閑話 four leaf clover
アルワナ王国を抜けた先、帝国領に含まれる一つの国へ通じる峠を目指しながら北上すれば、通りがかった小さな村で村長に引き止められる。
通常通り、丁重に断りを入れたところを、そこを何とか、一日だけでも、後生ですから、と泣き落とされて、ライスとレプスが苦笑交じりに「一日許してやってはどうか」と。首を縦に振らないと土下座から動きそうにない村長殿の踏ん張りに、軽く溜めた息を吐き了承を告げたのだ。
詳しく聞けば、明日(みょうにち)村で開催される小さな祭りへと、どうしても参加して欲しい、との事。賓客という立ち位置で、ただ参加してくれるだけで良い、と。女性から男性へ、一輪の花を贈る祭りだと、ようやくその日の就寝間際に道行く男女の話に聞いて、なるほど、要は“そういうこと”かと凪いだ夜空を仰ぎ見た。
この村は近隣の“村”に比べてだいぶ裕福な部類にあって、旅人を受け入れる宿が5軒ほど連なっている。ここへ足を踏み入れたまだ日が明るいうちに、付いて来ていたベルの気配が背後でそれらに消えたので、十中八九そのまま宿を求めた筈だ。ただ、夕食時に見聞きした祭りの盛況具合を測り、そこで“いかにも暢気そう”に行く彼女の姿を見てしまったら、無事に宿は取れただろうかと気になってしまい外へ出た。
最近は…できるだけ、宿が取れる配分で旅程を組んでいるのだが…。
野宿だとしても気にしなそうな楽しげな顔がぼんやり浮かび、いや、しかし…いくら平気でも屋根はある方がいいだろう…と。何故そんな事を考えるのか自分でもよくわからずに、複雑な心境を切り替えるようにして、視線だけを横に流してそのまま村の出口の方へ歩いて行ったのだ。
そうしてしばらく村の周りを散策し、人の気配が無い事をしっかりと確認した後に。宿は無事に取れたんだな、と連なる光を見上げて思う。
——「あれ?でも勇者様の家、結婚相手は自分で探す決まりなんじゃなかったですか?」
と。不意に、あの時、不思議そうに語った彼女が浮かんで見えて……。
——………いや。まさか。そんな筈は…無い……。
と思えども。
今まで養母(はは)が自分に対して政略結婚の令状を送って来ない理由というのは、やはり自分は養父(ちち)が連れて来ただけの、どこの馬の骨とも知れない他人の子という位置であるのだと…そう思っていたのだが。
もし仮に、ベルの言う通り…結婚相手は自分で探す、家訓だったとしたのなら……。
貴族社会の駆け引きや栄誉を知らぬ自分でも…歴史の古いあの家が、何一つとて後ろ暗い気配のないあの姓が、何故「落ちぶれた」と囁かれるほど地位も財も持たぬのか……もしかしたならそんな“家訓”に全ては帰結するんじゃないか…?と。
グレイシス家は他に先駆けて平民との婚姻を結び、グランスルスに貴族と平民間の結婚を容認する文化を作ったのだ、と。珍しくも自分に好意的な教官が、国学の歴史の中で微笑んだ記憶が返り…。それを馬鹿にするように、上位貴族の子息の一人が「だから家格が落ちたんだ」とせせら笑った記憶が戻る。
家に帰って史書を開けば、歴代の当主とおぼしき数人が平民と呼ばれる層から妻を娶った記録があって…当時はそんな子供心に「家格を気にする家もあれば、気にしない家もあり…貴族社会は不思議だな…」と単純に思っていたが。
そこへ一歩踏み込んで、何故そんな事が起こったか。当時は政治の中心に居て、三本の名家だったグレイシス家の婚姻は、その時代、奥方を平民から娶った事で、離れつつあった民心を再び中央に向けたという画期的な変革だった、と彼の教官は語っていたが。初めから、そんな大それた思惑など無くて…ただ単純に、好いた相手が“そう”だっただけだとしたら。
すっきりとした因果の糸がそこに結ばれるような気がして…。
そもそもそんな家訓など、聞いた事もないのだが。思い返せば、確かに養母(はは)は自分を実の息子のように大事にしてくれていた…と思える記憶がいくつかあるし、養父(ちち)が消え、急に自職が勇者の文字に転化したあの混乱の最中において、それを知ったいくつかの家に求婚の身上書などを送りつけられてきていたようだが、無惨に破り捨てられた屑篭の中のそれらを見遣り、あぁ、自分には釣り合わない見合いだったのか…と、思い込んだのはこちらの方だ。
そんな養母の行動が…もし、もしも、そうだとしたら。
まるで、今でも「帰って来い」との令状が来ない真の意味とは…貴方の好きな相手を連れて来なさい、という意味にも取れる、と。
そうすると、今居る自分はいつの間にやら“貴族社会の常識”に、すっかり染まってしまったようで…そんな閉鎖的と思える“もの”で、自ら養母との心の距離を、離してしまっていた、ようで。
考えれば考えるほど、その“まさか”なのだろうかと…。
そこで一度首を振り、今はやめよう、と道を戻った。
翌朝、軽い運動をして、朝食を取ったなら。このまま広場に移動して待機していて欲しいのです、と。そして、贈られた花々は快く貰って頂きたい、と村長は頭を下げた。前日の夕食時、食事を取る手を阻む早さで杯に酒を注がれたので、今日もこれから村娘等に囲み込まれるのだろう、と思う。
そうしてパーティ・メンバーで広場の席に辿り着いたら。ごく短い挨拶の後、祭りの開始の花火が上がり、ほどなく戻った村娘等が我先にとこちらの方へ、クラーウァの花を押し付けた。それらを一つ、また一つ、と半ば作業のようにして、黙々と手に取れば。花は淡く輝いて、一つ、一つと消えて行く。その説明に【ハンナの好意】、【リーンの憧れ】、【イライザの誘い】と、その人物が花に託したひとひらの願いが添えられて、一人、また一人と自分の周りを埋めて行く。たちまち大勢に囲まれて第一陣の波が引いたら、そこからは宴の酌の取り合いである。
正直、地味で情けない、こんな男のどこがいいのか…と。思わないでもないのだが。
少しばかり良いらしい顔と、勇者という職業か…と、やはりどこか冷めていて、浮かれられない自分があって。彼女達の好意の端に報いる事はできないが、それでも誠意を尽くそうと、できるだけ平等に空になった杯を伸ばした。
酒を傾ける傍らに質問なども飛んで来て、それにもなるべく平等に、粗相の無いよう言葉を返す。娘達は若ければ素直な問いを掛けてくるのだが、成人に近づくほどに言い回しが遠くなり、女性として成ってしまうと深い意味を込めたがる。それにどれだけの深さをもってこちらも返答するべきか。全く頭が痛い話だ…と、申し訳なくも辟易とする。自分はこうした駆け引きが…どうやらとても苦手らしい。
そこへきて、ふと、ベルと同じ年頃の娘の姿が目に入り…。きゃらきゃらと愛想を振り撒き、時に勢いで押してくるそんな姿を眺めたならば。
——……普通なら、そうだよな。
と。どこをどう取った所で、若い、という言動なのは。こちらこそ普通の域で、当たり前の事なのだろう、と。
そのあともちらほらと、花を捧げに来る娘等に一時ずつ向き合って。食事の量より遥かに多い、甘い酒を飲みながら。隙を突いてはしなだれてくる娘達を制止して…いつまで経っても現れない、見慣れた彼女の姿を思う。
ベルもこのお祭りに参加してみるってさ、と。ゆうべライスが零していたから…またいつの間にかひょっこりと現れるのかと思っていたが……。
——………いや、そういう…自惚れではなく…。
あるいは彼女の事なので、また何か変わったものに没頭しているやもしれない。
果ての島のネブラの城の蔵書庫での事のように。一心不乱に書きなぐられた不揃いな紙の束、開きっぱなしのエルフ語の書に、ゆるくペンを握ったままで静かに呼吸をする寝顔。こうして眠っている時は、あどけなく年相応なのだと…落ちかけたブランケットを掛け直した記憶を思い。
ふと、日が落ちかけた、辺りの様子に気付いたら。
——…だが、ここまで帰らないのは……。一体何をしてるんだ…?
と。一度気になれば気にし出し、気にし出したらどうにも止まらず…。
思わず浮かせた腰を見られて、どちらへ?と問われれば。
ポーカーフェイスを意識して、用を足しに…と気まずげに。出来れば付いて来ないで欲しい…と、雰囲気に乗せて言い。村長宅へと消える姿を一応見せて歩んだら、どうやら諸用で席を立ったと信じて貰えたらしい。そもそも厠に用事があるのは本当の事なので、娘達に嘘をついた訳ではない。ただ、少し気になる事に時間を割きたいと…速やかに用を足したら手を清め、存在感のスキルを絞ってこっそりと裏口を出る。
こんなに遅い時間になってもクラーウァの丘から戻る娘はまだ数人居るらしく、そんな気配を悟っては物陰に身を潜め、過ぎて行くのを待ちながら。何とか丘の入り口に辿り着いてみた所、丁度その時、丘への柵が閉じられる場面であって。その係を担った者が「やれやれ」との言葉を零し、村の広場の方へ向かって歩いて行くのを見送って、閉じられた腰程の柵を軽く越えて行ったのだ。
夕焼けの赤い太陽が射すクラーウァの茂る丘を見て、最も小高いその場所に、斜面を眺めるベルを見る。彼女は敷いた厚手の布に小さく膝を抱えて座り、丘のクラーウァを眺めやり、殆ど動かずそこに居た。
一体何をしているのか…と、まず最初に思ったのだが。その顔がやけに真剣で、声を掛け難い雰囲気なので、そのまま気配を殺しつつ少し離れて様子を見遣る。
そのまま暫くしていれば、不意に彼女は立ち上がり———。
なだらかとはいえ傾斜の面を、思い切り駆け出したので。
意表を突かれたこちらの方は、ただ呆然と視線で追って。
彼女が駆けたその先の、クラーウァを刈り取る姿を見つめ、心の底から幸せそうに「見つけた!」と叫ぶ姿を……少し、眩しい心地のままに…目を細めて魅入った自分。
ややしてそのまま斜面に転がり、夢中な様子でクラーウァの束を押し潰しまくる無邪気さに。
——まぁ、ある意味そうしていれば、年相応だと思えるな…。
と、呆れた気持ちで近づいて。
そろそろ気は済んだろう?と、彼女に向かって手を伸ばしたら、覗き込んだ所から変な動きで急に固まる“いつも通り”の姿に戻り。ぎこちなくも手を取ってベルは体を起こした後に…無邪気な姿を見られた事がよほど恥ずかしかったのだろう、顔を真っ赤に染め上げながら、手に握ったクラーウァを「どうぞ」と言って差し出してきた。
丘を転がり回るほど見つけて嬉しいその一本を、こうもあっさり手放す程に気が動転してるのか…と。折角見つけた葉なのだろうから、大事にしまっておけば良い。そう言おうとして口を開けば、その間漂う沈黙を違う様子で解釈したのか、僅かに顔を歪ませて手を引こうとして見えたので…。思わず茎を摑み取ったら、彼女はギョッと驚いて、慌てて自分の手を離し「こんな葉っぱですみません」と。絞るようにこちらに言った。
そこで初めて“花の代わり”だと気付いた自分は相当鈍い。
ふと横切った風に揺られた四枚の葉のクラーウァを見て、なるほど、これは珍しい…と素直に感動した直後。
【フォー・リーフ・クローバー:幸運値20上昇】
視界の中に勇者特有の説明表記が現れて。
そのパラメータが自身に浸透していく様を、身の内側の違和感から覚え取り。
思わず探った懐に、ステータス・カードを引き抜いて。
低かった筈の“幸運値”に、しっかりと足し合わされた、驚くべき数値を見遣り…。
「もう15年以上、一度も上がらなかったんだ…」
と。
その時、丘を駆け上る、風がザァッと二人を撫でて……。
長いこと旅をしていると、たまにそういう奴に会う。
因縁の相手というか…見えざる縁の陰縁の相手と言うべきか。
縁のある相手というのは多くの場合こちらに苦労をもたらすが、それを補い余りあるほどの僥倖を持ってくる奴がたまに居て……。
そこで追憶の養父は笑い———。
まぁ、何だ。
つまりそいつが運命の相手…という訳だ。
と。
どの女性にも向けた事のない、深い慈愛の眼差しを。
温かな庭で水差しを持つ、凛とした女性に向けて。
だからこんな俺だけど。
結婚くらい、してもいいよな…?
そう悪戯に笑った記憶が、鮮烈に思い出される。
——そうだ。
そういえば。
自分こそ。
こうして、幾度も、彼女から…。
思いがけない“幸運”を…貰っていたのではないか、と。
否、実の所を言えば、もうずいぶん前にも一度、思い当たった事があるんだ…と。
それでも自分は。
——……だからと言って、どうする事も…ない…つもりだが…。
その時、考え始めたこちらの方を、気まずそうに見上げたベルは。
まるでそんな心の声を聞いたような顔をして、どこか何かを諦める…哀愁を滲ませた、ので。
——その…。
「すまない…」
今は、少し、混乱していて…。
だから。
「…埋め合わせは、いつか、必ず」
それだけを絞り出したら。
何故か少しだけ目を見開いて、ふっと柔らかく笑んだ彼女は。
どうせなら喜んで欲しい、そういう“埋め合わせ”の方が嬉しい、と。
考え方が堅い、と言って、緩やかな丘を登り始めるのを…ただ呆然と、前にもこうして置き去りにされた事があったな…と。
そこで再び過去の記憶が、脳裏にまざまざと思い出されて。
「勇者様も相当なイケメンですよ」
「…顔が良いのか?」
と、問うた自分に。
彼女はよくぞ聞いてくれた、と輝くばかりの笑顔を浮かべ。
「この人だ、って思ったんです。勇者様は私にとって、運命の相手なんですよ」
と。
そう、言い切った人物は…夕日が差し込む丘を登って、まるで何事も無かったように、いそいそと広げた荷物を鞄の中へと押し込んでいて。
例えばベルが、自分のことを、運命だと言いきって…。
自分もベルを、あるいはここで、運命だと感じたのなら……。
そこから記憶は曖昧になり、丘を登って、隣を歩き。丘を下って、村の入り口の柵を飛び越え。それでは、と手を挙げた彼女の後ろ姿を見遣り…。
どうしても目が離せなかった、華奢な彼女の後ろ姿に。
——あの娘を運命だと感じたら…お前は彼女を愛せるか……?
と。
誰にでも無く問い掛けていて。
そうして自分が、自分から、愛せるかどうかと問われたら…。
——…俺は……愛せる…かもしれない。
と。
不意に浮かんだいつかの宿の、白い肌から落ちかけた布の白さにハッとして。
——…俺は彼女を、たぶん、そこまで……愛せてしまう…かもしれない。
と。
思えば…。
思ってしまったら……。
フッと視線を無理矢理剥がし。
今更ここで気付いたところで…気付いてどうするつもりだ、と。
胸に立ちこめた気まずさに、意識を別の場所へと逸らし…だから、どうもしないだろう…?と。慌てて意識をまた逸らす。
そうして戻った宴席は、相変わらず賑やかで。
これなら少しは気が紛れる…と、息を吐いたのは無意識か。
その後、ベリルに「…花は貰えた?」と不意に問いを投げられて、「…ああ」と言いつつ胸を巡った気まずい丘での記憶を思い。
それをどう取ったのか。「…ふーん」と興味なさそうに、去って行った少女の姿を、苦い気持ちで見送った。