8−8
『あの子には“媚香(びこう)”で眠ってもらったよ。不利益になる話が混じると困るだろう?』
上がりきらない語尾の音、問いかけまでいかない問いを寄越した男は、して、と彼に向き直る。
『あの子をどうするつもりで連れている?』
「……別にどうもしない気だが。そう変に勘ぐるな」
『そう言われても勘ぐらずにはいられないものだろう。人間の娘を守るなど、私の記憶に無いのだからな。———思えばこうして出会うのは、二千年ぶりにもなるか。次の“鍵”はその娘になる予定でも?』
イル・クオーレの言葉には“崩壊”の気配が潜む。
“鍵”というのは崩壊の“切っ掛け”であり、二千年という時の区切りにその意思が含まれるのだろうか、と。
少しだけ遠回しに問いかけた公爵は、もう一度、伏した娘に視線を向けた。
「なるほどな」
ふと零された男の声に、イル・クオーレはそれとなく意識を戻す。
「ベルが勇者に失恋でもして、こんな世界などいらないと言ったなら、終わらせるのも一興か」
クツクツと軽く笑った男を前に、魔公爵は短く息をつく。この男は毎度のこと、姿形や見せかけの人格が大きく変化するのだが、こういう所———“本質”はやはり少しも変わらない。
「人間の娘の失恋で終わる歴史というのもなかなか…その流れだと、あの勇者を最後にするのも面白いかもしれないな」
『……まぁ、その辺の筋書きは私にとってどうでもいいんだが。最近、エディアナに居たエル・フィオーネが枷を解かれて自由になったらしい』
「あぁ、パシーヴァを見かけたからな。そうだろうと思っていたさ。経緯(いきさつ)は知らないが、ベルが今の契約主だ」
『譲ったのか?エルが??あの子に???』
器用にも片眉を上げて驚く男は、ステッキに両手を乗せて軽く夜空を仰いでみせた。
『変わった娘も居るものだ。否、変わったのはエル・フィオーネの方かもしれないな』
言ったセリフのその中に、向けられた視線のその中に、ある出来事をほのめかし。
このままでも“いいのか?”と。
受けた男はふと笑い“それはそれで構わない”と。
無言の空気に言葉を乗せて、問いかけた男への返しとした。
「あれっ?アイツは?あの子連れて帰っちゃったの??」
人の子に向けた媚香のつもりが、ついでに落ちた可愛い馬鹿。
視界の端で気付きながらも積極的に放置したのは、その馬鹿のためでもある。
『帰るぞ』
短く、それでも充分に優しさを含む声音で囁けば、馬鹿はスクッと膝を立て不満気に問いかけてくる。
「なんで勝負しなかったんだよー。絶対勝てたよ、イル・クオーレ様ならさ。それに援護してくれたなら、オレでもきっと勝てたのにー」
いい歳をして子供のようにプクッと頬を膨らませた、どうしようもない馬鹿の子へ、それでもそこが可愛いなどと思ってしまう自分とは真性の変態か?と。初老の男は自身への呆れを乗せて言い放つ。
『馬鹿野郎。お前がアレに勝てるものかよ。身の程を弁えろ』
その言葉にムッとして押し黙った愛し子へ、思わず口をついて出たその言葉。
『……あれだけ実力に差があると、相手の強さが分からなくなるものなのか』
どこまでも残念そうに言ったのが効いたのか、金髪に覗く目がわずかに潤んだ気配がした。
「もうっ!なんでそんな毒舌なんだよっ!!」
『そう言ってもなぁ…。お前、かなり手加減されてたぞ。あの体でのパラメータ…見るに相当、地(ベース)が高い。どれだけの時間をかけて作り上げたものなのやら。魔法無しで相手をしてくれたんだ、あの男に感謝しておけ』
それだけ語り、後はせかすようにして、イル・クオーレは自陣を描き、ねぐらへの道を開いた。
振り返らずにそこへ進む自分の養い親を見て、若い男はわずかにツンとそっぽを向いたが、陣に消える瞬間にちらりとこちらを確認していく男の姿に気付いたら。慌てて立って、まるで自分を待ってくれているように残された赤い陣の向こうへと駆け寄るように消えて行く。
その頃、空はうっすらと、明けの光に青白く。
いつの間にやら賑わう音も余韻となって小さく響き、ベルだけが気付かずに、そうして祭りは終わりを迎えた。




