20−5
翌朝、王城の一室を伺うように響いたノックに、起きている、と返してみれば食事の席に誘われる。
何かの境なのだろう、とはっきり分かる扉を越えて、王族の居室に踏み込めば。ダイニングへと続く廊下で女王陛下とすれ違い、軽い朝の挨拶と仕事の労いをかけられる。
食事の度にこちらまで招かれてしまっては、少し肩身が狭いだろうが、咎めるつもりはこちらに無いので楽に過ごしていって欲しい。そんな旨の言葉もあって少し気持ちに余裕が出たが。
勧められるまま部屋に入れば、朝から上品に着飾ったルナマリア姫がそこに居て。
「お呼びたてしてすみません」
と、こちらの様子を伺うように。
「姉はあの通り忙しいので、食事はいつも一人なのです。出来れば誰かと共に取りたく…お付き合い頂けたなら嬉しいのですけれど…」
そう語って要らぬだろう“許可”をこちらに求めてきたのであった。
普段、訪れる領主の家では有無を言わさぬ雰囲気で一緒に食事になるのだが、真偽のほどは別にして、こうして一言だけでもあれば受ける印象が随分違う。
「私でよければ」
という常套句にも、まるで花がほころぶような微笑みを浮かべた相手に、どこか居心地が悪いような気もしたのだが。
不得手なテーブルマナーでなんとか食事の時間を終えると、準備が整うまで庭園の散策でも…と。この時期にしか見られない珍しい花がある、と、上流階級では珍しくもない誘い文句というもので、侍女に促されるまま美しい庭に出る。
隣立つ華奢な女性にマナー通りに腕を貸し、小さい歩幅に合わせて歩けば「日が暮れる」とも思えるのだが。いつかライスが言っていた、庭園の観賞は一周すれば終わりという訳ではない、との言葉から。ただただ美しい花を相手に合わせて愛でながら、時折そこへ立ち止まっては花の謂れを教授され。この姫は学もあるのだな…と、ひたすら感心しながらも。
——これがベルなら、ここはおそらく…。
この花にはこんな薬効が。これならこのくらいのお値段で買い取って貰えますよ!と。目をきらきらとさせながら、そんな無粋な話などを始めたりするのだろう。
場数を踏んでいるようで意外と初心な所もあるから、こういう場所に連れてきたなら目に見えるほど硬くなり、余計そういう話題に熱を注ぐ方向だろう。
何故か素直に“ただ照れる”ことを認められない性格は、時に堂々としていたり、誰よりも思慮深かったり、無償で他人(ひと)に尽くせる程の豪気さを見せながら。変に内気で気弱な様を必死で人に隠すので。
もしかしたならそういう所を“愛らしい”と表現するのか…。
この姫は誰がどう見ても美しい女性だろうが。素直な好意を感じていても、熱くなどならないし。そもそも王族の女性に対し、妙な気でも起こしたら。不敬どころの話ではない———、心底思う自分がおかしい。
——おかしい。全く、おかしい話だ。そもそもベルは18で、一回り程も若い筈だが。
それにつけたらこの姫は、確か齢が22程度。彼女に比べて随分と…という訳でもないのだが。充分近いと思えるような年齢である訳で…と。
——否。全くこちらには、そんな気は無いのだが。
内心だけにただ焦り、ああでも無くこうでも無い、と。
取り留めもなく思っていれば、ふと姫が動きを止めて。
「…姫、どうかしましたか」
慌てて言葉を繋いでみれば。
「いいえ。何でもありません」
と。
少し惚(ほう)けた所作の後、なにか未練があるようにその場を去って行ったので。
——何だ?
と視線があった先へとこちらも意識を向けて見遣れば、ちょうど姫君の髪色に似た、一本の薔薇(ローサ)があって。
すかさず自分の背後から。
「そちらのローサはルナマリア様に贈られたものなのです。東の言葉から“月聖母”と名付けられました」
おそらく姫様は、勇者様にそれを説明するのを、お恥ずかしいと思われたのでしょうねぇ、と。
———よろしければ一房手折って参りましょうか。
まさか一株しか見受けられない、王家の大切な花を前にし、勇者様が申されたなら陛下もお許しになりましょう、など。いくら甘言でそそのかされても、それを実行することは無い。
そもそもこの話の流れで何故自分が姫君の花を?と。照れて去って行ったらしい当人にプレゼント、など。全く脈絡がない上に侍女のセリフの意図が知れない。
一介の勇者ごときが王家の花を手折れるか、と。あり得ない、と首を振ったら、侍女はどこか残念そうに。
「好ましい殿方に、自らの名の付いた花を贈られる…これほど嬉しい事はございましょうか。姫君はそれを期待しておられるのですよ、勇者様」
と。
そこまで言われて漸く気付くも。
「では尚の事、できない話だ」
一国の姫君に妙な期待を持たせるなど。そもそも好きでもない女性(ひと)に…妻にしたいと思わぬ女性に、自分はそこまで意味深な行動は取れない、と。不意にベルの顔が浮かんで見えて、いや、別に、だからどうこうするつもりなど…と掻き消しながら。一回りも下の娘に対し、そういう思いを抱く自分が本当におかしい……と。努めて冷静を装いながら、自然に視線を流してやれば。
「……恐れながら。もしや東の勇者様には、想いを寄せる女性が他に居られると…そういうことですか?」
“全く理解できない”目をした姫君の侍女殿が、呆然としながらもこちらに声を掛けてきて。
またしても浮かぶベルの姿に、いや、だから、と頭(かぶり)を振って。
「…特別な女性など、居ない」
と語った自分の声が、妙に掠れて浸透したのは気のせいなのか———。
そちらの好意もあるらしい目当ての相手がこうやって、何も持たずに、自分の後を追ってきた姿を見たら、姫君はどこか落胆した様子だったが。そんな姿もさまになる…と、気を取り直した女性(ひと)を見て。その後は歴代の王族の肖像画が飾られた、長い廊下を二人で歩み、自分の祖父母や両親が、いかに尊敬に値する人物であったのか。過去を懐かしむ様子を見せて、姫は誇りを語っていった。
「時に寂しくなりますが、私には姉が居るので…」
そんなセリフを囁いた折り、本当は慰めて欲しいのです、と。ふと向けられた視線の中に、秋波を少し感じたものの。それは私の役目ではありません、と。毅然とした態度の中に、気持ちを込めて目を逸らす。
そうしているうち昼食になり、つつがなくそれを終えると、ようやく仕事の時間を迎え。宝飾庫の管理官という堅い雰囲気を纏った女性に、部屋へ招き入れられて、決まりきった挨拶の後、説明が語られる。
「こちらが今回の依頼の品の、王家の宝具にございます」
その他、鑑定を請う品々は別に並べてございます、と。
見事な意匠が散らされた、姿見にしても巨大なそれに。一度強く視線を奪われ、次に細かな宝飾を見る。
「まぁ、これが」
と口にしながら、近く続いてきた姫に、以前ライスの神槍に触れた時を思い出し。何が起きるか分からないため、離れていて下さい、と。此処で待って頂けますか、とやんわりと制止を示し、管理官殿と侍女殿に引き止めるよう促した。
初めこそ不満な空気を露にした彼女だが、勇者様は御身を心配されておいでなのです、心底心配そうな声音で侍女殿が説明すれば。「そ、そうね…」と、か細く呟き、何故か頬を染めながら大人しくその場に戻る。
距離は充分取れているな…と三人を背後に置いて、一歩一歩と巨大な鏡に近づいて行ったなら。曇り一つない鏡面は、近づく自分を映し出し。ここに指紋を落とすのは忍びない…と、美しいモチーフが繰り返される鏡の縁に、そっと指先で触れたなら。
【魔法の鏡(シュピーゲル):映すもの】
との説明表記が現れて。
触れた指から僅かな魔力が吸収される気配を感じ、見れば曇りない鏡面に緩やかな波紋が広がって。徐々に鮮明に映し出される薄暗い光景は、物悲しい景色の中に蹲(うずくま)る見慣れた姿。
ふと、まさか…。
——ベル、なのか?
ほうけるままに指を離せば、たちまち浮かんだ絵は掻き消えて。
こちらの妙な反応を訝しんだ姫君が、「クライス様…?」と細い声音で呼びかけてくる音に気が付き。
「これは“魔法の鏡”だそうです。映すもの、としか説明がありません」
僅かとはいえ、魔力を吸収し続けるものの様なので、注意が必要でしょう。と、続ければ。すぐに手持ちの書類に書き込む管理官殿の姿があって、そうだ、今は仕事だ、と、次に並んだ品へと向かう。
腕輪、耳環、首飾りに指輪など。一通りの装飾品と、いくつかの剣や盾。抽象的な絵画が数点、名が分からない肖像画。古い王冠に、大振りな奇石の数々。曰く付きの置物、と。多種多様な、これでもか、と集められた品々を、黙々と読み取りながら管理官殿に説明すれば。最後の一つを読み終えた頃、既にティータイムは過ぎており、そろそろ日も傾こうかという時間になっていて。
「よろしければお茶でも」
と。それまで控えていた侍女殿が、どこかの部屋へ案内するのを、先立って固辞すれば。先日は用など無いと伺っておりましたが、と踏み込んでくる姫の侍女。
一度、冒険者ギルドの方に報告をしておきたい、次の仕事の変更が無いか確かめに行きたい、と。それらしく語ってみれば、渋々と頷いて。あからさまに落胆を見せたルナマリア姫は知らぬフリをし、晩餐までには戻ります、と足早に部屋を出る。
——鏡が見せたあの映像は……。
一体、何だ?と思えども。
王都に到着している筈の彼女とは思えない。
魔法の鏡…映すもの……。あんな姿は決して自分が望むものでは無い筈で、そうであるならあの鏡面は“願望を映す”ものでは無い。かといって真実を映す…とも、思えない光景だから。飲み下せない塊が、胸につかえて気持ちが悪い。
これからしようとしている事は、勇者職の越権か。だとしても少しは粘れないかと、あれこれ策を考える。
はやる気持ちを抑えるように、努めて常時の歩幅で行けば。
傾きかけた日が差し込んだ、赤い石の廊下にて。
——っ!?
すれ違った男から発せられた殺気を躱し。
「…何だ」
何か用でも———?
と。
振り返り、応えれば。
「お前が東の勇者、か」
と。腹の底から響く声音が。
銅(あかがね)の色をした、まるで抜き身の危うい男が。
こちらを冷たく見定めて、そこに対峙していたのである。