閑話 霧と女王と王妹姫
「なんですって…?」
何の変哲もないその日、私に心酔する侍女の一人が、姉に届いた知らせの一部を私の耳に囁いた。
「それで…陛下は?」
「表面上はお変わりございません」
その言葉を受け、でしょうね、と。
一つ頷き返してみせて。
「でも、意外だわ。占者(リセリア)の言を信じられずに、神国(デイデュードリア)から死報官をわざわざ呼び寄せて確認するなんて…。それが“死んだ”と言ったのならば、間違いはないのでしょうけど」
と、憂い顔で言葉を返す。
一度、軽く顎を引いたら側に寄り添うその侍女に、低い声音で伺うように大事な話を持ちかけた。
「…それで、例の女の事だけど」
その一言で“心得た”雰囲気を出す私の侍女は。
「存命のようでございます」
と、憎々しげに囁いた。
「……あの霧が…しくじった、と」
「女が生きている以上、そうとしか考えられません」
昏い声音で続けた後に。
つい、思わぬ感情が立ってしまったと、彼女は再び気配を殺す。
「まさか、あれに殺(や)られた訳じゃないでしょうね…?」
今までは、平民の、只の女だと…そう聞いていたけれど。
もしや、と思い呟けば、侍女は肯定するように僅かに己の首を振る。
「冒険者ギルドでもそこそこ有名な様ですが…さすがにヘイズ様をどうこうできるとは……」
あり得ない、という断定を受け。
まぁ、わたくしも、さすがにそれは無いだろうと思っていましたけれど。
と。
では何故“霧が死んだ”のかしら?
そう思って視線を上げた。
「…ユーグドリアの王子から、新しい茶葉が届いていたわね?」
長年私に仕える彼女は、その言葉で全てを察し。
すぐに準備して参ります、と自然な動作で部屋を出た。
その後、姉への連絡と茶器の準備を終えた彼女は、いつも通り控えめに私の部屋の扉を叩くと、何も言わずに後ろに従いカートを押して歩き出す。
数百年続く王家は質実と過ごしてきたが、女神の加護を生まれながらに授かった私のために、祖父母はもちろん早世した両親は、私の居室がある棟を他の棟より華やかに改装してくれた。王城の一角にこうした場所がある事も、いつか何かの役に立つだろうから、と。贅を尽くした煌びやかな空間を、今日もうっとり視線を配べて、ゆったりと横切った。
そのうち、陛下が部屋を抱える重厚な棟に繋がり、あちらこちらに屈強な警備の兵を見かけると、一際造りのしっかりとした扉の前にさしかかり。近衛が私に気付いた時に先に内部に伝えられ、返された言葉の通り、緩やかに扉が開く。
「いらっしゃい」
と、机から顔を上げた姉上は、いつも通り平静で女王の顔をしていたが。私を伺い、僅かに緩んだ目元の辺りが、どうやら歓迎されている、と。私の目にはそう映る。
——それもそうよね。姉さんは、昔から私の事が大好きなんだもの。
思えばこちらの口元も知らず知らずに弧を描き。
「お忙しい所、失礼致します」
と、一応、形式ばかりとはいえ丁寧に膝を折る。
背後では扉が閉まり、話を詰めていたらしい老齢の宰相が、こちらに礼を取り静かにその場を辞したなら。
「今日はどうしたの?」
と、親しみのある優しい口調で、姉がそう問い掛けた。
「ユーグドリアの王子から、新茶を届けて貰ったの」
「まぁ。嬉しいわ。ちょうど喉が渇いていたのよ」
くすくす、と笑った後に。
「それで?まさか味が気に入ったなら、輸入して欲しい、って?」
普段からは考えられないチャーミングな返答に、ほんの少し驚きつつも「やっぱり、そういう事よねぇ?」と。こちらも協調するように困った顔をしてみせたなら。私達が語らう間に茶を入れていた私の侍女が、すかさずカップを差し出した。
今日の姉は執務の椅子から立ち上がる気が無いようで、いつも通り手前のソファに私が腰を下ろしたら、頂きます、と呟いて優雅な動作でお茶を飲む。この女王には私のような華やかさなど、ひとかけらも無いのだが。こういうちょっとした動作の中に高貴さを秘めていて…どうやらそれが臣下の心を掴んでやまないようだ、と。姉の周りの“お堅い”宰相様や大臣を頭の裏に思い浮かべては、直に隅に追いやった。
さて、この話の流れで、どうやって“知ろう”かと。懐刀の消失の痕跡が無いかしら、と、少し考えていたのなら。
「民に流通する分がこの味の半分だとしても…まぁ、美味しい方かもしれないわね」
と。
後で話を通してみるわ、と、カップを置いて姉が言う。
慌てて。
「本当?すぐに王子に手紙を出すわ」
と、自然を装い返したのなら。
「そうそう、貴女に良い話があるわ」
姉は微笑みこちらを向いた。
何かしら?と思っていれば。
「貴女、ずっと東の勇者に会ってみたいと言っていたわね」
不意にそんな事を言い。
その一言にまさかと思い、思わず体を持ち上げたなら。
「先日、宝飾庫を整理していた管理官がね、古い鏡を見つけたらしいのよ。宝具であるのは間違いないはずなんだけど、どんな効果を秘めているのか書き記しが無かったらしくてね。東の勇者に鑑定の依頼を出したわ」
まぁ、内容が内容だけに、急ぐものだとは言えなくて。彼が来るまでもう暫く時間がかかるようだけど。
と。
霧(ヘイズ)の“終わり”が気になって何か掴めないかしら、と、訪れたはずの私は。
彼がそのうち此処に来る!という話に舞い上がり。
「お姉様、それ、本当…!?」
と、喜色を讃えて返していたのだ。
今の聞いた!?と侍女を見遣れば、感動の雫を瞳に何度も何度も頷いたので。
「こうしてはいられないわっ」
と私はそのまま息巻いて。
「ねぇ、お姉様、ドレスを新調してもいい?宝石も、手袋も、靴も新調してもいい?」
と。
まるで子供に返ったように、その場ではしゃいでしまったのである。
姉の了承の頷きに、慌ただしく執務室を後にして。
霧(ヘイズ)の死因も気になったけど…まぁ、今はいいかしら?と。
そんな私の後ろ姿を、姉が遠く、眩しそうに見ていた、なんて。
全く気付かないまま———。
先に思惑を逸らされた事にも気付かぬ私は、軽やかな足取りで回廊を歩み去り。
勇者様はいつ頃いらっしゃるかしら?
あ。そうだわ。あの女。
勇者様のためにもなるし、ついでに消してあげましょう。
そうと決まれば。
——さぁ、忙しくなるわよ、ルナマリア。
と。
得意なはずの“女神の笑み”をごく自然に浮かべてみせて、私は心も軽やかに自室への扉をくぐる———。