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“存在感”は亡き養父(ちち)に早いうちから習ったスキルで、当時は何に使うのか、それを得て何か都合の良いことがあるのだろうかと。そもそも目立つことを好まない自分にとって謎でしかなかったが。さすが“勇者”の先見性か、そんな養父の教えのおかげで、この身が勇者に転身してから済われることが少なくない。
寝具の側に立てかけた愛用の大剣に少しばかり魔力を乗せて、僅かながら自分の気配を保たせる。次いでスキルを意識して、通常Max状態の“存在感”をランク1まで押さえ込む。
こちらの足を上手い口実で引き止めてきた領主の娘は、明日で会えなくなるのが寂しいと早い時間からこの部屋に入り浸っていたのだが、少し前に豊穣祭の衣装合わせがどうとかで訪れた母親に引かれて行った。
とくにこの街に来てからというもの、朝から晩まで予定が細かに管理され、好きに過ごせる時間がなかった。
息抜きができない…というのは、世話になっておきながら不遜かと。
グランスルスのグレイシス家に悪いと思い、これまで優先的に王侯貴族の依頼を受けて来たのだが、そのせいで街に着くと知らせてもいないのに、いつも領主が迎えにくるのはいただけない…と。この考えも不遜かもしれないと息をつき、勇者の職で保たれる心理的な天秤の均衡を思うのだ。
とにかくこの隙を逃してしまうと、もう自由に過ごせる時間は無いだろう。
女性の相手は気を使うので、後からどっと疲れがくる。
疲れていると迂闊な事を口走ってしまうかもしれないと。
この辺りで休息をとっておかねば危ういとの思いから、この行動に至るのだ。
そう自分に言い聞かせるようにして、窓の外に広がった森に近い林へと視線を向けた。
出かけるという旨のライスへの伝言は、少し前に契約している精霊に頼んでおいた。
幸いにもこの部屋の窓は大きくて、林の方を向いている。
念のため遮蔽の魔法で漏れる音を遮って、辺りの気配を伺いながら窓枠に手を掛ける。誰の気配もないことを確認すると、ひと思いに地面に着地し素早く大木の陰に身を隠す。
習った当時は“命の危険”を想定し、真剣に養父の言葉を体と耳に刻んだものだが。まさかそれから十数年経った今、娘の相手が辛いからと逃走めいた状況で使う事になろうとは。
使い道はいろいろだ、と意味深な笑みを浮かべた懐かしい顔が浮かんできて、複雑な心境ながらあの人もそうだったのかと。
置いていかれた養母(はは)を思って苦いものがこみ上げたが、夕食の時間までそれほど時は残っていない。
少しでも軽い心に戻そうと街の方へ目を向けて、久しぶりに発泡酒でも飲もうかと足早に進んで行った。
遅くとも十八までにスキルとして“解毒”を覚えろ。魔力を消費することなく酔い覚ましができるようにな。
そんな養父の声が聞こえて、張りつめていた体が解れる。
高級な葡萄酒や名のある蒸留酒が嫌いな訳ではないのだが、発泡酒は気取らずに、大衆が賑やかに飲むイメージが強くあり、酒場で売られるそれを含むと、ほんの少し昔に戻れたような気がして心が浮かぶ。
存在感を薄くした今の自分は問題無く街にとけ込んで、普段感じる好奇の目を気にする事なく歩いて行ける。瓶に注いでもらった苦い味をもう一口と押し込んで、ゆったりとした歩調のままに夕刻の人の流れをぼんやり見つめた。
夕食の材料を籠に詰めた母親と、まだ友達と遊んでいたいというような顔をしながら手を引かれて歩く子供の姿。家族が待つ家に早く帰ろうと、土産を抱え足早に進む男の姿。今日最後の仕事だと、せいいっぱい声を張り上げる総菜売りや小間物、花屋の商売人達。場所は違えど普遍的な夕刻の街の表情に、憧憬の念を抱いている自分に気付く。
勇者にさえならなければ、貴族(いえ)の柵は多少あれど、今よりずっと穏やかな人生を歩めた筈なのに。
あの人に拾われるまで貧困層が暮らす路地の一角で生きていた孤児の自分は、収入に余裕ができたら自分だけの家族を持つ事を、いつかきっとと夢見てきたのだ。欲を言えば心の穏やかな女性と睦み、できれば子供も欲しかった。勇者などという者になってしまった今はもう、その願望は手放して。遅すぎる時間の歩みに身を沿わせるだけなのだ。
元々は衛兵の仕事をしていたのだし、モンスターを倒す事が苦痛という話ではないのだが。勇者の職についてくる諸々の事情というのが何年経っても慣れないし、いただけないものなのだ。
他方では、貴族の席にありながら、未だに政略結婚の令状を送って来ない養母(はは)からすると、やはり自分は養父(ちち)が連れて来ただけの、どこの馬の骨とも知れない他人の子という位置なのだと…。
だが、義理でもそんな息子が勇者になって、それだけが幸いかとも思うのだ。
せめてあのダンジョンで消えたのが、義父ではなくて自分であれば良かったのに、と。
帰って来ないグランスルスの英雄に、ライスはあの後、それは誰にもどうにもできなかったことなのだ、と根気よく諭してくれたが。六年経った今でも忘れる事ができないし、悔やんでも悔やみきれない事柄だ。
頭を振って、仕事をしないと余計な事だけ浮かんでくると、気持ちを切り替えようとして落ちてしまった視線を上げる。
すると、道の端で柵に手を掛け、広い通りを流れる川を静かに眺める見慣れた女性が視界に入る。
「………」
どうすべきかと逡巡するが、よくよく考えると自分と彼女は気軽に声を掛け合うような仲ではないのだ。
気がつくといつも後ろでこちらの様子を伺っていて、多くの女性と同じように勇者である自分に対して特別な好意があるらしい。
しかも“絶対回避”なる特殊なスキルを所持しており、そのおかげでレベルに見合わぬダンジョンに入っても命の危険はないという。
——あの森で。
自分さえ生き残れるか不明という危うい状況だというに、背後にその気配を感じた時、他に娘一人を救わなくてはならないのか、と。自分の幸運度(ラック)の低さに嫌気がさした記憶がある。
娘は初めて声を掛けて来たかと思ったら、潤沢な補助アイテムで戦闘を手助けする、と。その言葉の通り、こちらが指示したアイテムをもれることなく取り出して。なんとかボスを倒し終えたと思ったら、さすが高レベルダンジョンだけあり“連戦”が発動し、さらに危うい状況に。しかし、気付けばこちらの危機さえ回避され、命を助けられたのだ、と。
味方に使う言葉として、それはどうかとも思う。が、まさに思わぬ伏兵が現れたという状況に、久しぶりに驚いた。その後も何度か助けられ、ある時は絶対に守らねばならなかった仲間の命さえも救われた。
それが決められた終わりでなければ、どうあっても“勇者”というのは救われる。
死に関して言えば幸運値は実はあまり関係ない。運悪く死んだ、というのは勇者に限ってあり得ないことなんだ。
義父のセリフが反芻されて、ならば“彼女”は自分をそこから生かすために引いて来られた存在なのか、と。
“好き”だったり“愛している”と間接的にも語ってくるその気持ちを否定するつもりはないが、残念ながら相手が悪い。なぜなら自分は養母からの命令でも無い限り、これから先、特定の女性と共に生きるつもりがないのだ。
報われない相手なのだと早く気付いてくれないだろうか。
でなければ、あの娘は自分の一生を棒に振ることになりかねない。
齢十八で知力80。この世界で“賢者”と呼ばれる者になるまで、残りあと10しか無い。
場所にもよるが市民の知力は15〜30で、王侯貴族となってもせいぜいが60止まり。勇者職は恩恵(ギフト)によって比較的高めの数値に達するが、大陸最高峰の学術機関クレアレーテの学術院で教鞭をとる教授陣さえ、80に達する者は多くない。
年を取れば備える知識が増えるもの。生きてさえいれば老齢に達するまでに平均的に15は伸びる。
が、そこでどういう計算なのか。あの娘は十代で既にその域なのだ。
知力80に平均の15を上乗せしたら、大賢者アリアスがたたき出した数値に匹敵する。
だから。
それこそ、報われない恋になど早急に見切りを付けて。
学術院に行けばいい、と心底思う。そこでは娘の将来は約束されたも同然だ。
自分だって初恋の経験くらい持っている。
あれはほんの些細な事で、それまでの盲目から覚めるのだ。思っていたより頼りない勇者だと…いつになるか知れないが、それに気が付く日が来ると。
終わりがくるのを分かっているから、今はまだこれでもいい。
追ううちに覚めてくれれば問題ないし、もしも彼女がぶつかって来たのなら…聡い相手だ、こちらも上手くその気持ちに終止符を打ってやれるだろう。
力づくで気持ちを切ってやることを考えた事が無い訳ではないのだが。
よく見れば歳の近いベリルはあれで彼女を気に入っているようでもあるし、同性でなければ解決できない問題がでた時に、彼女は上手くベリルの力になってくれるような気がする、と。
たいした打算だと我ながら呆れるが、このところ考えるのはそんなこと。
それまでは…。
娘の身の安全を気にかけてやるという程度なら、勇者の仕事の範囲だろう、と。
そう思ったところで、ふと気付く。
そういえば。
あの娘はダンジョンまでも自分の後を追って来るのに、いちど領主の屋敷に入ると、それから街で見かける事が無いような気がするが。
——その間は一体何をしているのだろう?
あぁ、収入を得るための仕事か、と。
そこはすぐに至ったが、次の疑問が浮いて来る。
——その前に、身を案じてくれる家族は居ないのか?という話があるな。
家族が居るなら、こんな生活をして心配されないとは思えない。
——誰も止めてやらないのか?
例えば家族が彼女の事に無頓着だとしても、せめて友人なり知人なり。
——まだ若いのに、こんな暮らしで生活が成り立つものなのか?
いつも普通に鞄から出す、希少だったり高価だったりするアイテム類は…確か、拾っただけと言っていたような気がするが。
果たしてそれは本当なのだろうか?と。
もしそれが本当ならば、他人に譲ることをせず売って収入に回せばいいと考えて。
まさか、それでも余っている?と信じられない気持ちが湧いて。
——そもそもこの下衣の場合、確実に“拾った”ものではない筈だが…
あの時、差し出された二枚のボトムスは、どちらもシワひとつ無く誰も身につけた形跡のないものだった。見たところ普通のズボンだったので、身につけるなら裾の長い方がいいと思いそちらに手を伸ばしたが。触れてみれば見た目では分からないレアな効果が付いていて、すぐに高額な品物なのだと悟り、こんなものは受け取れないと断りを入れるつもりだったのに。その期をずっと見計らっていたのだが、小柄な少女と大事な話をしているように見えたので、声掛けることが憚られ。
結局、その期を逃して今に至ると、希少素材が使われている“装備品”へと視線を落とす。
すると、しばらく忘れていたのだが、思い出したらあの時の彼女の態度に再び怒りの炎が灯り。ライスとレプスが、湖に助けに入った礼なのだからそう深く考え込まずに貰ってやれと言ったから、身に余る効果の付いた服飾だと思えども、仕方なく受け取ったのだ、と。
そこでハッと、他人のせいにしている自分に気付き、複雑な気持ちになって。
——……これでは子供と一緒じゃないか。
思わず短いため息が漏れ、気持ちを切り替えようと残り一口の酒を含んだ。
飲み下しながらもう一度そちらの方へ視線を向けて。
流れ行く川を眺めるそんな姿に、なんとも言えない感じを覚える。
まるで……。
——まるで、この世界に一人きりという哀愁を…背負っているみたいだな。
この黄昏の時間帯が悪いのか、ひとりきりで川を眺めているというような立ち位置(ロケーション)が悪いのか。
周りの景色から浮いていると感じられるのは何故なのか、考察しようとしたところ。
不意に彼女が振り返り、こちらを向いて———。
——っ!?
その瞬間、スキル“跳躍”と“俊足”を無意識に発動し、すぐ側の高い建物の陰に入(い)る。
壁にもたれて思わず止めた息を吐き。
——……気付かれた…?
それこそ気のせいだと思いたいが、まるでこちらを認識したかのような瞬間に、ホッとしたような微笑を顔に浮かべたと。
驚きに跳ねた心が落ち着かなくて、しばらくそこに潜んでいたが、意を決してそっと立っていた場所を見下ろすと、既にそこには姿が無くて。
妙な波紋を心に落とし、わずかな混乱を抱えたままで。
夕食の時間だと、妙な心地で来た道を辿って行った。




