閑話 女神の加護を失って
その日、神国の教皇が、女神の加護を失う罪を大陸全土に公言し、我が国ラーグネシアでは、対応にひと月半ほど城中の者が忙殺される日々が続いたのである。
何の変哲も無いあの日、誰の心にも“——神——”と浮かんだ女神の片手が顕現し、妹の体から光の珠をすくいあげ、嘆きの波長を降り注がせて持ち帰った光景は…。城に居たものに限らずに、城下町の民こそが、殊更はっきり目にしていたものだった、とは。その日の夕刻、妹を案じて城に詰めかけた沢山の民の、悲鳴にも似た言葉より気付かされた事実であったのだ。
現在、大陸一の領土と言われている帝国の皇帝はじめ、コーラステニア王国のルーセイル侯爵家、今や多くの店先で一度は目にする銘を冠するメルクス商会の代表に加え、実は一位なのではないか?と噂される実力者、そして冒険者ギルドの総本部では、どれほどの存在価値を彼女に見出しているのか、と。そんな一人の女性を相手に、己の妹がしていた事は。あのような穏やかな話し合いにて、終わった事が嘘であろう…と。思える程の、殺伐とした内容だったのだ。
更に、それと同じだけこちらの心を折ったのは、そんな妹の甘言に乗せられたのか、乗せたのか。自分に与していると信じた数人の重臣が、裏切っていた事だった。あの子の美貌や女神の加護に目が眩んでいた者は、それを失い、今の私にそっくりな面立ちの姫の姿に、見舞いに行った順に目覚めて自己の過ちに青ざめた。
あの子に尽くしていた侍女などは、元の根が真っすぐだったのか。こちらが聞いてもいない事まで多くの臣下の前で吐き、それがまた波紋となってこの国を揺るがした。下手をすれば自害しそうな侍女に見張りをつけさせて、思い出せる限りの罪を認(したた)めさせて様子をみれば、気が遠くなる贖罪の中に重臣(それ)の名を幾数見つけ。不審な動きを見せた者から、逃がさぬように収監させた。
ただでさえ今後の対応に人手がいると分かっているのに、多くをまとめる重臣を数人といえど拘束するのは非常に厳しい決断で、その旨、理解している宰相(じい)も難色を示したが。ここで明確に分けておかねば恐らくこのさき取逃す、と。能の無い王ですまない、と、育ての親にはその度に頭を下げて許しを乞うた。
果たして、組織の力が緩んだラーグネシアの統制は、教皇による宣言を受けて大陸中から非難を受ける大荒れの波の中、幾度か崩壊しそうになるも寸での所で持ちこたえ…。人々が強い感情を吐露するのに飽きた頃、それでも事後処理に忙しいのだが、一先ず落ち着きを取り戻す。
それまでの関係が良好だったいくつかの国からは、妹御には呆れ返るが貴女の治世に不満はない、など。これまでと変わらない関係を続けたい、という文も多数寄せられて、その都度、疲弊しきった心に力が湧いたのは、言うまでもない事実であった。
この隙を突き侵略があるか、と、そちらの警戒もしていたが。すぐに取り込める小国なれど、帝国領との距離を取ったか、境の向こうの数国は特に動きを見せずに終わる。もちろん例の皇帝も、無事に彼女が放たれた事を確(しか)と耳に入れたのだろう。そちらからの侵略も、気配を見せず落ち着いた。
どこから話が漏れたのか、民を虐げるだけでなく多くの罪を作ったあの子———妹のルナマリアには、日々、数えきれないほどの非難の文が送られて。けれどその時“荒れて”いたのは、何も城の外だけではなく。女神の加護を失って、私と同じ冴えない顔を鏡に映したあの子の心、そちらも酷く荒んでいたのであった。
魔法の鏡(シュピーゲル)の前に立っては己の魔力が切れるまで…美しかった顔を思って繰り返し張り付いた。始めは魔力が切れたと言って魔石等からの魔力変換を侍女に言いつけていたと聞いたが、際限無しに貪る姿に侍女が恐怖を覚えたらしく、宰相まで話が上がって“供給するな”と触れが出た。その後、罵声を浴びせるほどに激昂した様子を見せたが、いくら怒鳴っても変わらぬものに次第に諦めを感じたらしく、それからは誰も側に寄せずに魔法の鏡(シュピーゲル)を抱く、という。
本当はこんな事……。
国を揺るがす大問題を起こしてしまったあの子に対し、向けてはいけない感情なのかもしれないのだが……。
例の女性はもちろんの事、自他国問わず、多くの民を不幸にした事実はあれど…。
それでも、あの子。
ルナマリアは、たった一人の家族であって。
昔なじみが呆れ調子に、裏切られたって事ですよ?と。あの子を責めない私の甘さを、強く非難してきても。
それでも私に残された、たった一人の家族なのだ、と。女王ではない姉の私なら、一人くらい、あの子の事を。憐れんでもいいでしょう———?そう、心に問い掛ける。
王として立つ教育が不完全であったせい。
両親の急逝により肩に掛かった国の羽織りは、ただ処理に付いていくだけの慌ただしい日々を生み、あの子の事を…あの子の事まで考えるだけの心の余裕を生み出せなかった当時の私、そしてそれなりの時間が出来ても“もう子供ではないので大丈夫”と。放置してきた私にも、非の一端があるのだと。
ふさぎ込むあの子の元を毎夜尋ねて突き放されては、それでも今までの想いを込めて、これから先は、なるべく側に…次こそ心に寄り添いたい…と。そんな思いが私にあって、そうしたい私が居るから。
もし王でないのなら、ずっと側に居られるものを……。
あの子の世話を言いつけた侍従長が選んだ女性、彼女が居住区に消えて行く背中を見ていたら。
代わって欲しい…、そんな気持ちが淡く浮上して、心の奥底へ静かに消えていく。
そんな荒れた情勢が、やや落ち着きを見せた頃。
宰相と共に次の議題を話し合う一室へ、人の気配を全く感じぬ回廊を歩いた時だ。
近衛の兵を前後に挟み無言で進む一団へ、柱の陰から物音立てず姿を見せた者が居た。
何者だ!と誰何にかかる兵の名前を口にして、一歩そちらに踏み出せば。
「失礼、貴女が女王陛下か」
語尾を上げるでもない問いを、その男が口にする。
ミルクを足した紅茶のような、柔らかな色彩の中に、圧倒的な存在感を見るものに滲ませて。一介の冒険者にしては堂々とした振る舞いに、あぁ、この男は、自分の力にそこまで自信があるのだな、と。そう嫌味無く思っていれば。全く阿る気配が無いのに貴族然とした礼を取り。
「霧は俺が殺した」
と、不意の告白を述べてくる。
ただただ心で、そうか———、と言えば。
「やむなくとはいえ、悪かった。恨んでくれて構わない」
男はそれだけこちらに言うと堂々とすれ違い、陛下!と私を促した近衛を手で留めると。
「よろしいのですか、ソルティリア様」
何もかもを知る宰相が、あえて名を口にしながら幾重にも問うて来る。
あの人はやはり死んでいた、そしてこの男が殺したのだ、と。
複雑に思う心の中に、特に怒りが湧いて来ぬのは…いつか宰相(じい)が嗜めた通り、望んではいけない未来だったから。そして、あの人が言っていた。俺は頭から足の先まで他人の血に塗れている、と。そんな風に皮肉った、物寂しい眼差しが…今も忘れられずにいる私だが。「やり直すには遅過ぎる。それこそ、一度死ぬくらいでは、到底あがなえそうにない」あの時、二人の間に響いた重い言葉がざらついて。
知らず、涙がこぼれたらしい。
近衛が驚き身じろいだのを、踏み出して“前進”を告げて。
「良いのです」
と、伝えた声は、情けなくも掠れていたが。
私(わたくし)とて。
「私とて、この世には…。触れてはならぬ者が居るのを、理解しているのですから」
続けた真意を伝える声は、いかにも国王らしい音。
いつか、貴女に仕える、と語った霧が、物理攻撃無効の恩恵(ギフト)をこちらに零した時を思って。“魔法発動の適正が無い”ドルミール・レックスを、ただ、恐ろしい、と感じた心は胸の内に閉じ込めた。
調べれば調べるほどに、埃が出てくる国の内情。
始めは気付かず、登用したまま雑務を任せた役人が、実は不正を働いていた例は少なくなかった実際に、繁雑期に手を借りたという感謝を恩赦で示したものの。経歴の傷の多さに、官を再編せねばならぬ、と。それに続いて、複数の民が殆ど無実と思えるような冤罪により裁かれた、そんな事実も浮上を見せて、監獄に収容されていた限りなく白と思える者を、速やかに釈放せよ、との命を下したのは言うまでもない。
繋がっていた数家の貴族は、そんなこちらの動きを知って大人しくしているが、いずれ落ち着きを取り戻したら必ず裁く、と誓いを立てて。そちらも虚仮にされた怒りが収まりをみせぬのか、いやに仕事を進める宰相(じい)に、頼むから倒れるな、と。
そろそろ頃合いだったのだろう、汚職が国を貪る前に、知れて良かった実情である。これも天啓の一として、粛々と受け止めよう———。そんな風に、積み上がった書類の束に、筆を浸して力を抜いて。ふと、朝日が差し込んだ床に一歩ふらりと立ち上がり。遠く、山の背に立ち上る橙色の陽光に、国の希望を見いだしたのは…私の奢りか傲慢か。
ただの祈りであって欲しい…と、窓に手を触れる私を見遣る、冴えない容姿の女性が一人。ふと目が合えばそんな女性が、力なく微笑んだ。