるはずもない。
背筋に、戦慄が走る。
「あれは、あのときと同じ……!」
竜型の魔物。
咆哮を上げたそれが、今まさに戦場へ到来しようとしていた。
とっさに魔術を放つために詠唱を始めるが、間に合わない。
急襲した竜魔は大地が近づくと翼を大きく広げて、その勢いを殺す。
そして地上の魔物と戦闘を続ける兵の頭上に陣取り、滞空すると、その口から真っ赤な炎を吐き出そうとする。
詠唱を続けながら、アベルに視線を向ける。
彼の聖剣ならば、あのときと同じようにここからでも。
「…………」
しかし、アベルに戦おうとする気配は微塵もなかった。
足元に突き立てた聖剣の柄に両手を置いたまま、じっと状況を見守っている。
「大丈夫だよ、イザーナ。これで、終わりだ」
彼の言葉が耳に伝わったのと時を同じくして。
咆哮が、轟いた。
振り向く。
竜魔のそれではなく――人の発した声。
声の主は、ひとりの騎士だった。
他よりも一際目立つ光り輝く鎧をまとった青年。
彼が、跳んでいた。
本来であれば人の身では見上げることしかできない高さ。竜魔が支配する天空へと、彼はその身ひとつで至っていた。
その青年の名を、私は知っていた。
グレン・ヴァンブレスト。
アベルの剣の師のひとりであり、現在の王国最強であるレイトナー公の息子。
武の頂きにもっとも近い存在と言われている騎士。
常人ではあり得ない跳躍を見せた彼は、滞空する竜魔さえも超えて、その頭上にまで達する。
反応が追いついていない眼下の竜魔を睨み据えた彼は、両手に握った大剣を力強く上段に構えた。
瞬間、それまで彼の全身を覆っていた聖剣による銀光が、色味を変える。
澄んだ青。以前にも一度だけ目にしたことがある、マナを武に転化した結果生じる闘気。それが混在した青銀へと。
掲げた大剣から青銀の輝きを迸らせ、彼は再度咆哮する。
「オ――、ア、ァ――――――ッ!!」
そして、その剣を振り下ろした。
溢れかえった青銀の光が、凄まじい勢いで竜魔に叩きつけられる。
光剣は、なんの抵抗もなく竜魔の身体に侵入した。
侵入して、刹那の間に通り抜ける。振り抜かれる。
呆気ないほど容易く、竜魔の身体は斜めに真っ二つに分断された。
斬った、というよりは剣身が通過した部分を力尽くで吹き飛ばしたというような、暴に満ちた一撃だった。
《――――――》
末期の声を上げることすらできず、割断された竜魔は空に消えていく。
霞のように、空間に溶けてその存在を失っていく。
その様を一瞥して、騎士グレンは大地へ戻っていった
一連の光景を目にしていた兵の間で歓声が上がる。
彼らの動きが、それまでに増して力強くなった。
もうじき日が落ちるというのに、一日中戦い続けているというのに、ここにきて士気が跳ね上がっていく。
そして。
「終わった」
アベルのその声とともに、残っていた魔物の群れが、突然身動きをやめた。
時が止まったかのように活動を停止させて、硬直する。
初めはその変化に戸惑ったが、すぐにアベルから思念が届く。
――魔王の一時的休眠。初戦の終了。魔物にとどめを。それで終わり。勝利。
一瞬の間があって。
爆発的な歓呼の叫びが、戦場に響き渡った。
勝利を謳う声。騎士グレンを称える声。私の名前を口にする人達もいて。
けれど、やはり最も多いのは《聖勇者》アベルを称える声だった。
彼らの視線が城壁に立つ私達に集まる。
それを受けてアベルは、照れたように頬を掻くと、地に突き立てていた聖剣を引き抜き天へと掲げた。
戦場の端々にまで聞こえるような大声で、告げる。
「この勝利は、これより続く長き戦の、些細な一歩でしかない!
然して、全ての始まりにして終わりへと続く、偉大なる一歩である!
ゆえに、私はあなた方へ告げよう!」
瞬間。
陽が、完全に落ちた。
世界が、夜へと変わる。
闇があたりを覆っていく。
その中で、彼の掲げた聖剣だけが眩い光を放っていた。
人々にとっての太陽は、いまだにここに存在していると主張するかのように、私達を明るく照らす。
《聖勇者》アベルは、私達に向けて、世界に向けて、宣言する。
「――ここより、救世を始める!!」
大歓声が、場に満ちた。
そのとき私達は。
たしかにそこに、伝説を見たのだ。




