閑話 マダム・ソフィア
その日、グランスルスの元・大貴族、ソフィア・リーナ・グレイシスは、お気に入りの椅子に腰掛け、重厚な便箋に認められた面白味に欠ける話に、深い溜め息を吐いていた。
事の起こりは二日前。………否、そもそもの禍根というのは、自身の若き時代まで遡るのかもしれないが。取り敢えずの事の起こりは、二日前の昼である。
単純に言ってしまえば、手紙は質(しち)の督促状。面倒事を付加するのなら、払えなければお前の息子と、ある貴族令嬢を婚約させろ、な、無遠慮な指図書だ。
そもそもグランスルス王国のグレイシス家というものは、人によっては正面きって落ちたと口にするほどの、名ばかりな貧乏貴族。六年前に勇者であった夫を失った後、血の繋がりはないけれど大事な一人息子の職が勇者職に転化して、旅立ちを見送る直後に追われてしまった大邸宅…。古い…正直に言ってしまえば“ボロボロの邸宅”一つ、別に取り上げられたとて特に困る事も無く。城下に住まう友人達の人情に触れながら、街外れの民家を借りて、女主人たるソフィアはひっそり、それなりに生計を立てていた…のだが。
邸宅を取り上げた張本人、昔なじみで大貴族のダラスイェール家現当主、アーネスト・ニコラス・ダラスイェールは、これまで送り付けてきた嫌がらせの封書の一に、こっそり家から持ち出していた家宝の事を認めて。早急に返せ、と顔が分かる文字で言う。
あら、目敏いのね、知ってたの、と。
まるで“これが止めだ”と語る、自信満々な筆跡を見遣り。もう一度、腹の底から重い空気が漏れるのだ。
アーネストという昔なじみは“いかにも”な貴族の嫡男。無駄に権力も富もあり、常に偉そうな男であった。まぁ、成人を迎えたそばから早々に妻を娶って、それなりに国の仕事を担っていたようではあったが…。結婚から幾許もせず、同じ頃、若く家名を背負ったこちらに対し、言った言葉が、支援が必要だろう、子孫もな、だ。暗に愛人になれと指図された訳であり、心の底から呆れ果てたのは中々忘れ去れない事だ。
その頃にはまだ親の伝手もあり、それなりに邸宅を切り盛りするも。ダラスイェールが幅を利かせて次々伝手が無くなると、そろそろ家名を返上するかと書類を集めていた折りに、知り合いだった勇者ルークに不意に求婚などされて…余りの真剣さに茶化しを入れる事もできずに、了承と共に保たれてしまった返上予定のつまらぬ家名…。
こちらの困窮具合を知ると、こと、勇者の働きぶりは普段の脳筋とは思えぬほどで。知らぬ間に社交界デヴューを果たし、惚れぬ子女はおらぬほど…と、一世を風靡したのは苦過ぎる思い出である。…まぁ、それは副産物で、ルークは抜け目無くダラスイェールを除いた主要な人物達とのパイプ作りに精を出していたようなのだが。
そうして数年はアーネストとの距離もあり、たまに夫が面倒だなとは思いながらも、家族のある生活を思いの外、楽しんだ。
しかし六年前のあの日の事、ルークが戻らぬと知るや否や、多方面に圧力をかけたのだろう。押し掛けた私兵に驚き、家を追われて彷徨うこちらに、さぞ生活に困っているだろう、私の元に来るか?と語ったアーネストの冷笑に、あり得ない、と断れば……激昂しながら去って行き。町外れで生活を始めてみれば、忘れた頃に封書を寄越し、そこには懲りずに…そして隠さず「愛人になれ」の呆れた文字が毎度のこと入るのだ。
夫婦揃って有力貴族、並ぶ姿の美しさは王族に次ぐのでは…と噂される一方で、ダラスイェール夫妻の不仲は有名な話だそうで。子が成人した期を見計らい、奥方様は遠くの地へと。書類の上では夫婦のままだが事実上の離婚…といった、いかにも貴族らしい人生を歩む傍ら、アーネストは飽きもせずつまらぬ封書を寄越し続けた。
ここへきて何となく…まさか想われていたのかしら…?と、思い当たらぬでもないが。ルークはルークで強引な、正直、全く好みではないタイプの男だった訳だが…まぁ、ほんの数年とはいえ連れ添った仲である。あれはあれでいて好ましい所もあった、とても本人には言えないが…愛していたのだと思う、と。常に強気な男であったが、面倒な仕事が舞い込む度に、俺を忘れないでくれ、とあり得ない力で抱擁していく震えた子犬のような姿を、思い出しては口元に弧を描く。要は、同じ“想われる”でも、比べようもない位、ルークの方が好ましかったという訳だ。
いやいや、今はそうではなくて、面倒な事案をどうするか、である。
グレイシス家の跡取りに受け継がれてきた宝珠。天浄六花(プリフ・グラキエス)の首飾りは、美しい雪の結晶を魔法陣として模した、女物の装飾品である。アーネストの言い分によると、その宝飾も邸宅(いえ)と共に質に入る筈である、早急に返却せよ、出来ぬのならば指定する貴族令嬢と婚約させて、持参金から宝飾ぶんの支払いを済ますがよかろう、と。首飾りが両親の形見、ひいては家の宝であるのを知っていての脅迫である。お互いにいい歳になり、いよいよ嫌がらせのみが残った、そんな雰囲気を感じ取り、ただただ面倒だ…と三度目になる息を吐く。
重ねられた紙の後ろに、婚約了承の書類の欄に記入された令嬢の、いつか聞いた事のある名を思ってみては嘆息し。よくよく“勇者”というものは不運にできている…と。夫のそれと、実はずっと気になっていた養い子の幸運値(ラック)の低さというものを…勇者職に転化した、と打ち明けられた時に思った“納得”の二文字にて。
その時、フと思い当たった他国からの風の噂に。
——そういえば、クライスに好きな娘ができた、とか。
なんとなく、光を見出して立ち上がり…。
もしかしたなら今回のコレは、これでいていい切っ掛けなのかも…?
そんな風に思わないでもない訳だ。
「なら……仕方ないわね」
と、勇者の養母(はは)は筆を執り。
グレイシスの名を継いだ、勇者で一人息子な彼に、一度帰ってきなさい、と。
こぢんまりとした外れの家で、書に認めたのでありました。




