ステップ10 うらめしや? 桜舞い散るこの想い
「な……っ!? でかい……!」
砦型の魔流は、さっき教室で遭遇したときよりも明らかに巨大化しているように見えた。
「なんとか私の力でここまで誘い込んだのよ」
とはレイ子さんの言葉。
だけど、
ドォォォォォォォォォォン!
砲台から放たれる砲弾の轟音が響く。
そのサイズも舞い上がる煙も、さらには、
ドガァァァァァァァァァン!!
爆発も、確実に大きくなっていた。
あんな砲弾の直撃を受けたら、間違いなく即死するよ!?
「でっかくなってるじゃないか! ここに誘い込んだのって、失敗だったんじゃ!?」
思わず叫んでいた。
「巨大化するのは仕方ないのよ、空間的な閉鎖制約がなくなるんだから! それに、詩穂の力が発揮できる場所って限られてるのよ! どこでも戦えるわけじゃないの!」
レイ子さんが反論する。いわゆる不可抗力というやつか。
それならば星奈さんに頑張ってもらうしかない。
もちろん僕も、星奈さんとともに頑張る。
最初に見た魔流だって、今のヤツに負けないくらい巨大だった。
今回だって、どうにかなるはずだ!
そんな決意を吹き飛ばすかのように、砲撃が僕たちに襲いかかってきた。
手を離し、僕たちはふた手に分かれる。
星奈さんはセーラー服をひるがえし、空へ舞い上がった。
ひらりひらりと身を揺らし、集中的に放たれる砲撃をかわす。
僕には星奈さんに力を送る補助の役割くらいしかない。
安全な場所に隠れて状況を見守る、それだけしかできなかった。
情けなく思うけど、それは仕方がない。
それにしても、幽体としては手を離しているのに、実際には――すなわち僕たちの本体は手をつないだままなんだよね。
ちょっと不思議な感覚だった。
ただ、手のひらに神経を集中すると、ほのかに星奈さんの手の温もりは感じることができた。
うん、離れていても僕たちはつながっているんだ。そう再認識した。
魔流の砲撃は、星奈さんへ向けて矢継ぎ早に放たれ続ける。
それを素早く避けながら、星奈さんは手のひらから光を放つ。
いつもどおりの『削り』。
光は簡単に弾かれているように見えるけど、少しずつ着実に、魔流の力を削っているのだ。
でも……やっぱり不利だ。
砲撃はすべて星奈さんに向かう。
教室では標的が六人いた。六人に向けて放たれる砲撃は、全体の六分の一ずつだった。
それに対し、今はすべての砲台が星奈さんひとりを狙っている。
当然ながら、砲台が伸びているのは砦の一方向だけではない。
すべての砲台が同時にひとりを狙えるわけではないけど、それでも多くの砲弾が星奈さんに襲いかかっているのは間違いない。
しかも、その砲弾はさっきまでとは比べ物にならないほど、強力な殺りく兵器と化している。
星奈さんの小さな体は、着弾した砲撃の爆風だけで、いともたやすく吹き飛ばされそうになっているのが、遠目で見ている僕からでもよくわかった。
「今のままじゃ、ヤバいんじゃない? 早いうちに僕の力を送って、決着をつけてしまったほうが……」
「それは、ダメ」
僕の提案に、レイ子さんは首を横に振る。
……今の幽体の状況では、実際にレイ子さんの姿を見ることはできないわけだけど。
「あの子が自分の力で光を放ってちまちま攻撃しているのは、いわば魔流の『鱗』をはがしているようなものなのよ。いくらあなたの力が強くても、一撃で魔流が身にまとう鱗を突き破ることはできない。だから、連発できる詩穂のか細い光の力で鱗をはがしてから、あなたの一撃で魔流を沈める。それしか手はないの。だから、今は耐えて!」
その言葉は星奈さんへも届いていたのだろう。
彼女は砲撃を避けながらも叫ぶ。
「れーこちゃんの言うとおりだよ。ここは任せて。富永くんの力が必要になったら呼ぶから!」
「……わかった。星奈さん、頑張って!」
「うん!」
砲撃は、止むことなく続いていた。
星奈さんの放つ光の攻撃も次々と繰り出され、ひたすら魔流の体にかすり傷をつけていく。
とはいえ、ヤツが大きすぎるからか、なかなか鱗をはぎ落としきれない。そんな状況なのだろう。
星奈さんの額にも玉のような汗が色濃くにじむ。
呼吸も荒くなっていた。さすがに、これ以上は厳しそうに思える。
それでもまだ、僕の力は必要ではないというのか?
僕は今にも飛び出していきたい思いを必死に堪えていた。
星奈さんが僕を必要だと判断するまで、ひたすら待つのみ。
そこで気づく。
身を隠れているのは確かだけど、僕はなぜ魔流から攻撃されないのだろう?
考えてみたら今までもそうだった。
僕はいつも近くで星奈さんの戦いの様子を見ていた。
つないだ手のひらから映像が流れ込んでいるように考えていたけど、実際には星奈さんが戦っている姿を、その周りから見ているような視点だった。
星奈さんが見ている場面が僕にも見える、というわけではないのだ。
前回の戦いの際、レイ子さんは言っていた。僕の幽体も星奈さんが戦っているそばにいる、と。
それなのに僕は魔流の攻撃を受けたことはない。
とすると、僕が飛び出しておとりになれば、砲撃の的が増えて星奈さんが楽になるのでは。
そうだ、そうに違いない!
僕は、迷わず飛び出していた。
「……富永くん!?」
星奈さんが驚愕の表情を浮かべる。
「な……なにやってるのよ、あんた!?」
レイ子さんの慌てる声も聞こえた。
「僕がおとりになるよ! そうすれば少しは楽に……」
言葉を言い終える前に、砲弾は僕のすぐそばで爆発した。
「うぁっ!?」
爆風は、僕の体を吹き飛ばす。
あれ? なんで!? 僕は攻撃を受けないんじゃないのか!?
「そんなわけないじゃない! 魔流は自分に対する敵対心や恐怖心に反応するの! あなたは今まで、自分がその場にいるってことを意識してなかったから、映像をただ見てるだけのように感じていたから、魔流に気づかれずに済んでいただけなのよ! ヤツに敵対心をむき出しにしている今は、恰好の標的になってるだけなのよ!」
「富永くん、逃げて!」
星奈さんが悲痛な叫び声を上げる。
僕は必死に走った。
背後で砲弾が爆発し、僕の体はそのたびに宙を舞う。
痛みが全身を貫く。
致命傷を受けなかっただけ、運がよかったと言えるのかもしれない。
まだ、走れる。
「そうよ、早くもっと遠くへ……きゃあっ!」
ドォォォォォォォォォン!
僕のほうに意識を向けて隙ができていたのだろう、星奈さんが、直撃こそ免れたものの、爆風に吹き飛ばされ地面に叩きつけられてしまった。
「星奈さん!!」
「うっ……。わ……私は大丈夫だから、富永くんは早く、安全な場所まで……!」
そう言いながらも星奈さんの顔は苦痛に歪んでいた。
そんな星奈さん目がけて、砲撃は容赦なく襲いかかる。
バッ!
すんでのところで飛び退り、その場を逃れる星奈さん。
今度は爆風の影響もあまり受けず、どうにか体勢を立て直し、再び魔流への削り攻撃を再開する。
ほっ……。
安堵の息を吐く。
ともあれ、僕は自分の浅はかさを呪った。
勝手な思い込みで星奈さんに心配をかけ、危険にさらしてしまった。
やっぱり僕は情けない、ダメな男なんだ。
「まぁ、説明不足だった私のミスでもあるわ。べつにね、情けなくなんてないの。あなたの力は強い。あなたがいなければ、こんなに頻繁に現れるようになった魔流に対応できなかった。問題は、役割を理解していなかったことだけ。だからあなたは、自分の役割をしっかり理解して、出番を待てばいいの。それは決して情けないことじゃないわ。勝つために必要な、作戦の一部なのよ」
レイ子さんが、僕を励ましてくれているのか、それとも冷静に状況を伝えているだけなのか、そう言った。
僕は倉庫の裏手まで回って身を隠し、黙って頷く。
今は僕が動くときじゃないんだ。
ただ黙って状況を見守る。
ここまで離れれば問題ないかもしれないけど、なるべく魔流に対する敵対心や恐怖心を表さないようにしながら。
一度意識してしまっているから、それはなかなか難しかった。それでも、僕はどうにか精神を落ち着かせるよう努める。
星奈さんは、さっきの爆風で擦り傷くらいは負ったに違いない。
だけど、今ここから見る限りでは大した影響もなく、上空を飛び回って魔流を翻弄していた。
うん、いい感じだ。
「えいっ、えいっ!」
声を上げながら、星奈さんが光を放つ。
光は魔流にぶつかって弾ける。
どれだけの時間、そうやって削り続けていただろう。
しばらくすると、砲撃の頻度が少なくなってきた。どうやら砲台の一部が機能しなくなっているようだ。
もうそろそろか?
僕は星奈さんをじっと見つめる。彼女もこちらを――見た。
「富永くん! お願い!」
「了解!」
ぎゅっ。僕は、握った手に力を込める。
微かに湿った手のひらの温もりに包まれながら、僕の中にある力が星奈さんのへと向かって流れ出すのを感じた。
「行くわよ!」
「うん!」
星奈さんが両手を前方に――魔流に向けて掲げる。
その両手から大きな光の奔流が解き放たれる。
激しい閃光、響き渡る雷鳴のような轟音。
それらがただ一点、魔流の中心に向けて収束し、大爆発を起こしたかのように、周囲にあるすべての物を光の渦の中へと巻き込んでいった。
グォォォォォォォォォォォォォ!!
砦が崩れる音なのか、それとも砦に宿っていた魔流自身の断末魔の叫びなのか。
判断のつかない轟音の洪水の中、僕はぎゅっと星奈さんの手を力強く握りしめながら、事の成り行きを見守っていた。
光は再び収束を始め、球状に広がっていた光の渦はその半径を縮めていく。
その後、訪れたのは、闇。そして静寂。
校庭にはなにも残っていない。
夜の校庭の景色が静かに広がるのみだった。
――あれ? 星奈さんは?
僕の胸が不安で埋め尽くされる。
まさか、あの光の渦に一緒に呑み込まれてしまったのか……?
そんな不穏な考えを思い浮かべる僕の肩に、そっと手の触れる感触があった。
「終わったよ」
振り返れば、汗まみれになった星奈さんが、疲れた表情を浮かべながらも僕に微笑みを向けていた。
☆☆☆☆☆
戦いを終え、意識が本体に戻った僕と星奈さんを、クラスメイトたちが呆然と見つめていた。
考えてみたら当然だ。
みんなには校庭での戦いは見えていなかったのだから、状況がわかるはずもない。
僕と星奈さんが手をつないで、汗をにじませた星奈さんがうめき声を上げたり、僕が星奈さんに話しかけたり、レイ子さんがなにか叫んでいたり。
その内容だって、みんなにはよくわからなかっただろう。
全体の話としては長くなりそうだったので、全員に座布団を配り、しっかりと腰を落ち着けてもらう。
そののち、まずはついさっきの状況を簡潔に説明した。
星奈さんの額から飛び出した光は彼女の幽体で、僕も手をつないで一緒に飛んでいったこと。
レイ子さんが校庭にさっきの砦型の魔流という化け物をおびき出し、僕と星奈さんはそいつと戦っていたこと。
その魔流を退治してきたこと。
それらは嘘偽りのない真実ばかりだったのだけど、そう簡単に信じられる内容ではない。
みんな、半信半疑といった表情で曖昧に頷いているだけだった。
ただひとり、初吉さんだけは最初から不思議そうな表情も見せず、わずかに微笑みをたたえたまま無言で頷いていた。
なんとなくわかっていた、そんな表情にも思える。
前に言っていたように、陰陽師の力だとかが、初吉さんには本当にあるのかもしれない。
「それじゃあ、もう少し詳しい解説をしましょうか」
僕がクラスメイトへの説明を終えると、レイ子さんがそう言って説明の役を継いだ。
改めて詳しい解説を加えると宣言したことからも、僕や、もしかしたら星奈さんすら聞いていない内容なのだろうと予測できた。
「私は、なんとなく知られてはいたみたいだけど、噂になっていたこともある幽霊よ。過去にこの学校の生徒だったんだけど、この学校内で死んで幽霊になったの。名前もちゃんと覚えてる。楽里桜、それが私の名前」
「レイ子さんってのが本名じゃなかったんだね」
「うん。幽霊だかられーこちゃん、なんて、詩穂のネーミングセンスも微妙よねぇ」
「うぅ……」
星奈さんは、反論しようにもできない、といった表情でうつむいていた。
「この階段下の場所は、私が死んだ場所。……いえ、正確に言うわね。私が、殺された場所。……魔流によって、ね」
殺された……。それは穏やかではない。
そりゃあ、幽霊になるってことは、未練があってそうなる場合がほとんどだろうから、考えていなかったわけではないけど。
それでもやっぱり、複雑な表情になってしまう。
「ま、殺されたことに関しては、あまり深く考えなくてもいいわ。今さらどうにもならないわけだしね」
レイ子さんは――いや、桜さんは、さらりと言う。
でも、最初から納得していたわけではないだろう。桜さんの寂しげな表情からもそれはうかがえる。
そう悟りきるまでに、いったいどれだけの苦悩があったのか……。僕には想像もつかなかった。
「でね、私は魔流によって殺された。魔界の力のせいなのかな、私はこの場所の、殺された時間に縛りつけられた。私は過去で死んだまま、時間の止まった存在なのよ」
えっ? 過去で死んだまま、時間の止まった存在?
だけど現に、今ここに桜さんは存在しているじゃないか。
「今ここにいる私は、私であって私ではない……。わかりにくいわね。つまり、過去に縛られている私は、思念の強さだけで、過去のこの場所から未来であるこの時間のこの場所へと空間的につながっているの。だから私は、今現在の時間軸だと、基本的にこの場所にしか存在できない。さっきの教室への転移は、かなり消耗の激しい行為だったのよ。ま、仕方がなかったんだけどね。詩穂や富永くんを死なせてしまうわけにはいかなかったから」
桜さんは目を伏せる。
ここに戻ってきたときには、傷ついて疲れ果てた状態だった桜さん。それなのに、今はいつもと変わりないように思える。
それは、ここが過去の自分とつながる場所だからなのだろう。
桜さんについては、これでなんとなくわかったような気がする。
とはいっても……。
僕は疑問に思っていることがあった。
「どうして星奈さんが戦うの? この場所にたまたま住むようになったから?」
僕の問いに、桜さんは首を横に振って答える。
「いいえ。詩穂がここに住んでいるのは、いわば必然なの。……その辺りは、詩穂本人から話してもらったほうがいいかな?」
桜さんはちらりと視線を星奈さんに移す。
星奈さんは一瞬戸惑っていたけど、やがて小さく頷き、話し始めた。
「私はこの学校の以前の理事長の娘なの。それは知ってる人も多いかもしれないけど」
頷くクラスメイトたち。
「当時、理事長だったお父さんと副理事長だったお母さん、それにその娘である私の三人で、理事長室に住み込んでいた。まだ私が初等部に通っていた頃の話よ。ある夜、その理事長室の奥にあるもうひと部屋、そっちが寝室になっていたんだけど、そこに侵入してきた人がいた。その人は、お父さんとお母さんを……殺したの」
そこまで話したものの、星奈さんは顔を両手で覆って涙を堪えている様子だった。
心の整理がついていたからこそ、話し始めたに違いない。それでもやはり、口に出してしまうと耐えきれなかったのだろう。
星奈さんは懸命にその悲しい思いを振り払い、小さな声ではあったけど力強く言葉を続けた。
「さらに侵入者は、私にも襲いかかってきた。私は必死に逃げた。でも侵入者は追いかけてきたの。私にはその人の顔は見えなかったけど、相手にしてみたら窓から漏れていた月明かりで私の顔が見えていたはず。だから相手は顔を見られたと考えて、私を殺そうと執拗に追いかけてきたんだと思う」
みんな、黙って星奈さんの話を聞いていた。誰も声を挟むことなんてできない、そんな雰囲気だった。
「私は理事長室から逃げ出して、どうにか階段下のこの場所まで逃げてきたんだけど、転んで追いつかれてしまった。そして私は……」
そこで一旦言葉を切り、星奈さんはうつむいてしまう。そのままポツリと、こう続けた。
「殺されたの」
みんな、驚きの表情を浮かべていた。
目を伏せてしまった星奈さんに代わり、桜さんが言葉を継いで再び話し始める。
「まぁ、正確には殺されかけた、ね。詩穂に刃物を振り下ろした奴は、完全に殺したと思ったでしょうけど。その場からすぐに走り去った。その後、私は詩穂の様子をうかがってみたの。気を失ってはいたけど、息はあったわ。もっとも、そのままでは死んでしまうのは明らかだった。だから私は、自分の霊力の半分を詩穂に分け与えて助けたの。それによって私とのつながりが生まれた。詩穂の半分は私自身と言ってしまってもいいかもしれないわね」
星奈さんに向けられている桜さんの視線は、とても温かな感じだった。
「私自身は過去に縛られている身。だからこそ、詩穂に頑張ってもらうしかないの。命を助けたとはいえ、巻き込んでしまって悪いとは思っているのだけどね」
星奈さんは、まだうつむいたままだった。
真実は今話したとおりなのだろう。クラスメイトの誰も、声を発することができなかった。
僕もみんなと同じように、声を出せずにいた。
ただ僕には、少し違った思いも頭に浮かんでいた。
星奈さんの話……。
どこかで聞いた、というか見た気がする。
その、見た、という考えで、完全に思い出した。
少し前に見た夢……。
所詮は夢。といっても、あまりにも状況が似すぎている。
あの夢はいったい……。
そんな僕の思いを遮るかのように、桜さんは言葉を続けていた。
「さっきの化け物のようなもの、魔流って呼んでいるあいつらは過去にいるの」
え……?
「詩穂が幽体となって飛んでいった先、校庭とか中庭とかが多いけど、それらの場所は過去の時間軸にある校庭や中庭なのよ。『ある人』が魔界との接触を持ってしまったせいでこちら側に流れ込んでしまった魔物、それが魔流。それらは過去の時間軸、私がまだ殺される前の時間に現れた魔物なの。詩穂には過去へと飛んでもらって、魔流を退治する役割を任せていたってわけ」
どういうことなのか、いまいちよくわからなかった。
僕も一緒に星奈さんの幽体とともにその場に行っていたはずだ。
とすると、僕も過去へと飛んでいたというのだろうか?
「うん、そうよ。富永くんも過去へと飛んでいた。魔流との戦いで校庭に痕跡がなかったのは、その戦いが遙か過去の出来事だったからなのよ」
桜さんが生きていた時代は、正確にどれくらい前なのかまでは把握していないみたいだけど、おそらくは数十年ほど前だという。
魔流が過去で暴れることによって、その後の未来の時間軸すべてに影響を及ぼす。それが魔界の力だった。
放っておくと、この学園の未来が消滅するどころか、こちら側とのつながりが完全に確立されてしまえば魔界から無数に魔物たちが流れ出し、やがて世界は滅亡へと追い込まれてしまう。
だからこそ、星奈さんが過去へ行って、魔流という歪みのもとを断ち切っているのだ。
星奈さんがセーラー服姿なのは、過去の時間軸ではこの学園が中学校だったからだった。
その時間軸になじむため、その姿になっているのだとか。
今の中等部の制服と似てはいるけど、よく見ると細かいデザインは違っているらしい。
「いくら過去に飛んで魔流を退治したとしても、すでに過ぎてしまった過去は取り戻せない。つまり私自身の死や、詩穂の両親の死を回避することは残念だけどできないの。でもね、未来は変えられる。ううん、変えなくちゃダメなのよ」
その桜さんの言葉には、強い意思が込められているように感じた。
「……星奈さんは過去で戦っている。魔流の存在は過去のもの。それは理解致しました」
これまで黙って冷静に話を聞いていた初吉さんが、不意に口を挟んできた。
「それでは、先ほど教室に現れたあれは、いったいなんだったのですか?」
そうだった。
僕と星奈さんは過去に飛んで魔流と戦って、退治してきた。それは、サイズこそ違ってはいたけど、さっき教室にいた魔流と同じだと考えていた。
そもそも、その認識自体が間違っていたのだろうか?
「いえ、同じ魔流という認識で合ってるわ。私も驚いたんだけど、どうやら今現在の時間軸にまで影響を及ぼし始めているみたいね。もともと夜だけで、頻度もそれほど多くなかった魔流の出現が、このところ回数も増えて毎晩のように現れているし、昼間にも影響が出始めているから、ヤツらも本格的に始動したと考えておいたほうがいいと思うわ」
思ったよりも、大変な戦いになりそう。桜さんのそんな弱々しい声が響いた。
それぞれに頭の中で状況を整理しているのか、重苦しい沈黙が続いていた。
そんな中、ふと初吉さんが廊下のほうを指差して、こうつぶやいた。
「あれ? 今あそこの陰の辺りに、誰かいたような……?」
瞬時に身構える。
もしかして、魔流!?
「……いいえ、魔流ではないわね。もし魔流なら、私が存在に気づかないはずないもの」
桜さんがそう断言する。
とすると、誰かに今の話を聞かれていた……?
昨日星野さんに見られていたのと同じように、忘れ物をした生徒が僕たちの声に気づいて見ていた、というのもありえる話だろう。
もしそうなら、魔流に目をつけられる可能性もある。さっきの桜さんの話を聞く限りでは、昼間だって安全ではなさそうだ。
「ちょっと見てくる! 翼、行くよ!」
「あ……ああ」
中和田さんは鯖月を無理矢理つき添わせ、廊下へと駆け出した。
家庭科室、被服室のドアが閉まっているのを確認し、廊下の奥へと向かう。
曲がり角から廊下の先や階段を見渡してはみたものの、どうやら異変は見つけられなかったようだ。
ふたりは収穫もなく、とぼとぼと戻ってくる。
「……どうやら私の気のせいだったみたいですね。お騒がせして申し訳ありませんでした」
謝罪の言葉を述べる初吉さんではあったけど、あまり納得している様子ではなかった。
それは、僕にしても同じだった。
なんとなく違和感があったのは確かだったのだ。
とはいえ、今ここで追及しても仕方がないだろう。
もし誰かが見ていたのだとしても、見間違いだと思って意識しないでいてくれれば、魔流からは目をつけられないかもしれない。
今はそう願うことにしよう。
「ところで、先ほどのお話に出てきた、『ある人』っていうのは誰なんです?」
気持ちを切り替えたのか、初吉さんがそう尋ねた。
「地井太一っていう男よ。私も含めて仲よし三人組のひとりだった」
「三人組?」
「ええ。私と、その男と、もうひとりの三人でいつも一緒だった。この学校、昔は今みたいな総合学園ではなくて、普通の中学校だったのよ。私たち三人は、その前からずっと……幼い頃から一緒だったのだけどね」
当時を思い出しているのか、遠い目をした桜さんが穏やかな声を響かせる。
「もうひとりっていうのは?」
「……草枕熊作さん。私と、その……恋仲だった人よ」
ぽっ。
桜さんは頬を赤らめながら言う。
ちょっともじもじしている仕草が、普段の雰囲気とは随分と違って可愛らしく思えた。
「熊作って、すごい名前だな」
鯖月は思わず口にしていたのだろう。その声に敏感に反応する桜さん。
「うるさいわね! そりゃあ、今どきの名前じゃないだろうけどさ! でも熊作さんは、すっごくカッコよかったのよ!」
必死に言い返している。
ほんとにその熊作さんって人が大好きだったんだな。それはよく伝わってきた。
「とにかく三人組のひとり、太一が、魔界とつながる魔法陣を校庭に描いて、魔流を呼び出してしまったのよ」
理由は……なんとなくわかる気がした。
仲よし三人組のうちのひとりが女性、残りのふたりが男性。
桜さんは熊作さんと恋仲だったと言った。
相手を異性として意識し始めるとしたら、やはり中学生くらいだろう。
その三人組のうち、ふたりがあるときからつき合い始めた。
そうなった場合、残りのひとりはどう思うか……。
もちろん他に好きな人がいたり、まだそういった感情を持っていないならば、素直に祝福するというのもありえる。
でもおそらく、その太一という人も、桜さんに対して恋心を抱いていたのではないだろううか。
それなのに、ふたりがつき合い始めてしまった。
逆恨みでしかないけど、熊作さんと桜さんを恨んで、すべてを壊してしまいたいという衝動に駆られ魔法陣に頼った。
そういうことだったのだと考えれば、すべて説明がつく。
桜さんはそのことについてなにも語らなかった。
まだ三人でこの中学に通っていた当時、桜さんのほうも心苦しさを感じていたのかもしれない。
「太一の魔法陣から呼び出された魔流によって、私はこの場所で殺された。それからあとのことはよくわからないけど、どうやら太一は行方不明になってしまったらしいわ。熊作さんのほうは生き延びて、のちにこの学園の理事長になった。そのときに小中高と一貫した総合学園へと変わったんだけど、私の名前と熊作さんの名字から、今の『桜草学園』という名称に変更したという話よ」
僕たちは、誰も喋ることができなかった。
ある程度気持ちの整理はついているみたいではあったけど、桜さんの話は僕たちには重かったのだ。
「とまぁ、そんな感じなんだけど。やっぱり信じられないかなぁ? ふふふ。仕方ないとは思うけどね」
ニコッと明るく笑う桜さんに、それでも僕たちは言葉を返すことができない。
「ま、いいわ。ほら、今日はもう遅いから、みんな帰りなさい」
「……わかりました。長々とお邪魔致しまして、申し訳ありませんでした」
初吉さんが丁寧に会釈をして立ち上がる。
それにならって中和田さん、鯖月、小松さんも帰り支度を整える。
「今日は、富永くんも帰りなさい。何日も外泊が続くのはマズいでしょ? それに、詩穂とふたりで話したいこともあるし」
桜さんに促され、僕は素直に従うことにした。
星奈さんは……なにも言わない。だけど、思い詰めているような表情でうつむいていた。
僕は、
「それじゃあ、またね、星奈さん」
とだけ声をかけた。
返事は期待できないかな、と思っていたのだけど。
「うん、また明日……」
小さな声ではあったものの、星奈さんはそう答えてくれた。