ステップ6 うりふたつ!? もうひとりの星奈さん
春とはいっても、朝の空気はまだまだ涼しい。
僕は肌寒さに震え、目を覚ました。
辺りはもう明るくなっていた。
ほのかに甘い香りを感じながら、目を開ける。
その視線に飛び込んできたものは、普段の目覚めでは考えられない至近距離にあった。
……………。
「う……ん……」
鼻をくすぐる吐息。
すぐ目の前にあるのが星奈さんの顔だと気づく。
ばっ!
僕は飛び起きた。
「あら、おはよう」
座布団を敷いて正座しながら、レイ子さんがニヤニヤしながらこっちを眺めている。
幽霊なら座る必要なんてないんじゃ……って、そんなことはどうでもいい。
「……そっか、疲れてそのまま寝ちゃったんだ……」
「うん、そう。ちょうど倒れたのが詩穂のすぐ横だったし、そのまま寝かせておいたのよ。掛け布団は詩穂の分しかなかったから、朝は寒そうだったけど。風邪をひいても文句は言わないでね?」
と、そんな会話が耳に届いていたからだろう、
「う~……ん……」
星奈さんも目が覚めたようで、まぶたをこすりながら身を起こした。
「あっ、おはよう」
「……富永くん……、ん、おはよう」
まだぼーっとした瞳で、挨拶に応える星奈さん。
朝は苦手なのかもしれない。それから五分以上は、ぼやけた感じのままだった。
セットしてあった目覚まし時計のうちのいくつかが鳴り始め、それをぎこちない手つきで止めた頃には、少しは頭もはっきりしてきたのか星奈さんがお茶を淹れてくれたので、僕はそれを飲み干す。
「え~っと……」
どう声をかけるべきなのか、僕のほうも頭がまだぼーっとしているようで、言葉が浮かばなかった。
「初めてのお泊りは、どんな気分?」
ニヤニヤしながら訊いてきたのは、もちろんレイ子さんだった。
そんな言い方はしないでほしいものだ。確かに、星奈さんの『家』に泊まったのは、確かなのだけど……。
星奈さんのほうも恥ずかしそうに目を伏せたまま、黙ってお茶を飲んでいた。
「あの、ごめんね、星奈さん。僕、疲れて眠っちゃって、その……」
「うん。私もすごく眠かったから。それに、富永くんがいてくれたから、勝てたんだし……。ありがと……」
どうにか話そうとしたけど、やっぱりまだお互いに恥ずかしさが消えず、すぐにまた沈黙の時間が続いてしまう。
レイ子さんもなにも喋ってはくれなかった。
空気はまだ涼しさを含んでいる。廊下は静まり返っていた。
窓からこぼれてくる光は結構明るい。
晴れているみたいだから、昼間は暖かくなりそうだ。
ふと時計を見る。
もうそろそろ、早い人は登校してくるくらいの時間になっていた。
「あっ、その……じゃあ、僕は先に行くね。一緒に教室まで行くのは、ちょっと、恥ずかしいし……」
「う……うん、そうね。わかった」
湯飲みを星奈さんに手渡し、僕は立ち上がる。
制服のまま寝てしまったからだろう、少し体が重く感じられた。
「私も着替えてから教室に行く」
「わかった。それじゃあ、またあとで」
「うん、またあとで」
そっけない感じでそれだけ言葉を交わすと、僕は教室へと向かって歩き出した。
☆☆☆☆☆
教室に入って席に着くと、後ろの席の鳥河がなにやらニヤニヤしていた。
「??? 鳥河、どうしたんだ?」
「お前……、星奈さんの『家』にお泊りしたんだって?」
「な……っ!? なんで、それ……を……」
思わず大声になり、周りを気にして小声に戻す。
でも、それも無意味だったようだ。
「なんでって、もうクラス中、その話で持ちきりだぞ?」
「ええっ!?」
慌てて辺りを見回すと、すでに登校した生徒たちは何ヶ所かに固まり、それぞれに雑談をしていた。
それ自体はいつもの光景なのだけど、みんなこっちをチラチラとうかがい、僕と目が合うと慌てて視線を逸らす。
ど……どうしてバレてるんだ……!?
僕は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、考えてみる。
「鳥河、お前……じゃないのか?」
「俺が言いふらしたってのか? そりゃあ、知ってたら可能性はあったかもしれないけどな、面白いし。でも俺じゃないぞ」
鳥河の言っていることは本当なのだろう。嘘をついてもなんの意味もなさそうだし。
考えてみれば、星奈さんの『家』は特別教室棟の階段下にあるのだから、家庭部の部室である家庭科室だって近い。
文科系の部活に朝練なんて普通はないだろうけど、例えば忘れ物を取りに来たとしても不思議ではない。
その途中で、僕は布団の上だったとはいえ、一緒に寝ているふたりを見かければ……。
それは、噂にもなるというものだろう。
クラスメイトは次々と登校してくる。そして教室に入るなり、噂話を小声で聞かされているようだった。
そのたびに、こちらにチラチラと視線を送るクラスメイトたち。
……う~ん、僕はいったいどうすれば……。
ともあれ、一応事実ではあるし、どうにもできなさそうだった。
噂が自然と消えてくれるのを待つしかないか……。
悟りきった表情を浮かべて時間が過ぎるのを待っていると、続いて教室に入ってくる姿があった。
「おはよぉ~」
ひとつ前の席に集まっていた初吉さんグループに挨拶して、自分の席に座る。
そんな星奈さんに、中和田さんがすかさず話しかける。
「星奈さん!」
「はい? ……えっと、なに?」
きょとんとした表情の星奈さんに、中和田さんは好奇心でキラキラ輝いた瞳を向けながらこう言った。
「おめでとう!!」
「……え? え?」
なにがなんだかわからない星奈さんは、目をパチクリさせるだけだった。
「ふふふ。お泊りのこと、ですよ」
初吉さんが解説を加えると、星奈さんは見る間に真っ赤になって僕のほうに視線を向けてくる。
な……なんで話しちゃってるのぉ~?
そんな非難を含んだような涙目だった。
ふるふる。
ぼ……僕じゃないよ、という意思表示で、首を大きく横に振る。
その後すぐに琴崎先生が入ってきたことで質問攻めは免れたけど、ともかく僕と星奈さんを見るクラスメイトの視線は、明らかに昨日までとは違っているように感じられた。
☆☆☆☆☆
「はぁ~い、みなさん、席に着いてねぇ~」
琴崎先生がいつもどおりの明るい声を響かせて、ホームルームをスタートさせた。
「今日は、うちのクラスに新しいお友達が加わります!」
ざわざわざわ。微かなざわめきが広がる。
「転入生ってこと?」「でも、まだ始業式から数日しか経ってないのに」「可愛い女の子がいいな」「それより、新しいお友達って、ここは小学校だっけ!?」
パンパン。琴崎先生が両手を二回鳴らす。
「ほらほら、みなさん静かに! え~っと、ちょっと……びっくりするかもしれないけど」
――びっくりする? どういうことだろう?
「星野さん、どうぞ」
呼ばれて教室に入ってきたのは、ひとりの女の子だった。
「お……おぉぅ……?」
明らかにおかしなどよめきが走る。
そんな中、ゆっくりと歩を進める転入生。
先生の横に並んで正面に向き直った、その顔は――。
「星奈さん……?」
無意識に声に出していた。
他のクラスメイトもみな同じ思いだったに違いない。思いきり目を丸くしている。当の星奈さんを含めて。
「え~っと、ほんとそっくりだけど、親戚とかでもないみたいなのよ。先生も驚いちゃったわ。……あっ、星野さん、ごめんなさい。自己紹介お願いね」
「……はい。えっと、星野枝歩です。急な親の転勤で、こんな時期に転入してくることになりました。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる、星野枝歩さん。
星奈詩穂さんに、顔だけでなく名前まで似ているなんて。
それで親戚でもないというのは、すごいことのような気がする。
自分に似ている人が世界には三人はいる、なんてよく言うから、ありえないとまでは言えないだろうけど。
もしかしたら星野さんはドッペルゲンガーみたいなお化けで、出会ったら死んでしまうとか……なんてことはないか。
レイ子さんという幽霊の存在を知ってしまった僕には、絶対にないとは言いきれなかったりするのだけど。
「まぁ、しばらくは混乱するかもしれないけど……」
「混乱、ですか……? ……あっ」
さっきから不思議そうに首をかしげていた星野さんが、星奈さんの視線に気づく。
自分を興味深い目で見ている、自分とそっくりな顔をした女子生徒からの視線に。
さすがに驚くかな、なんて思っていたけど。
「そっか、あの人とそっくりだから……。そういうことだったんですね」
あっさりと納得したみたいだった。
「私が言うのもなんですけど、ほんとにそっくりですね~。あの……、よろしくねっ!」
ニコッ!
愛くるしい笑顔で星奈さんに向かって微笑む星野さん。
その笑顔は、本当に一点も曇りもないような澄みきった青空のようだった。
クラスの中では少数派となる男子だけでなく、多くの女子の目をも釘づけにしていた。
「う、うん、よろしく……」
星奈さんはいつもどおりの遠慮気味な声で、少し頬を染めながら答える。
新しいお友達なんて先生は言っていたけど、まだ数日しか経っていないとはいえ、途中からクラスの中に溶け込むのって結構大変なことだと思う。
だけど星野さんの場合は、そんな心配はまったくいらなそうだった。
「席はとりあえず、窓際の一番後ろね。というわけで、みなさん仲よくしてあげてねぇ~! じゃ、ホームルーム終わりっ!」
そう笑顔で言ったかと思うと、琴崎先生はさっさと教室を出ていった。
教師がいるとできない話もあるだろうからねぇ~と、ホームルーム後は迅速に出ていくことが多いのだ。
さて、星野さんの席は窓際の一番奥の席。男子生徒が並ぶ列の一番後ろということになる。
よくよく見てみれば、新しい机がひとつ追加されて並べられていた。
教室に入ったときに気づきそうなものだけど、『お泊り』の件でそれどころではなかったのだ。僕も、クラスメイトたちも。
星野さんが席に向かって歩いてくる途中、僕は彼女と目が合った。
ふと、僕の席の横で一瞬だけ立ち止まる。
「ふふっ、よろしくね、富永くん」
ほのかに微笑みながら、星野さんは小声でそう言うと、何事もなかったかのように列の一番後ろの席に着いた。
「あれ? どうして僕の名前を知ってるんだ……?」
当然の疑問だと思うのだけど。
後ろの席の鳥河は気づいていないのだろうか?
確かに小声だったから、僕以外には聞こえにくかったかもしれない。
といっても、鳥河は真後ろの席だ。
星野さんが歩いてくる姿に注目していたら、僕の席の横で立ち止まってぼそぼそとなにか言ったことには、いくらなんでも気づくはず……。
そう考えて後ろを振り向いた僕は、すぐに納得させられることとなる。
鳥河は、ぐ~すかぴ~とイビキをかきながら、机に突っ伏して完全に眠りこけていた。
☆☆☆☆☆
一時間目の授業が終わり、休み時間になった。
いつもと同じように星奈さんや初吉さんの席のほうに向かおうとしたところで、不意に声がかかる。
「富永くん、もしよかったら学校の中を案内してもらいたいんだけど……ダメかな?」
振り返ると、胸の前で両手を組んだお願いポーズの星野さんが、僕を上目遣いで見つめていた。
予想外に近かったその距離に、ついドキッとしてしまう。
「えっ、あ、いや、ダメってことはないけど……。でも、僕とかじゃなくて、学級委員の初吉さんとか、女の子に頼んだほうが、わかりやすく教えてもらえそうな気が……」
「私を案内するのは、イヤ……?」
目をうるうるさせながらお願いポーズを続ける星野さんに、否と答えることなんてできやしなかった。
「わ、わかったよ」
「わーい、ありがと~♪」
僕の返事を聞くやいなや、腕に飛びついてくる星野さん。
これには驚いた。
というか、その、腕に当たる、膨らみが……。
とはいえ、そんな星野さんを突き飛ばして離れるなんてことができるわけもなく。
僕は顔を赤くしながらも、なにも言えないでいた。
そんなタイミングで、初吉さんや集まっていた小松さんたちにいつものように囲まれながら、こっちのほうに視線を向けている星奈さんと目が合ってしまった。
僕は焦った。それでもなお、動けない。
星奈さんは少し戸惑っていたみたいだけど、意を決したように頷くと、手招きしながら声をかけてきた。
「富永くん! こっちにおいでよ!」
普段、僕が自分の席で鳥河と喋っていたら遠慮して声をかけたりもしないことが多い星奈さん。
だけど、なにかを感じていたのだろうか、今のはやけに力強い口調だったように思えた。
その瞳は、「お願い、来てよ」と懇願しているようにも見えた。
「ごめんなさい、富永くんに学校を案内してもらう約束になってるの。……それじゃ、行こ!」
僕が答えるより早く、星野さんはそう言って腕を強引に引っ張りながら教室を出てしまった。
星野さんに引っ張られている僕は、顔の前に自由なほうの片手を添えて、星奈さんにごめんねのポーズを返すことしかできなかった。
教室を出たはいいけど、短い休み時間ではゆっくり案内できる余裕なんてほとんどない。
僕はとりあえず近い教室なんかを軽く回って案内した。
「ねぇ、星野さん。どうして僕の名前を知ってたの?」
その帰り際、疑問に思っていたことを訊いてみた。
「え? なんのこと? ……あっ、ここはなんの部屋?」
「……緑の部屋だよ。色の名前をつけてあるだけで、単なる空き教室なんだけどね」
質問をごまかされたようだったので、一瞬不快感を表しそうになるのをどうにか堪え、僕は説明する。
「そっか。生徒数が減ってるもんね。さてと、そろそろ休み時間も終わるけど、こんな短い休み時間じゃ、全然案内してもらえてないね。残った場所は、今日一日、昼休みとかも使って案内してね!」
結局、お願いを断れなかった僕は、休み時間をすべて使って、星野さんの学校案内につき合うことになってしまうのだった。
☆☆☆☆☆
昼休みには、まず食堂へと向かった。星野さんがそう望んだからだ。
そこで一緒に昼食を食べたあとは、また案内の時間となった。
「ここが中庭で、花壇があるんだ。その先に行くと、焼却炉とか裏門なんかがあるよ」
僕と星野さんは、食後の散歩がてら中庭を歩いていた。
「右に曲がると飼育小屋があって、さらに先は校庭になってる。校庭へは、ここを通るよりも校舎の反対側を回って行ったほうが早いけどね」
「そっかぁ、なるほどね」
真剣に案内を聞いてくれる星野さん。
それはいいのだけど、ずっと腕を組んだままなのは、ちょっと恥ずかしい……。
ほのかに頬を赤らめつつ歩いていると、焼却炉の辺りまで差しかかったところで、突然聞き慣れた声がかけられた。
「おや? 波徒じゃないか。こんなところで、どうしたんだい?」
声をかけてきたのは、伯母さんだった。
でも、それはこっちのセリフだ。どうしてこの学園の理事長である伯母さんがこんな場所にいるんだか。
その理由はすぐにわかった。
伯母さんの隣には、人のよさそうな笑顔を浮かべた男性がいたのだ。
年の頃は、伯母さんより少し上くらいだろうか。薄汚れた作業着のようなものを着て帽子をかぶっている。
もちろん僕は知っている。この人は、用務員のおじさんだ。
学園の用務員室に住み込みで働いているという話を聞いたことがある。
「こんにちは。今日は温かくていい陽気だね」
笑顔のまま、用務員さんは言った。
なるほど。
焼却炉でゴミを燃やしていた用務員さんのもとへ、裏門から入ってきたのか、出かけるところだったのか、伯母さんが通りかかった。
そして挨拶を交わしたあとも、そのまま世間話などに花を咲かせていた、といった感じだったのだろう。
伯母さんはとってもよく喋る人だ。
僕が相手だとそうでもないけど、相手が同世代のおばさんだったなら、何時間でも喋り続けられるくらいに。
今日の相手は用務員のおじさんだったけど、それでも世間話だけで数十分は会話が続けられると予想できた。
「伯母さん、用務員さん、こんにちは。えっとね、こちらは星野さん。今日転校してきたばかりだから学園を案内してたんだ」
「ほほう。まだ入学したばかりのあんたが、案内ねぇ。ほんとに大丈夫かい?」
ニヤニヤ笑いながら、伯母さんがからかいの声をかけてくる。
「大丈夫だよ! ……多分」
少し自信を失ってしまった。
言われなければ、自信満々で案内していたというのに。
と、伯母さんが星野さんに視線を移して、こうつぶやいた。
「あの子に……似てるわね」
えっ?
僕は耳を疑った。
あの子に、似てる。
似てるといえば言うまでもなく星奈さんだ。
ただ、伯母さんはこのあいだ、星奈さんのことは知らないと言っていたはずでは……。
僕がそう言って問い詰めると、
「あ~。あのときは、知ってるなんて言ったらいろいろ訊かれるかと思って、それでとっさに嘘をついたんだよ。もう知ってしまってるだろうから言うけど、星奈さんの過去は、あまり簡単に話していいようなものじゃないからね」
そうか。伯母さんは星奈さんを気遣って、知らないフリをしていただけだったんだ。
そんなやり取りのあいだ、星野さんはただ黙って成り行きを見守っていた。
「おっと、案内の邪魔をしちゃ悪いよね。それじゃあ、星野さん、だっけ? しっかり案内してもらいなさいな」
不意に、伯母さんは早口気味に話を締め、用務員さんのほうに向き直る。
「この学園は広いから、一日では覚えきれないかもしれないね。まぁ、じきに慣れるよ。それじゃあね」
用務員さんもそう言うと、伯母さんとの会話に戻ってしまった。
どうやら、こっちのほうこそ邪魔だったみたいだ。
僕たちは素早く、その場を離れることにした。
☆☆☆☆☆
「ここが特別教室棟。一階が家庭科室と被服室、二階が生物室と化学室と物理室、三階が音楽室とパソコン室になってるんだ」
「へぇ~」
まだ昼休みの時間はまだ残っていたから、今度は教室から遠い室内部分を重点的に回っていた。
「高等部にはここの他にもうひとつ、第二特別棟ってのもあるんだけどね。美術室とか書道室とか図書室とか、静かなほうがいいような特別教室がある感じかな。そっちもあとで案内するよ」
「うん、ありがと。……ねぇ、ここは……?」
星野さんが指差したのは、特別教室棟一階東側の階段下……つまり、星奈さんの『家』だった。
布団はたたんであったけど、隅っこに置いてある状態。他にも簡単な小型のタンスや棚のような物が並べられていた。
さらには、時間がなかったのか、洗ってそのままタオルの上に乗せられて置いてあるふたつの湯飲み……。
今朝僕と星奈さんがお茶を飲むのに使った湯飲みだった。
特別教室棟内もちゃんと案内しないと。
そう思ってなにも考えずに歩いているうちに、ここまで来てしまったのだ。
「あ……えっと、ここは……」
口ごもる僕。
「……布団とかあるし、誰かここに住んでるのね……。やだな、汚い……」
「汚いなんて言うなよ!」
反射的に怒鳴っていた。
「ご……ごめんなさい。……でも、どうしたの……?」
いきなりの大声に怯えきった様子の星野さん。
「いや、こっちこそごめん」
星野さんの言い方はちょっとひどかったとは思うけど、なにも知らないはずの彼女を怒鳴るなんて筋違いだ。
僕は素直に謝った。
「ふふふ。そんなに、あの子がいいの……?」
「……え?」
星野さんがなにを言っているのか、僕にはよくわからなかった。
「……なんでもない。それじゃあ、急いで他の場所の案内もお願いね。のんびりしてたら、昼休みが終わっちゃう」
それから僕たちは、昼休みのあいだに第二特別棟まで回り、最後の休み時間である五時間目のあとの時間で、職員室や保健室なども案内し終えた。
他にはクラブ棟や普段使わないような場所もあったけど、そこまで教えなくてもいいだろう。
この学校で一番厄介なのは、中等部や初等部も同じ敷地にあることだ。
とはいえ、それぞれで使用される建物は区画ごとにまとめられている。その上、高等部に隣接するのは中等部だけ。
ここから向こうは中等部だよ、という境界は教えたから問題ないはずだ。
「今日は案内してくれてありがとう」
「いえいえ。これからも困ったことがあったら相談に乗るよ」
「ふふ、ありがとう。それじゃあ、そのときはまたよろしくね!」
笑い合いながら教室へ戻って歩いていると、チャイムが鳴った。
もう教室はすぐそこだ。まだ先生も来ていないみたいだし、大丈夫そうだ。
僕たちふたりはお喋りしながら教室の後ろ側のドアを開け、教室内へと戻った。
席に着く直前、ふと視線を向けると、星奈さんと目が合った。
でもそれも一瞬のことで、すぐに目を逸らされてしまった。