∞節 生まれいでて、死に失せる[×××]
どこの、なんという名前の国だったのかはわからない。
覚えているのは、とても貧しく、争いに満ちていたということ。
誰もがその心を荒ませていた。
正義とか善とかやさしさとか、そういったものはほとんど失われて、残っていたのはどれも醜いものばかり。
きれいなものなど、自分達とは縁遠い幻想の如きものでしかなかった。
「――ああ、なるほど。これはまちがえようもない。お前が、そうなんだな」
だから最初、ソレも自分のような存在とは関係しようがないものだと、幼い僕は思ったのだ。
そのとき、僕は薄暗い路地裏の、光の当たらない影に力なく座り込んでいた。
項垂れて、口には、鳥だか鼠だかよくわからないものの骨――数時間かけた残飯漁りの唯一の成果――を咥えていた。
考えていたのは、この骨はどのタイミングで噛み砕くべきかとか、次のなにかが見つかるまでとっておくべきかとか、そんなことだったように思う。
空腹で思考は鈍り、感情は希薄になっていた。
ゆえに、他人の気配が近づいてきて、頭の上でなにやら話し出しても、反応はしなかった。
けれど、なによりもその声が、まるで澄んだ鈴の音のようにきれいだったから。
だから、僕のようなみすぼらしい子供とそれは無関係なのだと、無意識のうちに判断していたのだ。
「これは、厄介だな。わかっていたことではあったが……まあ、いい」
声が途切れるのと同時。
僕の身体が、浮く。
襤褸切れのようなシャツ、その襟首を掴まれ持ち上げられたのだと気づいたのは、自分の足が地面から完全に離れてからだった。
抵抗する気力もなく、ただされるがまま手足をぶらつかせた僕を、相手は自分の視線の高さまで持ち上げた。
そのときになって初めて、僕の視界にその人の姿が入った。
美しい、女性だった。
年齢は、二十歳を越えたか越えないか、というぐらい。
このあたりでは珍しい、僕と同じ黒髪黒目で、それとは対称的に真っ白な肌。
目つきは鋭く、だがその眼差しに込められているのは敵意ではなく、もっとやわらかいもの。
おそらく、僕がこれまでに見たことがない類の感情だった。
不思議なことに、突然そのような扱いをされても、僕は怯えや恐怖などの思いは一切抱いていなかった。
ただ、この美しい人をもっと見ていたいと、そんなことを思っていた。
「お前は、今日から私の家族になる。許可は求めていない。これは決定事項だ」
ぼんやりと見返す僕へ淡々と告げたあと、一拍をおき、彼女はニヤリと口許だけで笑う。
そして。
「これから私のことは、おねえちゃんと呼べ」
初めて会ったばかりであるはずの、みすぼらしい孤児へ、そんなことを言ったのだ。
――それが、僕とあの人の出会いだった。
**********
そうして、なにがどうなっているのかわからないうちに、僕は日本という国へやってきていた。
見たことも聞いたこともないほどに、豊かで、穏やかで、平和な場所。
世界。
そこで僕は、あの人の弟という立場と新しい名前を手に入れ、暮らすようになった。
常識を覚え、読み書きを覚え、感情を覚えた。
怒ること、悲しむこと、喜ぶこと、楽しむこと――そして、誰かを愛し、愛されること。
それら全てをあの人が教えてくれた。
それは直接の言葉と行動だったり、或いはあの人が生み出す『物語』であったりした。
あの人。
姉は、いわゆる作家というものを職業としていた。
ときには小説家として、ときには漫画の原作者として、またあるときにはアニメや映画の脚本家として、多種多様な物語を描き、世に送り出し続けた。
僕が読み書きを覚えるのに使ったテキストも、姉の作品だった。
僕は貪るように、姉の生み出す物語を吸収した。
勇者と魔王の物語。
女王と英雄の物語。
聖女の救世譚。
親子の深い愛の物語。
魔法少女の英雄譚。
どれも、僕にとっては新鮮で、驚きに満ちて、わくわくして、ときには悲しい気持ちになることもあったけれど、大好きな物語ばかりだった。
多分、幼い僕にとって、世界は姉を中心としてまわっていた。
いや、世界そのもの、全てだったと言ってもいい。
だから。
『いつか、また、巡り会える』
僕があの人に拾われて数年経ったある日。
そんな書き置きを残し、突然あの人が失踪してしまったことで、僕の世界は粉々に砕け散った。
生きるいる意味を失って。
生きていく意味を失って。
生きるための意味を失って。
僕はなにをどうしたらよいのか、わからなくなってしまった。
ただあの人の姿を捜して、あてもなく街をうろついた。
何日も、何日も。
足が棒になっても、熱病が身体を蝕んでも、意識が朦朧となっても、さまよい続けた。
その、果てに。
「…………ああ」
僕は、命を落とすことになった。
最後のその場所は、光も当たらない薄暗い路地裏で。
地に倒れ伏した僕は、ビルの隙間からのぞく雨空を見上げていた。
『――ああ、なるほど』
澄んだ鈴の音が、聞こえた気がした。
いつかの光景を、幻視した。
けれどもう、僕を迎えに来てくれる誰かは、存在していなかった。
ひとり、僕は、力尽きたのだ。