ステップ8 いいのかな? 二度目のお泊り、でも夢は
「僕も、そろそろ……」
一旦星奈さんの『家』まで戻り、淹れてもらったお茶を飲み終えた僕は、時間も遅いしそろそろおいとましようとしていた。
だけど、その言葉を星奈さんが遮る。
「ねぇ、富永くん。きょ……今日も、昨日みたいに泊まっていって……」
「え……?」
僕は驚いた。おとなしい星奈さんが、そんなことを言うなんて。
レイ子さんはなにも言わずに座ったまま、僕の答えに耳を済ませているようだった。
「イヤ、かな?」
「そんなことないよ。でも、迷惑じゃない?」
ふるふる。星奈さんは首を横に振る。
「もう少し、そばにいてほしくて……」
顔を赤らめながら、そうつぶやく星奈さん。
「うん、わかった……。あっ、でも、昨日も帰ってないから、一度戻って伯母さんに心配いらないって言ってこないと。あと、お風呂にも入ってこようかな」
「あっ、そうね……。私も昨日はあのまま寝ちゃったし……。そのあいだにシャワーを浴びてくる」
シャワー。
学校に住んでいる星奈さんとしては、シャワーはプールに備えつけのシャワー室ということになる。
基本的に夏にしか使わないプールのシャワー室だから、当然ながら温かいお湯なんて出ないはずだ。
それでも、伯母さんの家のお風呂に誘うっていうのも気を遣わせそうだし、結局僕はなにも言えずじまいだった。
「それじゃあ、あとでね」
「うん」
こうして僕は、一時的にではあるけど、伯母さんの家へと戻った。
☆☆☆☆☆
帰り道、とはいっても学校から近いし距離なんてほとんどないのだけど、そのあいだの時間を使って、僕は少し考えていた。
魔流とかいう化け物がいつ出てくるかもわからないなら、星奈さんをひとりにしておくのも危険なんじゃないだろうか。
僕と出会う前にも戦っていたみたいだから、多分大丈夫だとは思うけど、今日はすでに一度戦っている。星奈さんだって疲れているはずだ。
今すぐにでも階段下のあの場所まで戻るべきなのでは……。
とはいえ、無断で二日も外泊するわけにはいかないし、お風呂にも入りたいのは確かだった。
なるべく急いで済ませて、星奈さんのもとに戻れば大丈夫かな。
僕はそう結論づけながら、伯母さんの家の玄関を開けた。
「ただいま~」
「あら、おかえり、波徒。そういえば、昼間は他の子と一緒だったから訊かなかったけど、あんた昨日はどこに泊まったんだい?」
ドアを開けるなり、伯母さんの声が降りかかってきた。ちょうど玄関の靴箱の整理をしていたみたいだ。
「え~っと、ちょっとその、友達の家に泊まったんだ。それで、今日もまた行くことになってるんだよ」
「……へぇ~、友達の家、ねぇ……」
「な、なんだよ……」
なんでそんな、ニヤニヤしてるのさ。
「女の子の家?」
「なっ……そんなんじゃ、ないよ!」
「ほんとにぃ~?」
「ほんとだってば! とにかく! お風呂だけ入ってすぐ出かけるから!」
僕は伯母さんから逃げるように、玄関から駆け出した。
自分の借りている部屋に戻り、パジャマを取り出す。
あっ、でも、いくら学校まで近いとはいえ、パジャマのまま外に出るわけにはいかないか。
そう考え、僕は下着だけ持ってお風呂場へと向かった。
急いでお風呂を済ませた僕は、軽く髪を乾かし、再び制服に着替える。
素早く部屋に戻ってパジャマを手提げ袋に入れると、せわしなく部屋を飛び出した。
「それじゃあ、行ってきま~す!」
「波徒、夕飯はいいのかい?」
伯母さんの声に、一瞬立ち止まる。
「ん……、いいや。小遣いも残ってるし、必要ならなにか買って食べる」
「そうかい。じゃあ、気をつけて」
「うん」
そして走り出す。
と、扉が閉まる瞬間、微かに声が聞こえた。
「あの子に、よろしくね」
「……え?」
聞き返そうと思ったときには、すでに扉は閉まっていた。
――伯母さん……?
気にはなった。でも、今は急いで戻らないと。
僕は星奈さんの『家』を目指して月明かりの中を全力疾走した。
☆☆☆☆☆
星奈さんの『家』まで戻ると、レイ子さんが迎えてくれた。
「おかえり、早かったね。詩穂はまだ戻ってないよ」
「はぁ、はぁ、そっか」
あまりに急ぎすぎて、息が切れていた。
「お風呂に入ったみたいなのに、走ってきたの? 汗かいてるじゃない。なにマヌケなことしてんだか」
「悪かったね」
「いいけどね。詩穂がそんなに心配だった?」
ニヤニヤ笑うレイ子さん。
なんだよ、伯母さんといいレイ子さんといい、そんなふうに笑って……。
「べつに、そういうわけじゃないよ。ところで、パジャマに着替えるから」
「うん、どうぞ」
「……あっち向いててよ」
「男の子でも、恥ずかしいんだねぇ。はいはい、わかったわ、了解!」
レイ子さんはそう言いながら後ろを向いた。
僕は急いで着替えを済ませる。
そこへ、星奈さんが戻ってきた。
「あ……ただいま」
「おかえり……」
星奈さんは、ほのかに濡れたままの髪で、窓から差し込む月明かりのせいなのか、とても色っぽく見えた。
ドライヤーなんてないだろうから、タオルで拭いただけなのだろう。
「ごめんね、無理言って」
「いや、僕は全然……」
なにが全然なのか、よくわからないけど。
「ふふ。でもちょっと今日は疲れちゃったな。時間も遅いし、早く寝ないと」
「うん。あっ、だけど、どうしようか……」
僕は視線を落とす。そこには星奈さんがいつも使っている布団があるだけだった。
レイ子さんは幽霊だから布団なんて必要ないだろうけど、僕はいったい、どうすればいいのか。
廊下の上に直接寝るのは、いくらなんでも避けたい。かといって、布団がもう一式あるわけもない。
「座布団を並べて敷いて寝ればいいかな」
ま、これしか方法はなさそうだし、廊下と比べたら寝床としては充分だろう。
僕はそう思って提案したのだけど。星奈さんは否定の言葉を返してくる。
「掛け布団もないよ? 朝方になったら寒いと思うし、座布団だってふたつだけしかないから、上に掛ける分まではないし……」
「う~ん……」
だとすると、どうすればいいのやら。
「一緒に寝ればいいじゃん」
思案する僕に、レイ子さんはニヤニヤ顔で言い放つ。
あなたは、またそんなことを……。
でも、
「うん、そうね。それがいいと思う」
星奈さんはほのかに顔を赤らめながら、驚きの発言を返してきた。
「えっ、で、でも……!」
星奈さんの布団は完全にひとり用。
ふたりで入ることも不可能ではないだろうけど、そのためには、かなり密着する必要があって……。
「あっ、でも、反対側を向いてね、さすがに恥ずかしいから……」
星奈さんはさっさと布団に潜り、場所を半分空けてくれた。
「どうぞ」
「えっと……」
レイ子さんがニヤニヤしたままじーっと見ているのが気にはなったけど、遠慮しても星奈さんに気を遣わせるだけかもしれない。
それに眠いと言っていたのだから、あまり時間をかけているわけにもいかないだろう。
「そ、それじゃあ……」
「……うん」
僕は遠慮がちに布団に入った。
星奈さんはすぐに体の向きを変えて横向きになる。
それにならって僕も反対側を向いて横になった。
「布団、ちゃんと掛かってる?」
「うん、大丈夫」
そう言いながらも、かなりぎりぎりではあった。
それに、背中、というかお尻の辺りが微妙にくっついているような……。
って、意識しちゃダメだ!
もう遅いんだから、早く寝ないと。僕も今日は、すごく疲れたし。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
挨拶を交わしたものの、ドキドキして寝られなかった。
「ふふふ、やっぱり新鮮だわぁ。でも、変なことしちゃダメだからね?」
目をつぶってはいても眠っていないのがわかっているのだろう、レイ子さんが僕の耳もとでささやいている。
まったく、この人は……。
そんなささやきを耳にしつつ、僕はいつの間にか眠りに落ちていった。
☆☆☆☆☆
――暗い……。
コツッ、コツッ……。
歩くたびに自分の足音だけが闇の中に響く。
頭がぼーっとする。
ここはいったい、どこだろう?
一歩一歩、ゆっくりと歩みを進める。
まるで自分の意思とは別の力で足が動かされているかのようだ。
次第に闇にも目が慣れてくる。
窓がある。壁がある。ドアがある。
真っ直ぐに続く無機質な空間。
校舎内のどこかには間違いないだろう。
不意に、一枚のドアの前で足が止まる。
教室のドアとは明らかに違う、木目調の扉。
こういったタイプの扉は、ここが高等部の校舎内だとすれば一ヶ所しかない。
理事長室だ。
すっと右手が伸びる。
やはり自分の意思で動かしているとは思えない、おかしな感覚。
そんな僕の感覚とは無関係に、扉は開かれた。
中も真っ暗だった。ゆっくりと、一歩一歩慎重に足を繰り出す。
部屋の奥には、もう一枚の扉があった。最初の扉と同様、木目調の扉だ。
躊躇することなく手が伸ばされ、ドアノブを回す。
キー……。
微かに音がする。
そんなことはお構いなしに、部屋の中へと身を滑り込ませた。
やはり中は暗い。
それでも、窓に掛かったカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいて、辺りを少しばかり照らしていた。
なにか、そこにある。
と、それがもぞもぞと動いた。
バサッという音とともに起き上がってきたのは、どうやら人のようだ。
身構える僕。
「…………!?」
起き上がってきたその人は、目の前の異変に気づいて目を見開く。
ちょうど漏れてきていた月明かりがその顔をしっかりと照らし出した。
中年のおばさんのようだった。
「な……あんた、いったい……!?」
突然の大声。
それに気づいたふたつの影が起き上がり始めるのがわかった。
僕は……素早く動いていた。
右手に力を込める。
手には……包丁かなにかだろうか、結構な刃渡りのある刃物が握られていた。
ズシャッ!
嫌な感触が右手に伝わる。
腹部をひと突き。
刃物は根もとまで吸い込まれていた。それを一気に引き抜く。
「……な……ぐぁ……う……」
なにが起こったのかわからない、そんな表情で、先ほどよりも大きく目を見開いたまま、おばさんは倒れた。
血が吹き出して周囲に飛び散る。
状況は完全に把握していないものの、異常に気づいた別の影が叫んだ。
「な……っ!? 貴様っ!」
こちらは中年の男性の声。
その声にも戸惑うことなく、僕は動いていた。
先ほどと同様に、腹部への深い一撃。
「ぐ……がぁ……!」
うめき声を上げ崩れる男。
そのとき、もうひとつの影と目が合う。
怯えた目で涙を流し、子猫のように見上げる少女。
でも――。
僕は……いや、僕の腕は、今までのふた突き同様、躊躇せずに動いていた。
――やめろぉぉぉぉぉぉ!
思わず叫んでいた。その叫び声も、空しく頭の中で響くのみ。
刃物は……少女にも襲いかかった。
ズシュッ!
飛び散る血の赤が、月明かりの中できらめくように見えた。
「……に……逃げろ……!」
刃物は少女の腕をかすめただけだった。
男が僕の足につかみかかり、バランスを崩したからだ。
ズシャッ!
刃物を、つかみかかっている男の腕に振り下ろす。
「ぐぁ……!!」
その隙に、少女は逃げ出していた。
扉をすり抜けていく。
僕は、それを追いかけた。
一枚目、二枚目の扉を開け、廊下に出る。
左右を見回すと、走っていく少女の後ろ姿があった。
腕からは血を流している。
逃げたとしても、逃げきれる可能性は低い。
――でも、誰か人がいて助けてくれるかもしれない! だから、逃げるんだ!
僕は、自らが少女を追う殺人鬼であることも忘れ、そう願っていた。
少女は必死に逃げた。
追いかける僕は、鬼ごっこを楽しんでいるかのように、つかず離れずくらいの距離で走っている。
廊下は思いのほか明るく思えた。
単に目が慣れたというのもあるだろうけど、角度の問題なのか、たまたまさっき廊下を通っているときまでは雲に隠れていたのか……。
ともかく、周囲は月明かりによってほのかに照らされていた。
家庭科室と書かれたプレートを横目で見ながら、少女を追いかける。
――あれ? この先に行くと……。
「きゃっ!」
少女は、曲がり角を曲がった瞬間、腕から流れる血で滑ったのか、派手に転んだ。
そこは階段下の空間だった。
なるほど、曲がってすぐに階段があると思い込んでいた少女は、目測を誤ってバランスを崩し、その結果転んでしまったということか。
冷静な分析が脳裏をかすめる。
思考すらも、自分のものとは思えない感覚だった。
――さっき家庭科室の横を通った。とするとここは、特別教室棟一階、東側の階段下ってことになる。
そこには……そうだよ、星奈さんと僕が、一緒に寝ているはずじゃないか!
だけど、そんな様子は微塵も見られない。
ただ冷たい階段がそこには存在しているだけだった。
少女が怯えた目で振り返る。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕を見上げ、震えていた。
逃れようと身をよじるものの、腰が抜けてしまっているのかまともに動けもしない。
これで、終わりだ。
右手に握られた刃物からは、血が滴り落ちている。
この少女の血を含め、三人分の血だ。
怯えて声も出せない少女。
ウェーブがかった綺麗な長い髪の毛の先端は、腕からの出血で赤く染まっていた。
僕は躊躇なく刃物を振り上げる。
目をつぶって、顔をそむける少女。
――もう、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
そんな叫び声も、なんの抵抗にもなりはしない。
刃物は、勢いよく振り下ろされた――。
☆☆☆☆☆
……はっ!
思わず布団から飛び上がっていた。
汗びっしょりになった僕。
はぁ、はぁ……。まだ息が荒い。
夢……すごく怖い夢を見ていた、気がする……。
でも……よく思い出せない。
ただ右手に、なんだか妙に汗をかいているようだった。
「富永くん! ……大丈夫?」
不意に、すぐそばから声がした。
布団から起き上がって座っている状態の僕の横で、同じように布団から起き上がって座っている星奈さんが心配そうに見つめていた。
星奈さんのウェーブがかった長い髪が、思わず夢の中の少女と重なる。
そのおかげなのか、夢の内容をはっきりと思い出した。
って、顔近っ!
そうだった、同じ布団で寝ていたわけだから、それは至近距離にもなるってもので……。
「あっ、ご、ごめん、大丈夫だよ!」
「そ……そう、よかった」
僕が顔を赤くして慌てていることで恥ずかしさが移ってしまったのか、星奈さんのほうも頬を染めながら身を離した。
「おはよ~。詩穂が隣に寝てる状態だってのに、怖い夢を見てたみたいねぇ? まったく、ダメじゃないの。ここは甘ぁ~いラブロマンスな夢を見ないと!」
突然レイ子さんの声が響く。朝からハイテンションな幽霊だった。
「うるさいな! 仕方ないじゃんか、夢までコントロールできないよ」
と言いながらも、甘いラブロマンスな夢のほうが見たかったな、と思ってしまう僕だった。
それにしても、なんだったのだろうか、あの夢は。
すごくリアルに感じられた刃物の感触や、悲鳴やうめき声、そして、見上げる少女の瞳……。
「ほんとに、大丈夫?」
すでに布団から出て、朝のお茶を淹れてくれた星奈さんが、湯飲みを差し出しつつ僕の顔をのぞき込んできた。
「あ……うん、大丈夫だよ」
夢のことなんかで星奈さんに心配かけさせるわけにはいかない。
所詮は夢だ。現実ではない。
僕はそう考え、嫌な夢の感触を忘れ去ることにした。