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三節 それが叶わぬ願いと知りながら ① [ベイル・アーリオン]

 城内の広い練兵場の中心で、ふたりの人間が向かい合っている。


 一方は、少年。

 使い古した足甲、手甲、胸当てをまとい、手には刃引きした鋼の剣を握っている。

 年の頃は、十は越えているが、十の半ばには届いていないといった程度。

 いまだ幼さを色濃く残した少年の容姿は、先祖代々ただの平民であるとは思えないほどに貴族的――簡単に言えば、整っていた。

 太陽の光を反射して白く輝かせるさらりとした黒髪に、宝石のように澄んだ黒瞳、切れ長で涼しげな目元。

 日に晒されようと焼けることなく、その白さを失わないきめ細やかでなめらかな肌、薄紅色の小さな蕾のような唇。

 繊細な顔立ちで中性的、一見すると少女にも見える少年だった。

 

 対するは、少年より一回りも二回りも大きな体格の男だった。

 短く刈り上げた頭に、厳しい顔つきの、もうじき初老に差し掛かるだろうかという年齢。

 少年と同じく訓練用の防具を身に着け、剣を手にし、まるで大地に根が生えたかのようにどっしりとした佇まいを見せていた。


 少年は剣を正眼に構え、じりじりと相手との間合いを詰めていく。

 それに対して、男は片手に握った剣をだらりと下げたまま、構えることすらしていない。

 ただその鋭い眼だけが、低い位置にある少年の姿を見据えていた。


「ッは!」


 やがて、男の間合いまであと一歩というところで、少年は声を張り上げ、力強く踏み込んだ。

 緩から急へ。

 相手の間合いに入り込み、すぐに少年の間合いにも男の存在が入ってくる――という瞬間に、剣を握る男の右腕がほとんど兆しを見せぬまま動いた。

 下段から上段への斬り上げ。

 少年はこれを読んでいたのか、急制動を掛け、わずかに後ろに身体を反らすことでかわす。

 少年の鼻先を剣が通り過ぎていき、男の腕が天へと伸び、その懐ががら空きになった。

 

「せいッ!」


 その隙を逃さず、少年の剣が横薙ぎに振るわれる。

 剣は男の脇腹に吸い込まれるように突き進み――上空から落ちてきた剛剣に、一瞬で断たれた。

 練兵場に、なにかが砕け散る鈍い音が響く。

 

「ッ――――!!」


 次いで、押し殺した叫び。

 見れば、凄まじい剛剣によって打たれたそれ・・は、無残にも折れ曲がっていた。

 剣、ではない。

 握られていた剣はすでに少年の手を離れ、地面に転がっていた。

 

 男に打たれたのは、剣を握っていた少年の両腕・・だった。

 手首と肘の中間のところで、少年の腕は、本来曲がるはずのない方向に歪に曲がっていた。

 まるで骨抜きになったかのようにぷらぷらと、不気味に揺れている。

 折れた、どころではない。

 あの様では、おそらく粉々に砕け散ってしまっている。

 想像を絶する痛みを、少年は感じているはずだった。


 だが。

 それでも、少年が膝を折ることはなかった。

 真っ青になり、脂汗を顔中に浮かせながらも、男を見上げる瞳から力が失われることはない。


「……続けるか?」

「もちッ、ろん、です……!」

 

 厳しい顔つきを緩めず訊ねた男に、少年は歯を食いしばり、答えた。


「この程度で、音を上げるわけには、いきません」


 絞りだすような声でそう告げた少年は、地面に膝をつく。

 歪に折れ曲がり頼りなく揺れる手に噛み付くと、両手を無理矢理に組み合わせて、祈りの形を取らせる。

 強引に動かす度に激痛が走っているだろうに、少年の口から悲鳴が漏れることは一度もなかった。

 砕けそうなほどに奥歯を噛み締め、耐えている。


 そして、少年は聖句を口にした。

 

「――《これは神の御業であるアレイ・アルア・アーラッド》」


 長い詠唱のあと、結びの言葉を彼が告げたのと同時に、天から光が落ちる。

 少年の身体を包み、その傷を癒やしていく。


 ……何度見ても、この光景には圧倒されてしまう。

 日に何度も目にする奇跡だが、それでも、慣れるということがなかった。

 周囲で訓練していた騎士達もその手を止めて、呆然と光を見上げている。


 やがて光が消えれば、そこには健常な肉体へと戻った少年の姿。

 剣を拾って立ち上がった少年は、再びそれを男に向かって構えた。

 その目には、ただただ、力強い意思の炎が消えることなく燃え続けている。


「では、引き続きお願いします」

「……承知した」


 そうして、再びふたりの訓練は続けられた。


 少年は、一撃も入れることができず、男の容赦のない剣に幾度も倒れた。

 いまだ身体が出来上がっていない少年は、その度に、大きな傷を負う。

 骨が折れ、砕け、歯が折れ、肉が抉れ、眼球が潰れ、内臓が破裂し、血を吐き出す。

 常人であれば、とうに死んでいる。

 だが少年には奇跡――《神秘》があった。

 如何なる傷であろうと、死んでさえいなければ、たちどころに癒してしまう。

 ゆえに、少年はどれだけ傷つこうと、何度倒れようと、決して心折れることなく立ち上がった。

 

 事情を知らない者がいれば、これはなんの拷問かと止めに入ろうとするだろう。

 いや、事情を知っていたとしても、目の前で繰り広げられる凄惨な光景を直に見てしまえば、そうしたくもなる。

 傷ついているのは、いまだ成人してもいない子供なのだ。

 実際この訓練が開始された当初は、居合わせた騎士が幾度となく訓練内容を見直すよう進言していた。

 

 俺も、そのひとりだった。

 見ていられなかったのだ。剣を振るう術も知らない子供が、延々と痛めつけられるその姿を。

 始まったばかりの頃は、本当にひどかった。あれを訓練や稽古などと呼ぶことは、誰にもできないだろう。


 なにせ、少年を相手しているのは、この国でも最高の剣の腕を持った人間なのだから。

 抗うことすらできないのも当然の話なのだ。


 レイトナー公爵ガリオス・ヴァンブレスト。

 陛下の弟君であり、王国軍事力の頂点、国を守るべき騎士団の長。

 基本的にその立場は血筋と指揮能力によって選ばれ、個人の武力を問われることはないのだが、武勇に関しても頂点に立つに相応しい飛び抜けたものを有した異例の騎士団長である。

 騎士団の一員である俺の上司でもあった。


 対して団長が稽古をつける少年は、数ヶ月前に見出された新たな《聖人》であり、同時に人類にとってたったひとつの希望。

 その名前を、アベルと言う。

 聖代神殿長より授けられた称号は――《聖勇者》。

 歴史上初めて現れた《聖人》と《勇者》の両方の資格を兼ね備えた、奇跡そのものである。


 だからこそ、なおさら周囲はこの拷問じみた訓練を止めようとした。

 アベルは、決して失われてはならない存在なのだから。

 だが、決して勇者は首を縦に振らなかった。


『これは、必要なことなのです。ゆっくりと力をつけている時間は、我々には残っていません。勇者であるこの身が前線に立つことはそうないでしょうが、それでも最低限自分の身を守れる程度の技術は身につけておく必要があります。どのような手段を使っても、私は自身を早急にそのように作り変えなければならないのです』 


 時に未来を見通したかのようなことを口にする《聖勇者》の言葉である。

 そう言われてしまっては、誰も表立って反論することはできなかった。

 

 幸い現在のところ、魔物は勇者が現れたあの日以来、行動を起こしていない。

 あの日とて魔物の大規模な襲撃があったわけではなかったのだ。

 現れたのは、一体だけ。

 竜型の魔物。辺境にいた俺達のところ――アベルの村にまでやって来たあいつだけだったのだ。

 あの魔物はたった一体で魔王領の奥深くより現れると、境界線に築いた防壁を飛び越え、詰めていた兵士を無視して、内陸にまで飛来した。

 おそらくなんらかの方法で聖剣の存在を感知したのだろう、という話だ。

 

 それから数ヶ月経過しているが、あいつ以外の魔物が現れたという報告は今のところなかった。

 魔物の活動が確認された以上、魔王が復活したことはまちがいない。

 しかしいまだ完全には覚醒していないのだろう、というのが神殿の見解だった。

 

 ゆえに、アベルの言葉も理解できるのだ。

 いずれ魔物との、存亡を賭けた大きな戦が始まるのは確定している。

 それがどれだけ先のことなのかは不明だが、時間の問題というのもたしかだ。

 俺達には時間がない。勇者には、真に勇者として在ってもらわなければならない。

 たとえその勇者がまだ子供であろうと、それを理由に責務を放棄していいはずがない。


 だが。

 だがそれでも、だ。物には限度があるように思う。

 拷問のような光景を見せられて、平静を保てというのもなかなかに難しいことだった。


 俺達は民を守るべき騎士であり、子供を守るべき大人だった。

 戦う術も知らない辺境の小さな村の無垢な目をした子供が、ただ苦痛を受け続ける姿を見ていることしかできないというのは、どうしようもなく堪えた。

 しかし、そのような『傲慢』な気持ちは、やがて俺達の中から消えていくことになる。


「はあッ――!」

  

 鈍い音が、聞こえた。

 視線を向ければ、その先ではアベルが団長の胴に一撃を入れていた。

 深くは入っておらず、軽く当たった程度でしかないが、それでも一撃は一撃である。


 常識的に考えれば、あり得ない光景だった。

 たしかに、アベルには剣の才能がある。天才とまではいかないが、長い時間を鍛錬に費やせばそう呼ばれる者らと同じ領域にまで達することも不可能ではない。

 しかしアベルは、まだ剣を握ってから一年と経っていないのだ。身体とて完全には出来上がっていない。

 そんな存在がこの国の武人の頂点である団長へ一撃を当てるなど、あり得ることではなかった。


 だが、それをアベルは、地獄のような鍛錬の果てに可能としたのだ。

 常人であれば幾度も死んでいるような日々だった。

 たとえ《神秘》があろうとも、肉体的に無事であろうと、ただの人間であれば精神的に死ぬか狂ってしまうだろう日々だった。


 その日々をアベルは、我らの勇者は、真っ直ぐで力強い光を瞳に灯したまま、乗り越えたのだ。

 その眩さに、その力強さに、俺達は考えを改めさせられた。

 特別な力や才能があるから、勇者として選ばれたのではない。

 あの心だ。決して屈さず、折れず、真っ直ぐ前へ突き進む心の強さこそが、勇者たる最大の証なのだ。


 誰もが、その姿に光を見た。

 希望を見た。

 未来を、幻視した。


 もうアベルを子供であると、ただ守られるだけの存在と見ることは誰にもできなくなっていた。

 むしろ、負けていられないと騎士達はみな奮起した。

 

 ――これが勇者であると、誰もが認めた。


「一撃、入れたか……」


 団長が、自分の胴に触れた剣を見下ろし、言う。

 その口許は、わずかにつり上がっていた。

 

「では、本日の訓練はここまでとする」

「あ、ありがとう、ござい、ましたッ」


 剣を引いた団長に合わせてこちらも剣を引いたアベルが、息も絶え絶えに頭を下げる。


「うむ。……よく、やったな」


 アベルの頭を軽くぽんぽんと叩いて、珍しくお褒めの言葉を口にした団長は、俺に目配せをしてから、練兵場を去っていった。

 その姿が城内に消えるまで見送ると、途端にアベルは力尽きたように地面にへたり込んだ。

 そのまま土の上に身体を投げ出して、大の字になる。

 その顔には、色濃い疲労がにじんでいた。


「本日も鍛錬お疲れ様です、勇者殿。よろしければ、こちらをどうぞ」


 立ち上がれないでいるアベルのもとに歩み寄って、腰にさげていた水筒を抜き取って鼻先に差し出す。

 気づいたアベルはこちらを見上げると、しかめた顔でそれを受け取った。


「あの、ベイルさん。その呼び方っていうか話し方、止めてくださいって、言いましたよね?」

「おやおや、勇者殿におかれましては、なにかご不満でもございましたか?」

「フレイシアさんもそうですけど、いつもそばにいる人にそんなに畏まられては、気が落ち着きませんから。あと正直、気持ち悪いです」


 横になったままのアベルは栓を抜いて筒の中身をがぶ飲みすると、乱雑に口許を拭ってそんなことをぬかしてくる。

 その言い様に、俺は肩を竦めて見せた。


「ずいぶんなことを言うじゃねえか、アベル。これでもおじさんは繊細な心の持ち主なんだから、あんまり邪険に扱ってくれるなよ」

「いや、ベイルさんはおじさんっていうほどの歳でもないと思いますけど……。あと、繊細でもないですよね?」

「いやいや、年頃の乙女のように傷つきやすいんだぜ、これでも」


 隣に腰を下ろしてそう答えると、アベルは呆れたように息を吐いた。


「そういうことばかり口にしているから、フレイシアさんやイザーナからの扱いがどんどん雑になっていくんですよ」

「ばっかお前、隊長やお嬢ちゃんのあの態度は、より親密になったからこそだろ。逆なんだよ、逆」

「うわー、ちょー、前向きー」

「褒めるなよ、照れるだろ?」


 そんな軽口を交わしている間に、疲労困憊という体だったアベルは、いくらか調子を取り戻したようだった。

 緩慢な動きで上体を起こす。


「そういえば昨日便りが届いていたみたいだったが、村のほうからか?」

「はい。陛下と神殿長のご厚意で、ありがたくも資材と人手を送っていただきましたから、村の再建も順調なようです。新たな地には以前よりも豊かな森と川もありますから、なんとか次の冬は無事越せそうだと報告を受けました」

「そりゃ……よかったな」

「はい」


 にこりとうれしげに笑うアベルの顔は、そのときだけは常の大人びた態度とは打って変わり、稚かった。

 それがこいつの素の表情なのだと思うと複雑な気分になるが、今更のことだ。

 もうこいつは、初めてあの村で会ったときの妙に落ち着いた変わった坊主でも、この大陸に現在は三人しかいない《神秘》を顕す《聖人》でもない。

 人類の希望、たったひとりの勇者なのだから。

 幼いままで、いることはできないのだ。


「あれだけの被害を受けて村人に死者がひとりも出なかったのは、あのとき村に滞在していた騎士――あなたの部下の方々の奮闘があったおかげです。中には、最初に襲撃を受けた時点で村の子供を庇って命を落とした騎士もいたと聞きました。……本当に、感謝してもしきれません」

 

 そう言ったアベルの眼差しは、遠いどこかに向けられていた。


「あいつらは……聖剣の秘密裏な探索回収を任されるだけあって、皆、優秀だった。なにより、気の良いやつらばかりだったよ。結局生き残ったのは、副隊長である俺と隊長だけだったが、あいつらは最期まで騎士としての務めを全うした」


 頭を過ぎるのは、かつて俺の部下だった者達の顔。

 あの魔物との激戦で、隊の頭ふたつを残して、全て命を散らしてしまった。

 しかし、その献身が無駄であったわけではない。たしかに聖剣は守りきり、それどころかあの一戦があったからこそ、目の前の勇者を見出すことができたのだ。


「もしも、僕がもっと早く戦うと決断していたなら……犠牲を少なくすることもできたのでしょうか?」

 

 声は、沈んでいた。

 その顔に浮かぶのは、後悔と罪悪感だろうか。

 時折、この子供は、こういった表情を見せる。


「どうだかな。あの状況でお前さんが試させてくれと言ったところで、俺達が了承したかどうか。仮に受け入れたとして、実行に移す隙があったかもわからん。それに、お前さんにも確信があったわけじゃないんだろ?」


 俺の言葉に、少し迷った末にアベルは頷いた。

 こいつは――アベルは、《聖人》であること、勇者であることを考慮してもなお、常人とは異なる不可思議を秘めた存在だった。

 知らないはずのことを知っていたり、未知の知識を持っていたり、時には未来や運命を見通したかのような言葉を口にする。

 

 しかしそれも、絶対ではない。 

 まちがうこともあれば、まったく見当違いの話をすることもある。

 アベルが言うには『ありえたかもしれない可能性の一端、限定されたごく一部を知っているにすぎない』ということらしい。

 

「たしかに僕には……アベルという人間・・・・・・・・には、勇者になる可能性があったんです。けれどこの僕・・・が本当に勇者足り得るのか、聖剣の試しを越えることができるのかはわかりませんでした。勇者としての資格は、特別な血筋とか存在に対して与えられるものではないからです。求められるものは、在り方――心とか覚悟のようなものなんです」


 アベルの視線が城の、勇者に与えられた部屋のあたりに向けられる。

 聖剣は現在、勇者の自室に安置されていた。その扉の前には常時守護騎士が警護に立っており、出入りを厳しく監視している。 

 王族お抱えの職人の手によって豪奢な作りの鞘を誂えられた聖剣は、基本的にそこから持ち出されることはない。

 勇者のお披露目や謁見、式典の際は当然勇者としての資格を示すために装備して行動したが、普段から持ち歩くことは推奨されていないのだ。

 

 聖剣とは即ち、天からの恩寵そのものである。

 ゆえに《聖人》の顕す《神秘》と同じく、みだりに人の目に晒すものではないというのが、神殿の意向だった。

 鍛錬の度にアベルは《神秘》を幾度も行使するが、本来であればそれもあまり褒められた行いではないのだ。

 状況が状況であるため、神殿からは黙認されているのだが。


「お前が言っていることは、なんとなくわかる。俺も一度は、あれを握ろうとしたからな」

 

 思い浮かぶのは、この世のものとは思えない神聖さを放つ一振りの剣。

 かつて俺達があれを見つけたとき、隊の騎士はその場で一通り資格があるかどうかを試した。

 聖剣の探索回収部隊の面々は、同時に勇者候補でもあったからだ。


 俺や隊長も、当然試した。

 そのときの感覚は、いまだに覚えている。

 ――一瞬にして永遠。

 具体的に思い出されるものはなにひとつないというのに、なにか強烈なものを叩きつけられたという実感だけが残っていた。

 同時に、理解させられる。まるで魂に直接刻み込まれたかのように。

 己にこの剣を振るう資格はないのだと。

 自分では足りない。耐えられない。

 そんなふうに、俺は感じた。


「アベル……お前さんは、どうしてあれを握ることができたんだ? 勇者になってからも、そうだ。鍛錬の度に拷問じみた苦痛を受けて、それでもなお折れることなく立ち上がることができるのは、なぜだ?」


 アベルという子供は、たしかに特別だ。

 《聖人》としての力も、理屈では説明できない内に秘めた不可思議さも、常人とは言い難い。

 十人に訊けば十人がこいつを『特別な存在』であると表現するだろう。


 しかしその精神は、大人びてはいるものの、俺達とそこまでかけ離れたものではなかった。

 同じようなことで笑い、喜び、怒る。

 同じようなことで迷い、後悔し、悲しみ、嘆く。

 聖剣の求めるものが精神にあるというならば、いったいどうしてこの子供がその資格を手にすることができたのだろう。


「守りたい、と思ったんです」


 俺の問いに、空を見上げてアベルは答えた。

 その目は空の果て、天を――いや、それよりもずっと遠くを見ているように、感じた。


「あの子を、死なせたくないって」

 

 アベルの瞼がゆっくりと下ろされる。

 閉ざされた視界に、なにを見たのか。


「イザーナには、生きて幸せになってほしいと、思ったんです」


 アベルの口許が、柔らかく笑んだ。

 それはどこまでも優しく、やわらかな微笑みだった。

 まるで汚れのない乙女のように、夢見るように、ただひとりの少年は日差しの中で、とても幸せそうに笑うのだ。

 その光景に、俺はいつかの未来を幻視した。

 成長したこいつとあのお嬢ちゃんが、寄り添って仲睦まじそうに笑い合う姿を。

 

「あのときの僕にあったのは、今もこの胸にあるのは、それだけです。それが僕のすべてなんです」


 瞼を開けたアベルは、そう言って、俺を見る。

 その眼差しは、どこまでも力強い。並々ならぬ覚悟があった。

 つまり、この勇者を成り立たせている根本は――。 


「愛の力ってわけか……参ったね、こりゃ」


 俺の言葉を聞いて、アベルの顔がぽかんとしたものになった。

 滅多に見ないこいつの間抜けな表情に、俺は自然と笑い声を漏らしていた。


「えっ、い、いや、愛とか、そういうんじゃなくて……え、ちがいますよ! あの子とはそういうんじゃないですから!」

「いや、お前さん、村でも告白じみたこと言ってただろうが。それでちがうとか、ないわー」

「いやいやいやいや! あれはそういう異性とかじゃなくて、家族としてですね! イザーナは妹みたいなものですし!」


 アベルの顔は、茹で上がったかのように真っ赤になっていた。

 慌てふためいて両手をぶんぶん振り回す様に、どうにも、腹の底からおかしさがこみ上がってきて、止まらない。

 

 人類の希望。 

 世界の守護者。

 唯一至上の存在である勇者は、たったひとりの好きな少女を守るために、全てを背負うと決めたのだ。


 義務や使命感ではなく。

 この上ない私情で、勇者として立ったのだ。

 その、なんと爽快なことか。


「アベル、だったらあれが運命だったんだろうよ」

「え?」

「お前の原動力がその想いだってんなら、きっとあのとき、あの場所、あの状況でなければ、お前は勇者たりうる覚悟を持てなかった」


 だから、俺の部下が死んだことを、お前が気に病む必要はない――そう、俺は告げた。


「…………」

「全ては無駄ではなかった、ってことさ。お前の迷いも、あいつらの献身も、お嬢ちゃんのあのときの頑張りも。全てがあったからこそ、今お前はここに勇者として在る。……そういうことなんだろう」


 俯いてしまったアベルの頭の上に手を乗せて、ぐしゃぐしゃとその髪をかき回す。

 

「もしそれでもお前が、あいつらの死に思うところがあるんなら、幸せになれ」

「……しあわせ、に?」

「おう、そうだよ。魔王なんざさっさとぶっ殺して、陛下から報奨金をがっぽりふんだくって、王都の一等地にでっかい家を建てて、きれいな嫁さんと――あのお嬢ちゃんと、末永く幸せに暮らせよ」

「…………」

「勇者であることが足かせになるんだったら、そんなもん捨てちまったっていいさ。雲隠れして、辺境でひっそりと暮らすという選択だってある。どういう形であれ、お前達が幸せになることがあいつらの一番望むことだろうよ」


 頭に俺の手を乗せたまま、しばらくアベルはなんの反応もしなかったが、やがて小さくこくりと頷いた。


「わかり、ました。必ず、幸せになります」


 顔を上げたアベルは、やたらと力強く、宣言する。


「よし、その意気だ。それに、あれだ。もし邪魔が入るようなら、俺がなんとかしてやる。なんせ俺はこれでも、勇者様の守護騎士のひとりだからな」

 

 冗談めかして俺が言うと、アベルはくすりと笑った。


「そのときは、よろしくお願いしますね。騎士ベイル・アーリオン」

「任されましたとも、《聖勇者》アベル殿」


 俺が拳を突き出すと、一拍遅れて、アベルがそれに合わせた。

 ふたりで、にやりと笑い合う。周囲の騎士達が、それを物珍しそうに見ている。

 そんな俺達に、遠いところから声が掛かった。

 黒のローブをまとった小さな姿が、すばしっこい動きで駆け寄ってくる。

 その少女を見て、騎士達が表情をほころばせる。

 

 穏やかな時間。

 

 いつかの俺とあいつの誓い。

 懐かしい日々の、出来事だった。


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