ステップ4 歪んでる? 日常に潜む非日常
「こら富永くん、よそ見するんじゃありません!」
「痛てっ! ……すみません」
「まったく、たるんでるなぁ~。高校生になったんだから、もっとしっかりしないとダメだぞ!」
相変わらずの子供に言い聞かせるような口調で、琴崎先生に叱られてしまった。教科書による打撃も添えて。
二時間目の国語の授業中だった。
昨夜、あんなことがあったせいで、僕は星奈さんが気になって仕方がなかった。
それでついつい、授業中でもちらちらと星奈さんのほうに視線を向けてしまっていたのが原因だ。
星奈さんの席は、僕から見ると右斜め前方にある。
女子が圧倒的に多い学校で、入学したての状態。基本的に席順は出席番号順、つまり名前の順になっている。
もともと女子校だったからか、出席番号では女子が先になっていた。必然的に出席番号の遅い男子が窓際に並ぶことになる。
星奈さんの席の方向は、僕から見るとちょうど教壇の向きではあるため、不自然ではないはず……。
そう思っていたのだけど、それでも視線の先がずれていると先生にはわかってしまうものらしい。
というわけで、先生から教科書で叩かれる羽目になってしまったのだ。
「懲りないな、お前も」
背後から鳥河のつぶやきが聞こえた。
振り返らなくてもニヤニヤ笑っているのが手に取るようにわかる。
後ろの席からでは、僕がずっと星奈さんのほうを見ているのなんて一目瞭然だったのだろう。
休み時間になると、小松さんが星奈さんの隣の席に陣取った。
その席の子は、すでに違う子のもとへと行ってしまったあとだから、休み時間中ならずっと席は空いているものと思われた。
昼休みにはその席の机を星奈さんの机と向き合わせて、一緒にお弁当を食べている小松さん。
人の席でお弁当を食べるっていうのもどうなのかと思わなくもないけど、その席の子もまた別の席に座ってお弁当を食べていたりするから、おあいこだ。
そうやってグループごとに集まってお喋りしている、いつもと変わらない休み時間の光景だった。
グループといっても、星奈さんと小松さんはふたりだけなのだけど。
ただ、星奈さんのすぐ前の席にも、なにやら別のグループができていた。
席の主は初吉四葉さん。星奈さんのひとつ前の出席番号だし、学級委員に推薦されていたので名前もしっかりと記憶に残っていた。
その席に集まっているのはふたり。中和田若菜さんと、鯖月翼だった。
鯖月は僕のひとつ前の席の男子で、中和田さんとはどうやら幼馴染みらしい。
自己紹介で「中学ではサッカー部でした」と言った鯖月に、「幽霊部員だったじゃん!」とツッコミを入れた中和田さん。
鯖月は、幼稚園の頃からの腐れ縁ってやつさ、と言っていた。
そんな仲のいいふたりの夫婦漫才とも思えるようなやり取り(なんて本人たちに言ったら真っ向から否定するんだろうな)を、初吉さんが温かな目で見つめて微笑んでいる。
そういう図式が自然と成り立っているようだ。
今日もそんな感じだったのだろう。なにか悪口と思われることでも言ったのか、中和田さんにつかみかかられている鯖月の姿が見えた。
その勢いに驚いてバランスを取ろうと振り回した鯖月の手が、机の上に出しっぱなしだった初吉さんの布製のペンケースにぶつかる。
ペンケースは大きく飛ばされ星奈さんの席の横に落ちた。
それに気づいた星奈さんがそっとペンケースを拾い上げ、初吉さんに手渡す。
初吉さんが「ありがとうございます」とお礼を述べると同時に、鯖月も「ごめんね」と謝罪の言葉をかける。
一番の原因とも言える中和田さんは、べつに私は悪くないもん、といった表情でそっぽを向いていた。
「あっ、ミッシィちゃんだよね? それ」
そこで小松さんが声を上げた。「それ」とは、ペンケースにプリントされたキャラクターのことだ。
「ええ、子供っぽいって言われますけれど、大好きなんですよ」
初吉さんは笑顔をさらに輝かせて答える。
「あははっ! 子供っぽくなんてないわよ。私も好きだし。詩穂もこういうの好きだよね」
「うん……好き」
小松さんの言葉に遠慮がちに答える星奈さん。
それを聞いて中和田さんが身を乗り出す。
「へぇ~。そんじゃあ今度、限定のポーチを持ってきてあげる。うちのお母さん、ミッシィちゃんグッズを作ってる会社の社長なんだよね」
「あっ、そうなんだ~」
そんなこんなで、グループは今や五人へと急成長していた。
こうやって輪が広がっていくものなのだろう。
昨日あんなことがあったばかりだから、僕としては星奈さんのことが心配だったのだけど、どうやら心配する必要はなさそうだ。
「なにニヤニヤしてるんだよ、気持ち悪りぃな」
思わず笑みを浮かべていた僕に、突然後ろから鳥河の声がかかる。
「と……鳥河! いつの間に席に戻ってきたんだよ!?」
「トイレに行ってただけなんだから、そりゃあ、すぐに戻るだろ。それより富永、会話にまざりたいなら、行ってくればいいんじゃないか?」
「いや、べつに僕はそういうつもりじゃ……」
「はぁ、まったく……。これだからお前は」
もうすっかり親友気取りなセリフ。
でも不思議と嫌ではなく、そんな馴れ馴れしい鳥河にも、もうすっかり慣れていた。
ふと小松さんが星奈さんに耳打ちする姿が見えた。
何度か言葉を交わしているみたいだったけど、やがて星奈さんがこちらへ顔を向けてこう言った。
「あ……あの、富永くん! こっち、来ない? あっ、鳥河くんも」
「え……あ、えっと……」
突然呼ばれて、僕は戸惑ってしまった。
「ほら、お姫様がお呼びだぞ。行ってこい」
にやけ顔をさらしながら、鳥河が冷やかしてくる。
「お……お前も呼ばれたんだぞ!?」
「ついでだったみたいだけどな」
そう言いながらも、鳥河は僕を先導するように席を立つ。
こうして、僕と鳥河は星奈さんたちの輪の中に加わった。
とはいえ、話には加わったものの、授業の合間の休み時間は短いもので、すぐにチャイムが鳴ってしまったわけだけど。
席に戻る間際、小松さんが僕に小声でささやいた。「富永くん、ありがとね」と。
☆☆☆☆☆
その後も僕たちは、休み時間のたびに星奈さんと初吉さんの机の周りに集まるようになっていた。
星奈さんとも話す機会が多くなり、僕としても確実に学園生活が楽しくなったと言える。
初吉さんの言葉遣いがクラスメイトに対しても丁寧なのは、かなり大きなお屋敷に住むお嬢様だからだということ。
鯖月と中和田さんはやっぱり仲がよくて、どう考えてもつき合っているようにしか見えないのに、本人たちはどうしてもそれを認めないこと。
小松さんの両親は画家で、その娘である小松さんも期待されていたのだけど、本人いわくまったく才能がないこと。
などなど。
普段の他愛ない会話の中でも、お互いのいろいろな事情がわかってくる。
もちろんそれは嫌なことではなく、むしろそこが自分の居場所となるように、自分という存在が溶け出して染み込んでいくような、そんな感覚で心地よくすら思えた。
それは、以前は心を閉ざしていたという星奈さんにとっても同じだったようだ。
若干遠慮がちにではあるけど、グループ内で繰り広げられる話に参加して笑顔を見せていた。
ふと視線を向けると、そんな星奈さんの様子を見て、小松さんが満足そうに優しげな笑みを浮かべていた。
星奈さんのことをどれだけ心配していたか、今の状況をどれだけ喜んでいるか、手に取るようにわかった。
そうやって集まるのも、授業の合間の休み時間と、お弁当を広げる昼休みだけだった。
放課後になると、みんな不思議なほどあっさりと教室から出ていってしまう。
まぁ、部活に入ってる人もいるわけだし、そうでなくても早く帰りたいというのもわかる。
きっと鯖月と中和田さんはデートなのだろう。
当然ながら、本人たちは「単に一緒に出かけただけでデートじゃない!」なんて言って否定するだろうけど。
鳥河はいつもどおり、いつの間にかいなくなっていた。
そして、小松さんと星奈さんも、授業が終わるとすぐに教室から出ていった。
小松さんはテニス部だったはずだから、部活に向かったのだろう。
星奈さんは、『家』に帰ったのかな?
小松さんや初吉さんたちと仲よくはなったけど、星奈さんの『家』のことやレイ子さんの存在については話していない。
星奈さんがあの場所に住んでいるというのは、みんなも知っているはずだ。でも、あえて話題にしないようにしているのだろう。
僕や星奈さんからも、わざわざ語ったりはしなかった。
星奈さんは訊かれたら答えるかもしれないけど、僕が勝手に話してしまっていい話題ではない。
午後の授業が終わったばかりの放課後。
今は桜の咲き乱れる春。この時間だとまだまだ暖かかった。
星奈さんにはまた行くと言ったけど、毎日『家』に押しかけるのはやっぱり迷惑だろうか?
僕はどうしようか迷っていたものの、それでもそのまま帰ろうという気にはなれなかった。
昨日のことを思い出したからだ。
――あれは、校庭だったよね。
自然と足は校庭に向けられていた。
ここ桜草学園は初等部・中等部・高等部が同じ敷地内にある。
といっても、校舎は別々になっていて、校庭もそれぞれで分かれていた。
状況によっては、例えば高等部の生徒が中等部の校庭を使ったりすることも可能ではあるのだけど、許可をもらう必要があるため、普通は高等部の生徒なら高等部の校庭を使う。
だから僕が普段使っている校庭も、高等部の校庭ということになる。
昨日見た光景は、薄暗くてわかりにくかったけど、その高等部の校庭に間違いなかった。
だけど、あれだけの巨大な物体がいたというのに、まったく騒ぎになっていない。
その疑問がずっと頭から離れなかった。
夜も遅い時刻になっていたのだから、生徒は残っていなかったかもしれない。先生方だって、通常なら夜九時くらいには帰っているだろう。
そうであっても、用務員のおじさんや宿直で残って見回りをする先生なんかは、いたりするものじゃないだろうか?
仮に見回りの時間からずれていて気がつかなかったとしても、あれだけの巨体だったら、なにかしらの痕跡は残っているに違いない。
それに、都会というほどではないけど、住宅街の中に建てられた学校なのだから、あんな物体がいて激しい戦いがあったのなら、誰かに目撃されていてもおかしくはない。
だいたい、魔流の咆哮や繰り出した腕が地面を打つ音、星奈さんが発していた光がヤツを切り裂く音だって周囲には轟いていたはずだ。
星奈さんとつないだ手から鮮明な映像が僕の頭の中に流れ込み、それらの音も僕にはしっかりと聞こえていたのだから。
それなのに、まったく誰にも気づかれないというほうが不自然に思える。
そんなことを考えながら、僕は校庭へと足を踏み入れた。
部活に励む生徒たちの元気な明るい声が、青空のもとで響きわたっている。
そこに、異変はない。
魔流が沈み込んだはずの大穴はもとより、ちょっとした焦げ跡なんかも含め、まったくなんの痕跡も見受けられなかった。
――どういうことだろう? あれはやっぱり夢だった?
いや、そんなはずはない。
僕は自分の手のひらをじっと見つめる。
星奈さんとつないだ手の温もりが、リアルに思い出された。
さらには、そのつながりによって生じた感覚と流れ込む景色、音、光――。
確かに信じがたい光景ではあった。
それでも、あれが夢や幻だったとは、どうしても思えなかったのだ。
もし夢や幻だったとしたら、星奈さんもレイ子さんも嘘をついていたことになる。
と、不意に違和感を覚えた。
違和感、というか、これは視線――?
周りを見回すと、部活に打ち込む生徒や校庭に向かって歩いてくる生徒がちらほらと見える。
でも、誰も僕のほうに視線を向けてはいなかった。
変だな……。
そう思って首をかしげているそのときには、もうすでに違和感も消えていた。
……気のせいだったのかな?
校庭に向かう生徒が、立ち尽くしている僕に不思議そうな視線を向けながらすれ違っていく。
ここにいても邪魔になるだけだ。
カバンは持ってきていたけど、やはり帰る気にはなれず、とりあえず僕は校舎内へと戻ることにした。
☆☆☆☆☆
「お~富永じゃん、ちょうどよかった!」
校舎内に戻るやいなや、鳥河から声がかかった。
「お前、まだ残ってたのか」
「ちょっと新聞部に顔を出してきた帰りさ。それより、面白いことを発見したんだ!」
そう言うと僕の腕をつかんで走り出す鳥河。新聞部の血が騒いでいるのだろうか、かなり興奮気味に見える。
なにがなんだかわからなかったけど、僕はその勢いにつられて一緒に走っていくしかなかった。
「ほら、あそこ。見てみろよ」
鳥河が指差した先は、中庭の花壇のある部分だった。
そこには、
「なんだ、あれ?」
よくはわからないけど、なにかぼやけた感じに見える妙な空間があった。
ともあれ、目を凝らしてみてもなにもない……???
「なにかがあるわけじゃなくて、なんだろう……空気が、歪んでる?」
「ああ、そんな感じだ」
確かによくよく見てみれば、花壇の一部の風景が歪んで動いているような感じだった。
どうなっているのだろう? 目の錯覚かなにかなのだろうか?
「それだけじゃない」
ガラッ。
鳥河はおもむろに窓の鍵を開け、一気に開け放った。
「……あれ?」
開け放たれた窓から見える景色は、さっきの花壇のままだったけど、今度はまったく歪んだりしているようには見えなかった。
動かされた窓のほうも見てみたけど、そちらにも異変はなにも見当たらなかった。
とすると――。
今は動かされて別の方向を透かしている窓のほうに注目する。
ちょっと見る位置をずらし、その窓を通してさっき歪んでいたのと同じ場所を改めて眺めてみても、まったく歪んだ空間なんてなかった。
「どういうこと?」
「さあな、俺にもよくわからないが……」
そう言いながら、鳥河は再び窓を閉める。
すると、
「あっ」
閉じた窓を通した向こう側の花壇には、やはり再び歪んだ空間が発生し、なにやらうごめいているのがはっきりと見て取れた。
「こんな感じで、こっち側にある状態の窓を通したときだけ、あの歪みが見えるみたいなんだよ」
鳥河はさらに、一枚の写真を僕の目の前に差し出した。
写真といっても、どうやらデジタルカメラで写した映像をプリントアウトしたもののようだったけど。
そこには、今僕の目の前にあるのと同じ風景が写っていた。そして、その写真の中に見える花壇も、やはり歪んでいた。
デジタルなデータなのだから、現像時のミスで偶然写ったように見えただけ、ということもありえない。
もっとも、データに手を加えたという可能性は残るけど、
「写真に撮ってもこのとおりだ。原因はわからないが、新聞部魂がうずいてくる。桜草学園七不思議のふたつめはこれで決まりだな!」
とても嬉しそうな笑顔で熱く語っている鳥河を見る限り、それもないだろうと思えた。
どうでもいいけど、この活き活きとした笑顔……。
新聞部員という生き物は、こういうものなんだな。
「……って、ふたつめ? ひとつめってなに?」
「そりゃお前、特別教室棟東側の階段下のお化けで決まりだろ!」
……レイ子さんの存在って、実はすでに結構知られているのだろうか?
あの人のことだから、あまり気にせず人前に出そうだとは思うけど……。
「でも、これがふたつめって、残りの五個は?」
「それは、まぁ、これから頑張って探すってことで……」
一気にトーンが下がり弱気な声になる鳥河。
以前聞いた星奈さんの両親の事件から続いていたという怪現象は、不思議と詳細な話が残っていないものが多く、今現在では目撃されることもなくなっているのだという。
「ま、ともかく。これは久しぶりのスクープだ! 帰って記事を書かないと!」
再び興奮を取り戻した鳥河は、意気揚々とスキップしながら昇降口を目指して走り去っていった。
帰るなら僕と一緒に門まで行けばいいのに。
そう考えて、ふと気づいた。
あれ? ここって、特別教室棟のすぐそばじゃないか。
ここからなら、星奈さんの『家』も近いな。
迷惑かもしれないとは思ったけど、やっぱり気になっているのは事実だ。
それに、単純に星奈さんと会いたかった。
――行ってみよう。
僕の足は、自然と階段下のあの場所へと向かっていた。